音楽家の私にできる社会貢献とは?社会に於ける芸術の役割とは?日本人の私が西洋楽器であるピアノの専門家である歴史的背景、そして意義とは?
…模索中です。
(面白い!)と意識に引っかかった一つがバウハウス。産業革命に反発して、合理性よりも人間性や多様性を重視した美学に感銘を受けました。第一次世界大戦後の不安定な政情のドイツで、国籍・宗教・年齢・性別を問わずに沢山の芸術家を招待して一緒に育んだバウハウス。1933年ナチス政権に解散を命じられた後は、バウハウス関係者の多くが世界中に広がり、その思想は後世に多大な影響力を及ぼしました。「フリードル先生(Frederika “Friedl” Dicker-Brandeis (1898 ウィーン – 1944 アウシュヴィッツ) 」もバウハウスで20代の前半勉強し、また教鞭を取りました。
このフリードル先生、1942年にナチスのテレジン強制収容所に送られてしまいます。そしてそこで、強制労働の合間に子供たちに芸術教育を施したのです。アートセラピーと言っても良いかも知れません。収容された15,000人の子供たちの中で戦後生存していたのは100人と言う過酷な状況の中で、実に4000枚以上の絵が残っています。
上の絵の様に状況を記録した絵もあるのですが、多くはもっと幻想的な絵です。
このフリードル先生が1940年、友人宛てに書いた手紙の言葉に、私は共鳴します。「Today only one thing seems important — to rouse the desire towards creative work, to make it a habit, and to teach how to overcome difficulties that are insignificant in comparison with the goal to which you are striving. (今日、大事な事はただ一つに思える ー 創造力を掻き立る事を習慣づけること。そして自分の創造力への精進に比べたら他の困難がくだらなく見えてくるように訓練すること。)」
この本はテレジンの子供たちの創作活動を書き綴る事をライフワークにしていらっしゃる野村路子さんが、生存者の一人のディタ・クラウスさんから聞いた話とご自分で調べられた史実を交互にまとめられた本です。大きな文字の印刷で、難しい漢字にはルビが振ってあり、小学高学年なら十分に読めるでしょう。そしてこの本のメッセージは普遍的な大切なものです。
残されたそれぞれの絵には子供たちの名前が書いてあります。フリードル先生は子供たちに何度も言って聞かせたそうです。「あなたたちには名前が在るのよ。ドイツ兵が、いくら番号で呼ぼうと、お父さんやお母さんが、あなたたちの誕生を心から祝って付けた名前があるの。それを書きましょうね。」(P. 167)
フリードル先生は子供たちにアートを教えているからと言って強制労働から免除されたわけではありません。毎日、二回の休憩を挟んで十時間から十一時間、ドイツ兵の軍服の選択や修理の仕事をしていたそうです。手を休めると、処罰を受けたそうです。(P. 99)そして子供だちも毎朝早くから夜遅くまで、わずかな食事で一日中働かされていました。一週間に一回、仕事が終わった僅かな時間にみんなで集まって絵を描いたのです。(P. 104~116)画材は子供たちが持ってきた僅かな荷物に在ったものや、ドイツ兵から盗んできたもの…それをドイツ兵に隠れて描いていたのです。(P. 116)
抜粋します。
「ある日、先生が、自分の描いた絵を持ってきてくれたことがありました。花の絵でした。「これはバラ、これはポピー、これはフリージア…」って一つずつ指さして花の名前を教えてくれて、それから、「さあ、目をつぶって」と言ったのです。「しずかに。そーっと香りをかいでみましょう、バラの香りがするでしょう」って。
ふしぎでしたね、きたない部屋ですよ。何年も掃除なんかしていないから、床は泥でよごれ、ノミもシラミもいる部屋です。それなのに、いい香りがしたのよ。しんじられないでしょう?でも、本当なの、わたしだけではないわ、みんな感じたのよ。部屋中に花の香りがしたの。
「先生はね、花が大好き。ここにはきれいな花は咲かないけれど、外の世界には、沢山の花があるのよ、いつか、きっと、みんなで花いっぱいの野原であそびましょうね」って言ったのです。(P. 111-112)
絶体絶命の中で希望を持ったり夢を見たりするのは、勇気が要る事だと思います。でも、大きな視点から見れば、私たちすべての生物の命には限りが在ると言う意味では、みんな絶体絶命です。その中で希望を持ち、夢を見る勇気をくれるのが、芸術なんだと思います。