5月11日の収録時の写真をまずご覧ください。
勿論自分の欲目で選んでいるのですが、この3枚の自分の姿はまあまあだと、自分で思います。ところが主催者が広報用に選んだ写真はこちらです。
この主催者は「演奏者は作曲家のお筆先」という考え方を前押しする傾向があります。この写真の私は目を閉じた横顔。表情も、誰かすらもはっきりしない感じです。更に写真の三分の二がスタインウェイで、写真の中心はスタインウェイのロゴになっています。
しかし、主催者が選んだ写真の自分が被写体として好きになれないのは、主催者の写真選びのせいのみではありません。私はこの時の収録動画の編集段階で(やばい!)と思い、即ダイエットを始めたのです。
そしてトーマス・マン・ハウスでの収録があったのが5月28日。
たかが1kg ちょっと落としただけですが、腹筋運動を多めにし、ドレス選びも着心地以外の要素も考慮し、まあ私なりに頑張りました!うん、こうして比べてみるとそれなりに効果はあったのでは!?
私のこだわりは美人と見られることではなく、視聴者が自己投影をしたいと思える体型・表情・表現をしたい、という事です。だから健康体で幸せそうに気持ちよさそうに弾きたい。
結局のところ、「美人」と言われるのも「ぶす」と言われるのも、同じくらい疎外感を感じます。私は美人と言われたり、過剰に性対象化されたり、逆に「ぶす」とさげすまれ無視されないがしろにされたり、様々な経験しましたが、いずれにしろ自己投影・共感をしない・できない対象として差別されている事に傷つきます。宇多田ヒカルが男でも女でもない「ノンバイナリー」としてカミングアウトしたそうですね。私ももうちょっと若ければ「自分はノンバイナリ―です!」と大声で言っていたかも知れない。結構多くの人が、自分は自分の性別以上の存在だ、「男」とか「女」とかいう社会的枠組みに押し込まないでくれ!と思っているのではないでしょうか。
のび太君もスネ夫もジャイアンもドラえもんも皆共感できるしそれぞれの立場から物語を語れるけれど、しずかちゃんだけが主体性を持たない観察の対象と言う事に疑問を持ったことはありますか?一般的に女性が社会問題として提示する差別、そして感じている疎外感は、結局そういう小さな例からも垣間見られる本当にそこら中にある事だと思います。
人間みな兄弟。あなたの幸せは私の幸せ。人種・年齢・性別・貧富・職業...皆違って皆良い。あなたの人生を歩んでいたら私はあなたと同じ意見と視点を持っていたかも知れない。そんなことは分からない。大事なのは、協力・共存・交歓、そしていつもいつも相互理解の努力をする事ではないでしょうか?皆がそれぞれの立場で胸を張って本領を発揮できる世の中を目指して、私は生きていきたいと思います。世界は一つで、私たちは運命共同体ですから。
お疲れ様です。
主催者は、経済効率性がすべてを優先すると考えます。
人としての情感は、判断しません。
そして、演者に対して優位性を誇示します。
人は、おかれた立場でそれぞれに変容します。
それは、まるでカメレオンです。
しかし、それが、人間です。
小川久男
人間には色々な側面がありますね。
真希子