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ソナタ形式=「起承転結」

「ソナタ形式」と言うと飛んでも無く難しく聞こえるし、恥を忍んで言えば私だって、この「ハンマークラヴィア・プロジェクト」を立ち上げてから腹を据えて楽典の本を何冊も読んでやっと始めてはっきりと納得した次第である。分かってしまえば何という事も無い。第一主題(first theme/masculine theme)、第二主題(second theme)、提示部(exposition)、展開部(development)、再現部(recapitulation)などとややこしく言うから難しいのであって、ソナタ形式とは単なる音楽の起承転結のことである。 そしてまさに文字通り、起承転結なのである。 分かってしまえば気抜けがするくらい、ソナタ形式の曲たちはすんなりとソナタ形式に当てはまる。(そしてピアノ曲の半分以上はソナタ形式である)、 ソナタ形式とは、3部から成る。 第一部(提示部、あるいは呈示部) = 「起」+「承」= 問題提起 「起」まず、ある音楽が紹介される。 例1)今日はお天気。 例2)ああ、ロミオ、ロミオ!あなたはどうしてロミオなの? 「承」「起」の音楽を承って応答がなされる。この応答には発展性があり、結論性が無い。(「承」の終わりで演奏をやめると、なんだか納得できない) 例1)明日もお天気かな? 例2)家族と離縁して、家名を忘れて!  ここで少し専門的な話をすると(面倒くさい読者は、次の二段落を飛ばしてください)、ソナタ形式がややこしくなる一つの理由には、提示部には第一主題、第二主題、と言う二つのメロディが存在しなければいけないと言う一般的な誤解がある。確かにはっきりと二つの主なメロディが存在するソナタも多いが、一つしかメロディが無かったり、あるいは3つも4つもメロディがあったりするソナタも多いのである。全くメロディらしきものが無いものもある。例えば、ベートーヴェンの5番、「運命」交響曲(交響曲の第1楽章は通常ソナタ形式である)のかの有名なオープニング、「ダ・ダ・ダ・ダーン」は果たしてメロディと言えるのだろうか。しかしあの楽章の「起」の部分は「ダ・ダ・ダ・ダーン」とその変奏のみから成っているのである。音楽と言うのは、旋律とリズム、和声と言う3つの要素から成るが、ソナタ形式を旋律で定義しようとするのは間違えである。ソナタ形式を史上最初に定義した(と自己宣言した)のはベートーヴェンの弟子、カール・ツェルニーであるが、彼がこの間違えを犯したため、今でもこの誤解が容認されている。あの小さなピアニストたちには拷問的な練習曲を何百も作曲したことと並べ、なんとも迷惑なツェルニー氏である。(しかしツェルニー氏の名誉のためにもうちょっと書けば、彼は800曲以上を書いた多産な作曲家でもあり、彼の作品はもっと演奏されるべきである、と私は思っている。学術的な興味だけでなく、彼の曲はしっかりとした構築でなかなか面白いのである。ツェルニーはリストの教師でもあった。)  では、旋律で定義できないとしたら、ソナタ形式とは何で定義するべきなのか? それは、和声なのである。「起」の部分はその曲(あるいは楽章)の一番主要な調(へ長調の曲ならへ長調、ニ短調の曲ならニ短調)で起こる。これはその曲において、一番安心できる調、いわばお家である。「承」の部分はお家に帰りやすい調で起こる。一般的に長調の曲なら属音(スケールの5つ目の音)に基づく調(ヘ長調ならハ長調)、短調の曲なら平行調(短調のスケールの3つ目の音から始まる長調のスケール、ニ短調の曲ならヘ長調)、に移行する。ベートーヴェンなどのへそ曲がりはこういう伝統は破ったりするが、とりあえず一般論ではそういう人は無視しておく。要するに聞いている人は、まず曲が始まったら「よし、これがこの曲のお家なのか。ここが一番落ち着くところなんだなあ」と認識していただき、変化が始まり、なんだかお家と違った音響に包まれたら、「うん?なんだかお家とは違うところに来たぞ。これから何が起こるんだろう」とわくわくして頂ければ良いのである。「起」から「承」に移行するとき、また音楽的にいろいろ面白いことが起こるのだが、ここではとりあえず割愛。しかし、この過渡期にしばしば新しい旋律が出てきたりして、旋律でソナタ形式を定義しようとする人を混乱させる。 第二部(展開部)= 「転」 = 試行錯誤 「起」や「承」で紹介された材料(メロディ、あるいはもっと小さな音形の単位、あるいはリズム)を使って、発展させていく。いろいろな調性を渡り歩き、次に何が来るか予測がつきにくい。冒険的。 例1)明日も晴れるといいなあ―>明日は運動会なんだ―>天気予報は晴れだった―>でも雨だったらどうしよう―>そうだ、テルテル坊主を作ろう! 例2)あなたの名前だけが私の敵;―でもあなたはあなた自身であって、名前ではないはず。―>モンタギューって何?手でも、足でも、腕でも、顔でもあなたに属するなにものでもない。他の名前になって!―>名前が何だって言うの!バラを何と呼んでも、その甘い香りは変わらない; 第三部(再現部)= 「結」= 結論 第一部で提示された問題に結論を付ける。調性的には、第三部はずっと主音の調、安定した(お家の)調にとどまる。普通「起」と「承」が繰り返されるが、単純なソナタ形式では「起」の部分が省かれる場合もある。 例1)「起」今日はお天気。「承」明日もお天気!:-) (あるいは単に「承」「明日も絶対お天気!」) 例2)「起」そう、ロミオ、ロミオ、何と呼ぼうとあなたはロミオ。 「承」家族と離縁して!名前をわすれて!変わりに私を上げるから! 以上が私がやっと理解したソナタ形式の概要である。 このエッセーを読んでいただいた聞き手の方々に、こういう風にソナタを聞いていただけたら、幸いだ。 「起」 よし、これがこの曲の調子、主張かあ。再現部での再会を楽しみに覚えておこう。 「承」おや、音響が変わって、新しい主張がなされたぞ。 「転」あれあれ、この曲はいったいどこに行くんだ? 「結」ああ、帰ってきたよ。なかなかの冒険だったなあ。そうそう、「起」がこんな主張をして、この曲は始まったんだった。お?そして「承」は冒険を経てこういう風に納得したのか。うまく納まった!いやあ、いい曲だった。 ここでちょっと書き足したいのは、この3つの部分の割合である。 大体曲を3等分にするのが普通だが、ソナタによっては第二部が非常に短かったりもする。 こういう風に思っていただきたい。 どちらの例でも、「起」と「承」の台詞は、役者は周りの景色を見回したり、思わせぶりなため息をついたりして、随分と間を持ってしゃべるのである。これは場面設定、キャラクター設定、雰囲気の設立などのために不可欠なスペースである。音楽的に説明すると、第一、第三部においては、和声進行が単純で、間遠なのである。そして第二部に来ると、役者はたたみかけるように台詞をしゃべる。音楽的に言うと、調性がめまぐるしく交代し、それによって材料も細切れになって提示されたりする。第三部は第一部と同じペースで和声が進行する。

