明鏡日記㉘:執筆にリターン

金曜日の録音が終わったら本の執筆に戻る、と自分に約束していました。今日はエージェントの感想を頂いてから初めて真剣に自分の原稿と向き合いました。

自分で言うのもなんですが、中々よく書けている側面もあります。が、問題がいくつかある。

  • 文章に一貫性が無い
    • 学術的な所と、物語的な所が両極端にある。
    • 学術的な事実をもっと物語に織り込む。
  • 構成が弱い。
    • 前書きに「人間の時間の体験は一直線ではない。だから私の物語も行ったり来たりします。」とか言って、アリバイを創ろうとしているけれど、でも結局余りにも行ったり来たりするので読みにくい。
    • どうして行ったり来たりするかというと、言いたいことでまとめているから。例えば社会的な女性のステレオタイプや性対象化問題が、個人的にマキコのどういう体験に至ったのかを幼児期から10代ごろまで辿った後、次の章で今度は戦後の日本のピアノブームの歴史的背景と、それが平田家にとってどういう影響が在ったのかという事をこれまたマキコの幼児期から10代まで語る。と、言う訳で色々な側面からマキコの幼児期から10代までを何度も何度も追ってしまう。
    • エージェントの指摘:「話しの多くが尻切れトンボで終わってしまって、結論がはっきりしない。」
      • これは私は演奏でもそういう癖がある。いつもフレーズや楽章が終わりに近づくと、次のフレーズや楽章の事で頭がいっぱいになってしまい、終わりがお粗末になってしまう。
      • 会話では私は、情報だけシェアして、結論は自分の頭にあるものと同じものがもうみんなの頭にも当然導き出されていると想定してしまう。例えそうだったとしても、確認のためにも、きちんと結論まで言いましょう。
      • 更に会話でも演奏でも、自分で勝手に気持ちが嵩じて、相手が理解できないくらい早口になってしまったり、聞き取れないくらいの速度で弾き飛ばしてしまったりする時がある。文章にも少しその傾向があり。お話しをかみ砕くつもりで、自分の中で十分調理したものを、丁寧に心を込めて提供する。
  • 言いたいことが多すぎる。一番の焦点を当てる対象を腹をくくって決める。後は付随にする。言いたいことのリスト:
    • 舞台恐怖症(と、多分全ての恐怖症)は主観的、そして生態反応的には「死の恐怖」です。
    • しかも、社会的に「舞台恐怖症(や一般的に恐怖症)」を自己申告するのはプロとして(や社会人として)するべきことではない、という不文律があるため、問題は悪化し、社会現象的に恐怖症は増長され、人知れず苦しんでいる人が実はかなりいる。
    • 舞台恐怖症(や一般的に恐怖症)の要因には、人が自分に期待している人間と本当の自分が違うという、認知的不協和がある場合が多い。私の場合は「女性らしい女性」「性的な女性」「東洋人らしい(小さく可愛く従順で無知・無邪気・無防備な)子供らしい女性」のキャラを演じることを強要されることが多かったが、実は私はガタイが大きく見た目にも女性らしくあることにも興味が無い頭でっかち。
    • セクハラも、音楽業界の女性の67.1%がプロ活動の成功を左右されるほどのセクハラを経験している。これも舞台恐怖症と同じく中々表面化しにくい問題であることも、問題そのものを増長している。
    • ステレオタイプとか、セクハラとか、そういう社会問題は、加害者を個人的に責めても根本的な問題改善にはならない。
    • 社会問題の背景には歴史的背景と常識の嘘がある。この理解を根本的に、かつ一般的に広めれば問題解決につながる(はず)。
    • 歴史や社会問題の単純化が、問題解決を遠ざけている場合が多い。例えば#MeTooである一件のセクハラのケースやレイプ事件の詳細を赤裸々に暴いても、社会問題の解決には全くならない。同じく一人のレイプ犯や痴漢をつるし上げても、より良い将来にはつながらない。現実には黒白が付けられることはほとんどないという事を、まずみんなで認識して、どんな史実やデータも観点や解釈によって全く違う意味を持つこと、その中でもやはり一貫して非生産的な事があるので、みんなでより良い将来の為に改善を試みましょう、という態度をまず創り上げる必要がある。
    • 上をする時に一番ネックになっているのが「真実は一つ」という考え方。これは宗教的排他主義(一つの宗教だけが真理・真義であるとする宗教)から来ていると思う。(ローレンス・ウェルシャー氏に初対面で「あなたはどうやったら世の中を改善できると思いますか?」といきなり聞かれたときに「まず、私たちの歴史的な間違いの多くが宗教的排他主義から来ているという事をみんなで認めなければいけないと思います。」と言ったら、相手の態度が変わった。「よし、合格!」という感じだった。これで多いに勇気を得ました。)
    • 個人責任という考え方をみんなで辞めよう。良い事も悪い事も全て連帯責任です。私たちはみんなお互い密に影響し合っている。そして私たちはみんな、歴史的背景・同調圧力・遺伝子・生態などなどの条件の中生きていて、人格や考え・感情や言動はとても流動的な物である。「個人」には、今の一般常識が想定するような重要性はない。
    • う~ん、やっぱり書きたい事が多すぎる。マキコ、二冊以上書くつもりで、取り合えず最初の本は簡潔に書き上げよう!
  • 自分が一番書きたくない事をすっ飛ばしていたらエージェントに見破られてしまった(さすが!)「ここの所をスキップしているのはなぜですか?」(ドキッ!!...す、するどい!)
  • そしてその次に書きたくなかったけれど思い切って書いた事ー(後から削っても良いのだから)と書いた事ーを一番褒められた。「この人間性に感動しました。」(トホホ...削れなくなっちゃったよ...)
  • 上の二つの事実から分かったこと:正直は伝わる。勇気をもって裸になろう!

こういう事を考えながら、裏庭で自分の第二稿を読み返して一日を過ごしていたら、少し肌寒くなった19時半ごろ、空が真っ赤な夕焼けに染まりました。

明日も天気にな~れ!

2 thoughts on “明鏡日記㉘:執筆にリターン”

  1. 小川 久男

    お疲れ様です。

    記載の文章は、多岐多様にキラキラ変変容です。
    夫々、魅力的です。
    ダイヤモンドカット、それぞれ深い輝きがあります。
    我が身のことは、独拍のカット。
    難しいですね。

    小川久男

    1. 「独拍」という言葉は初めて遭遇しました。
      ググったのですが引っかかりません。
      小川さんの造語ですか?どういう意味でしょう?
      真希子

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