ハワイではもちろん、海にも行きました。
でも今回のハワイ滞在で一番印象に残ったのは、ハワイ王朝がアメリカに乗っ取られたその歴史と、その意味です。
私は周りの人間が不幸な時に、人間は幸せになれない、と思っています。
そして、世界の資源と言うのは限りあるものだ、と思っています。
貪欲に私欲に走って、一人だけ富を得ても、幸せにはなり得ない。
それは人間のすることではない。
人と言うのは、人が二人寄りかかり合った象形文字です。
『人間』と言う言葉は人の間と書くように、
人間性と言うのは人と人との関係の間にあると思っています。
ところが、今回私が学んだハワイの歴史は
ハワイの富を自分の物にしたかったアメリカ人が
どうしても正当化できない理由とやり方でハワイ王朝を乗っ取った、と言うものだったのです。
きっとそう言う歴史は植民地のどこにでもあるのでしょう。
アイヌや、沖縄はどうでしょう?
俗にインディアンと呼ばれるアメリカ原住民は?
イギリス、ポルトガル、スペインなどに植民地化された南米や東南アジアは?
そして、何が侵略する人たちの自己正当化を助長するのか?
私は、他排的な宗教観と、それから『書く』文化ではないか、と思います。
植民地化された国や文化の多くと同じように
ハワイ語はもともと文字がありませんでした。
書くと言う行為は文化を強く発展させますが、
同時にとても攻撃的にし、そして他の文化に対して不当な優越感を生み出すように思います。
ソクラテスは(5BC)は、こう言う逸話を残しています。
『エジプトの神、文字の発明家Thuethがエジプトの王Hamusに謁見し、エジプトの人々に文字を提供します。でも王は乗り気ではありません。「文字を知ることによって人々は自分の記憶を使うことを辞め、忘れると言う事を魂に刻む。人々は書いてしまうという行為に安心し、自分自身の中に情報を整理することをしなくなり、常に書いた情報に頼ることになる。お前の提示するものは、叡智のように見えるが、そうではない。ただ記録するという行為は、本当に知ったり学んだりすることではない。でも記録したことで知ったつもりになった人々は、他の人々の重荷となるだろう。』
自分の言った事をわざと言っていないと言ったりして、文書にするまで確約をしたことにならない、まさにアメリカに代表される、資本主義の文化です。わざとウソをついておいて「書いて署名することを求めなかった」と相手のせいにする。
私がこの逸話を読んだのは、私の博士論文『暗譜の起源』のリサーチの際です。
西洋音楽も、その音楽を聴いたことが無い人でも楽譜さえ読めればその音楽を再現できるという世界一正確な記譜法を歴史上初めて、そして長い事唯一、発明した音楽です。その為に偉大な発展を遂げたのですが、同時に他の文化の音楽を蝕む結果にもなりました。ハワイ王朝の王族たちの多くは楽器を演奏し、作曲をしています。ヨーロッパの貴族や王族と同じように。しかし、それは西洋音楽の様式で行われています。
ハワイ王朝の悲劇は、王朝が19世紀半ばから、涙ぐるしい努力をしてその憲法や文化を西洋化させることにより、欧米に独立国家として認められようとしたにも関わらず、最終的にアメリカに乗っ取られた、と言うことだと思います。まるで改宗したユダヤ人が、それでもその宗教ではなく血筋のために迫害されてしまったように。ハワイ王朝とその国家はアルファベットをハワイ語に応用し、教育を受け、イギリスやフランスの王族などからは、同じ王族としてしかるべき扱いを受けていました。有色民族としては、初めてだったのではないでしょうか?でも、結局乗っ取られてしまった。その際に、非暴力的な、実に正当な自己防衛をしたのですが、それも完全に無視される形となりました。
その西洋化は、Iolani Palaceの写真からもお分かりいただけると思います。建築家もみんなヨーロッパ人。家具も調度品も、一流とされる欧米の物を調達して作ってあります。大きさこそ私がこの夏マドリッドやベルギーやコーペンハ―ゲンなどで見たものには劣りますが、中は本当に品の高い、素晴らしい王宮です。
文字を他の文化から学んで自分の言語に取り入れた文化、もともと自分で言葉を記録するという行為に能動的でなかった文化と言うのは、私には優しい、自然主義的、運命に対しておおらかに受動的な文化に一般的に見えます。日本もそうでした。日本の鎖国がいかに日本を守ったか。
西洋音楽をやっていることが、時々悲しくなります。
書く、と言う行為が思想を発展させたり、飛びぬけた思考能力の持ち主に特別な力を与えたりします。それは良いのですが、同時に書かない、と言うことにも利点と美徳がある、と言うことをいまこそ見直し、書く文化ではなかったためにこの世界で弱者と成ってしまった文化を見直すのは、良い事だと思います。
私にとってそれはどういうことか。
即興演奏と民族音楽にもう少し触れてみることです。
書くことにより、距離や時間を越えて言葉を伝えることができる、それは強大な力ですが、大きな力は諸刃の剣でもありますね。人の営みのすべてを書き記すことが出来ない以上、「書かれなかったこと」は必ず存在します。その影の部分を心に懸けていないと、書き言葉という道具に逆に使われてしまう羽目になるのかもしれません。
朗読とかStage readingをやると、書かれた言葉が再び肉体を媒介として生命を取り戻すような感覚を覚えることがありますね。
>Shiro Kawaiさん
コメント、ありがとうございました。西洋音楽は記譜法を発明したことにより、他の文化の音楽からかけ離れた発展を遂げた音楽です。そして記譜法を発明したのは、カトリック教会が自分の聖歌を地域の文化に影響されない、世界統一したものとして、統制しようと言う試みのためでした。その結果を私は伝承しているのですが、同時にそれが他の民族音楽(日本の物も含めて)を著しく衰退させた、と言う事実も知っておかなければいけないと思っています。帝国主義と植民地化の歴史の一端ですよね。
ところで、このブログの前の日に書いた「演劇と演奏」では史郎さんの事を書かせていただいています。そちらもぜひ、お読みください。
マキコ