スクリャービンの「焔に向かって」を最初に聞いたときは「は?」と言う感じだった。
短い曲なのだが、
ある意味ミニマリズムと言っても良いほど単純で簡潔なモチーフが繰り返し、
音域と音量の高まりは在るものの、
伝統的な意味での和声の緊張と解決が無い。
明らかに『焔』を描写しているのだが、
印象派のように、感覚に訴えかけて描写する対象を彷彿させると言ったプロセスが無く、
むしろ焔をそのものになりきろうとしているかのよう。
美化したり、芸術化したり、と言う操作が無いため、
初めて聞く人の多くは狐につまされたような感じになるだろう。
しかし、弾きこめば弾きこむほど、勉強すれば勉強するほど、魅惑される曲である。
ホロヴィッツの有名な録画がある。
この動画でホロヴィッツは音を好き勝手に足しまくって、
ついでに曲もちょっと長くしてしまって
本当にスクリャービン作曲・ホロヴィッツ編曲と言う感じなのだが、
その効果は出ている。
この「デタラメ」と批判する人も居るであろう動画の中で
演奏前ホロヴィッツは知ったかぶりで
「この曲はスクリャービンが世の終わりをもたらす炎を描いているんだ」
と言っている。
実に眉唾だが、でもまあそう言われてから聞くと、それも納得できるような曲、そして演奏。
一方でスクリャービンの娘、そしてそのピアニストの妻が
「作曲家の意図に一番近い演奏」と讃えたのが
スクリャービンの義理の息子ソフロ二ツキーの録音がこちら。
私はこちらの方がずっと好きだが、
これだって楽譜どおりとは言いがたい。
要するにこの曲に置いて、楽譜は「大体」なのだ。
トレモロなどの効果音が多く、楽譜どおりにきちんと弾くための練習は意味が無い。
勢い、インスピレーション、そしてほとんど芝居をするような
雰囲気を醸し出すための大きなイメージ。
どちらにしても悪魔的な曲、そして今まで私がチャレンジしたことの無い種類の曲だ。
これに大して山田耕筰の「青い焔」。
山田耕筰はベルリンに留学した後、日本に帰国する道中、
ロシアにしばらくとどまり、そこでスクリャービンのピアノ曲「詩曲」を聞いて
ほとんどあきらめかけていた音楽への道に人生をかける決意をする。
「青い焔」もタイトルからしても、またその曲が意図するところとしても
この「焔に向かって」を知った上での作曲と見て、まあ問題ないだろう。
この曲も最初に聞くと「は?」と言うような曲だが、
特にこうやってスクリャービンと比べると、面白い!
さて、こういう最初に聞いて自分自身が「は?」と思ってしまった曲を
お客さんにいかに納得して頂くか、と言うのが私のチャレンジ、である。