前回のブログで環境問題に於いて音楽が効果的に助力をする事が出来ると言った趣旨の事を書いたところ「生活困窮者には芸術よりもまず必需品では?」といった内容のコメントを頂きました。お読み頂ければお分かりいただけると思いますが、私は、食事や医療や技術の代わりに音楽を、と言っているわけではありません。が、予算分配などでそういう論理で芸術・文化が排除される危険性はこれから大きくなるでしょう。という事で、今日は芸術がなぜ必要か、という事について書きたいと思います。
「人はパンのみにて生きるものにあらず」
この有名な言葉の出展は聖書です。が、これと同じ意味の名言は沢山あります。
ヴィクトール・フランクルという精神科医・心理学者・哲学者がいます。「夜と霧(原題:Man’s Search for Meaning)」という名著の著者でホロコースト生存者といえば、もっと多くの方が(ああ、あの人!)とひざを叩いてくださるかも知れません。「夜と霧」では、著者はナチスの強制収容所という極めて困窮した日々の中で、人間の心理状態と傾向を観察し、それを終戦後の自分の研究に役立てることを自分に課します。その時に「食べ物の話ししかしなくなると、収容者は間もなく死ぬ」という一つの観察の本の中で説明しています。人は、食欲など目前の生存に直結する事以外に生き甲斐を持つことで、精神力を保ち、生きることに意味を見出せるというのです。
「夜と霧」から引用します。
もともと精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人びとが、
その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、
精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。
そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国、
豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた。
繊細な収容者のほうが、粗野な人びとよりも
収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。
精神力を保たせてくれるもの。自分の命よりも大事に思える物。それは何でも良いと思います。例えば大事な人を愛おしく思う気持ち。周囲の役に立ちたいという気持ち。将来の夢。知的探求心。「こうありたい」という美学や理想の人間像。人間としての尊厳。希望。
理想論だと思われるでしょうか?私一人がこういう主張をしているのならば、私はただのほら吹きだと思われるかもしれません。でもこういう言葉はご存知ですか?
「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです。」
マザーテレサの言葉です。カルカッタの道端で力尽きて行き倒れた人たち。ホームレスの子供たち。病気で家族から追放された人たち。そういう究極の生活困窮者を自分の運営する「死を待つ人々の家」に運び込み、人間らしく死を迎えるお手伝いに50年捧げたマザーテレサも、パンよりも大事なものがある、と言っているのです。
私の愛の形は、音楽と、言葉と、笑いです。究極的に私たちの表現というのは、形が何であれ「分かり合いたい」という人間の求愛と愛情表現の形だと思います。私は発信という形で私なりの愛情表現を続けます。私の発信が誰に届いているのか、通じているのか、不安になる時もあります。でも時々(ああ、私のやってきたことは正しかった)と思わせてくれるような出来事もあります。来月、ベルギーの首都ブリュッセルで開かれる「Europan Young Leaders」という欧州の政治家・起業家・学者・報道官・社会運動家などを集めた大会に招かれ「芸術と社会」という題目でパネル協議をする事になっています。私の発信している芸術の必要性に、共鳴してくれる人々や団体が増えてきているのは、要するに需要が高まっているからだと思います。最善を尽くし続けます。
人はパンのみにて生きるものにあらず。私は自分が死ぬときは物質的な豊かさよりも、声を合わせて歌を歌って肩を抱いてくれる人達に囲まれていたいです。
お疲れ様です。
「夜と霧」は芸術家の原点ですね。
人という字は、支えあっています。
自立し、そして、自律があって初めて人となります。
たったひとりのかんきゃくでもアーティストは演奏をします。
今、この時が、再びないからです。
正しいと思うことは、誰に忖度することなく主張してください。
それが、使命ですから。
小川久男
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「夜と霧」は特に芸術家を念頭には書かれていません。
ぜひお読みになる事をお勧めいたします。
平田真希子