興奮している。素晴らしい本に出会った。
Tia DeNora著「Beethoven and the Construction of Genius」LA, University of California Press,1995
この本の内容は結論で出てくる次の文章に凝縮されている。
「ベートーヴェンの栄光とその栄光に至った音楽史の流れを、ベートーヴェンの音楽の結果だけとして、その創作活動に対する社会背景の影響を考慮しないのは、遡及的誤解である:これは、望遠鏡をさかさまに使っているような物、過去が現在に至るのは不可避だったと誤信を肯定することである。…
天才が社会的に構成されるものだと言う概念について言及する書物は少ない。特殊な天分の持ち主がある芸術分野に於ける論理を急進的に変換することが出来ると言うイメージには力強い説得力があり、解明の試みを拒絶する。例えば、私たちが偉大な物を見分ける判断力があると言う信念も根強い常識の一つだ。…結果、天才が社会的に構成されていく物であると言う歴史的検証はほぼ皆無である。」
To suggest that [Beethoven’s] success, and the particular configuration of music history to which it gave rise, was the result of his music alone and not of the interaction of that music with its context of reception is to employ a retrospective fallacy: it is to see the events of the past through the wrong end of telescope, accepting the belief that the past inevitably “leads” to present circumstances. … P. 188
Little has been written about genius as a social construction. The ideology of genius – that some individuals are endowed with extraordinary gifts enabling them to penetrate and radically transform the logic of their particular intellectual creative field – remains powerful and persuasive in spite of attempts to deconstruct it. The belief, for example, that we know greatness when we see it is a pervasive part of our common sense. …It is perhaps not surprising, therefore, that ethnographically and historically grounded explorations of genius as socially constructed have not yet been produced. P. 189 」
この本を紹介するのを、私の教授はためらった。
「この本は賛否両論なんだ。第一、著者は社会学者であって音楽家では無い。彼女にベートーヴェンの偉大さを正当に評価できる音楽能力があるのかどうか…」
しかし、音楽家(音楽学者も含む)が書く音楽史は
キリスト教信者が書く聖書読解のような物であって、
それが間違っているとは敢えて言わないが、それだけでは視点が偏る。
ベートーヴェンを神聖化する音楽史の動きは、
私はこの論文のリサーチに於いて如実に感じていた。
この本はその背景にある社会的状況と意向の一部を見事に解明していると思う。
この本は1790年から1805年まで、ベートーヴェンがウィーンに行くまでの経緯とウィーンに着いてからその成功を揺るぎない物にするまでの過程のみ、検証している。
そしてベートーヴェンがのし上がる過程に、純粋に音楽の美的感覚のみでは無い、社会的動機が本人の周りにあったと言う視点から当時のデータや文献を読み解いて行っている。
まずこの本は音楽史に於ける、ある常識的な解釈に真っ向から反対している。
「フランス革命に始まる貴族社会崩壊と共に中産階級がのし上がり、啓蒙主義に由来する個人の自由思想の象徴としてベートーヴェンを始めとする、自己表現のための音楽を崇め始めた」とするのが、一般的である。しかし、著者は当時の演奏会の演目などを緻密に調べ、ベートーヴェンは1810年まで貴族の間でのみ公開されていた演奏会でしか演奏されていないと証明する。
ドイツに於いて、フランスなどに見られた社会革命に伴う貴族社会の崩壊は無かった。
しかし社会的・経済的にゆっくりと衰退の道をたどっていた貴族階級がその知性と文化を誇示することで、中産階級と貴族社会を分別するためにベートーヴェンを使った、と言うのが彼女の論旨である。「ベートーヴェンを分からんようじゃ、エリートとは言えんな!」と、こういう感じである。
さらに、ベートーヴェンが幼少の頃苦労したと言うイメージも覆す。
一般的に、ベートーヴェンは幼児虐待の被害者だったと言う風に解釈されている。
宮廷仕えのテナーを父に持ち、給料を家庭に居れずに呑んでしまう父がベートーヴェンを「第二のモーツァルト」にして荒稼ぎをしようと計り、暴力的にベートーヴェンを練習にと追いやる。12歳の若年でオルガにストとして給料を稼ぎ始め、家計の足しにする。
しかし、この本によると父親や11歳から師事していたNeefeなどのお陰でベートーヴェンは貴族階級のコネが非常にあり、このコネのためにその創作活動でどんなに慣習やぶりをしようとも、ある程度ウィーンでの成功を確約されていた。
比較検討のために同時期、同じく父親に音楽教育を受け、ベートーヴェンに勝るとも劣らない成功をおさめたピアニスト・作曲家、Jan Ladislav Dussekが引き合いに出される。マリーアントワネットの寵愛を受けたが革命が起きて、貴族が音楽界に於いて中産階級と同じくらいの消費者パワーしか持たなかったロンドンに行き、そこでベートーヴェンよりも「売れる・一般受けする」音楽を沢山書いて、後世に名を残すこと無かったDussek。
この比較検討でベートーヴェンがいかに経済的・社会的に恵まれていたか、さらにどんなに才能があろうとも社会的条件が整わなくては、「天才」と社会的に受け入れられることは不可能だ、と言う事が納得できる。この本では「モーツァルトの天才をハイドンの指導で受け継ぐベートーヴェン」と言う構図を描くのに加担したハイドンが、宮廷仕えのプレッシャーからそうせざるを得なかったと言う所まで検証は及ぶ。
ベートーヴェンを「難解」とする人はベートーヴェンの生前から今日に至るまで、居る。私だってベートーヴェンを難解だと思う。でもそのベートーヴェンを「裸の王様」で有無を言わずに通してしまう文化が形成された過程が、検証されている。著者が繰り返し言うように、この本はベートーヴェンが偉大では無い、ベートーヴェンの音楽が重要では無い、とは言っていない。この本が言っているのは、他にもベートーヴェンに成り得る可能性を秘めた音楽家は居たけれど(本の後方にはベートーヴェンとピアノ演奏の一騎打ちをしたWolfflも引き合いに出される)、ベートーヴェンがこの座を射止めたのには社会的背景があった、と言っているのである。
ただし、この本は35歳までのベートーヴェンしか検証していない。彼の難聴と失聴、そこから来るヒューマン・ドラマがどのように、現在私たちが持つ神格化されたベートーヴェン像に貢献しているか、読んでみたい。