ベートーベンのハンマークラヴィア

皆さん、いかがお過ごしでしょうか? こうして年に数回の御手紙をしたためていると、本当に時間の不思議を実感します。 9・11が起こった2001年に初めてのリサイタルをさせていただいてからもう7年半、今年で8年目になるのですね。 最初の頃は、暗譜が本当に怖かった。ショパンの24のプレリュードや、ラヴェルの鏡など、短い曲を探したのを覚えています。その私が今年はハンマークラヴィアを学んでいる!これはもう、サウンドウェーブに育んで頂かなければ在り得なかった一大事で、それだけでも私は嬉しいのですが、そのハンマークラヴィアを日本で弾くか否か、という事が今日のお便りの主題です。 ハンマークラヴィアは50分。  32あるソナタの中でも、名実ともに飛びぬけて大曲です。弾く本人はむしろ時間をかけて消化しているし、曲に対して実際働きかける事が出来るので、むしろ聞く方に更なる気力、体力と心構えを要求する曲かも知れない。 恥ずかしながら私は、初めてこの曲を生で聴いたときは、居たたまれずに途中で会場から避難してしまいました。若手の堅実な演奏で、今から思えば多分とても安全無難な演奏だったのだと思う。私の他にも観客の多くが前後して退場していたのを思い出します。 この曲は逸品と言っても、曲を尊重してただ音を並べてもだめな曲だと思う。 ある程度芝居心、と言うか気を張って「間を持たせる」という事をしないと本当にだれてしまいます。それに挑戦してみたい気も多いにします。武者震いしちゃう。 でも、来て下さる聴衆の皆さんに本当に喜んでいただけるか心配です。 去年のプログラムはとても喜んでいただけました。 デモ、理由の半分は私が始めて「普通」の曲を弾いたから、と言うのは否めません。シューベルトの即興曲や熱情、リストのため息などはピアノ・リサイタルの定番だし、有名だから教材にも良くなるので「昔、音大生だった頃に弾いた」、「娘(或は隣のお姉ちゃん等、)が子供の頃練習していた」等、個人的な連想がしやすい。 要するに、親しみやすいと言うのはどのような理由であれ、どれだけ感情移入がしやすいか、という事だと思います。例えばその前の年に弾いたチャイコフキーの「四季」等はそれほど有名では無いけれど、同じ雪国の日本人の叙情に訴えかけるようなメロディーと、題と詩がそれぞれの曲についてくるので、あるはっきりとしたイメージを持って聴け、感情移入がしやすいのだと思います。 それに比べて、ハンマークラヴィアと言うのは感情、と言うのを超越しているのです。 例えば、私が弾いた四季の8月、9月、10月、11月の中から一番叙情的で私の母の一番のお気に入りだった「秋の歌」は5分弱でした。 ハンマークラヴィアの叙情的な三楽章は20分、ピアニストによっては25分です。 この三楽章は、この世の物と思えない美しさです。 人によってはどん底の悲しさ、と言いますが、私はそういうものを達観してしまった、あきらめと言うか、哀れみというか、兎に角、凄いのです。弾いているときはもう頭の中はぶっ飛んでいます。終わって欲しくない。 バッハの一番複雑なフーガを弾いている時に似た緊張感ですが、同時に陶酔感もあります。 ところがそれがついに終り果てて、感情的にもう出し尽くしてしまった時に、すぐにハンマークラヴィアの中で一番難解、かつ難儀な4楽章が始まるのです。 この4楽章が曲者! 弾くのも難しいのですが、理解するのはもっと難しい。 私は弾けるようになったけれども、まだ完全に理解できていないと思います。デモなんだか分からないけれど、急き立てられるようなエネルギーはドンドン盛り上がり、弾き終わる頃には洋服が汗で本当にぐっしょりです。  私は今まで曲を弾きとおしてこんなに汗を書いたことはありません。ちなみに、初めてレッスンでこの曲を弾きとおした次の日、私は上体くまなく筋肉痛で、びっくりしてダンサーの友達に「ずっと長いこと練習していて、練習では何でもなかったのに本番の後筋肉痛になる事ってある?」と聞いてみました。すると、「本番ではアドレナリンが体内を巡っていて、普段苦しいと感じることに麻痺しているので、普段よりも頑張ってしまい、よって筋肉痛が起こる」と、実に納得の行く回答が帰ってきました。 ハンマークラヴィアは凄い曲です。圧倒的です。 どうしましょう、弾きましょうか? デモ、私がこんなに愛している曲を弾いて、共感してもらえなかったら悲しいです。それに、この曲は弾くのもですが、聞くのも本当に疲れます!これは事実です。ハンマークラヴィアを聞いたあと、電車に揺られて夜遅くお家にたどり着くのは、大変ではないでしょうか? 今年のプログラムにハンマークラヴィアを入れるかどうか悩んでいたら、主催者の方から「ハンマークラヴィアを弾けるのは気力体力技術力、全て整っているときでないと弾けないから、やりたい時に是非弾いた方が良い」と励まされて、今年のプログラムの中心にすえることにしました。 今年も皆様に聴いていただけるのを励みに練習を続けています。 どうぞよろしく!!

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