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2008年のプログラム

毎年、プログラムを決めるのは楽しみです。  メニューを決めるコックさんもこんな気持ちなのではないか、と思います。 バラエティーも勿論大事ですが、一貫したテーマ、と言うのも欲しい。 また曲どおしがお互いを活かしたり、殺したりすることもあると思うので、そこも大いに考慮しているつもりです。 今年はベートーヴェンの大曲、ハンマークラヴィア・ソナタを後半に据え、前半はソナタの誕生から発展を追って、ソナタの形式と歴史を提示するプログラムにしてみました。 曲目は以下の様になります。 ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ 二短調、K.5(1738)…… 4’00” (1685~1757)        -Allegro non troppo (アレグロ、でも速すぎず)              ソナタ ニ長調、K. 119(1749)                     -Allegro (アレグロ)…… 5’00”  W.A .モーツァルト:ソナタ2番、ヘ長調、KV280(1775) (1756-1791)    1楽章、Allegro assai (充分アレグロで)…… 4’45”                2楽章、Adagio(アダージオ)…… 6’33”                3楽章、Presto(プレスト)…… 3’12” ジョセフ・ハイドン:ソナタ59番、変ホ長調、Hob.XVI/49 (1790) (1732-1809)   1楽章、Allegro (アレグロ)…… 7’26”               2楽章、Adagio e cantabile (アダージオで歌って)…… 8’14”               3楽章、FINALE-Tempo di Minuet                (フィナーレ、メニュエットのテンポで)…… 3’56”          (休憩) ベートーヴェン:ソナタ29番、変イ長調、作品106 (1770-1827)  「ハンマークラヴィア」(1818-1819)                1楽章、Allegro(アレグロ)…… 11’00”                2楽章、SCHERZO―Assai vivace                      (スケルツォ―充分と生き生きと)…… 2’38”                3楽章、Adagio sostenuto                      (歩くテンポをやや引っ張って)…… 19’23”                4楽章、Largo:Allegro risoluto                      (ラルゴ:決然とアレグロで)…… 12’16”

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最近の練習

今、久しぶりに練習に没頭している。 朝起きてから夜寝るまで一日中、練習を最優先に私の時間が過ぎていく。 この曲を、何時間後のリハーサルまでに、翌日のレッスンまでに、来週の演奏会までに、とゴール目指して全力疾走するような練習が日常だから、こういう日々は贅沢な気分だ。 朝一番にまず、ピアノの前に座って自分の姿勢を確かめる。 自分の体の重心をなるべく下げて丹田に気合を入れ、上体のバランスを整え、肩から指先までを流すような気持ちで鍵盤に配置する。そしてゆっくりとスケールを弾く。一番小さな指の動きを一番大きな背筋から行う。過去のレッスンでさまざまな先生から「お尻から弾け」と何度言われてもずっと言葉のあやだと思っていたのが、間違いだったと気がついたのは本当に最近だ。 指がいくらまわっても、指先でできることには限りがある。指先でこなそうとあがいている限り、不必要な力が入り、動きに無駄が出る。そして何より弾いていて苦しい。腹筋、背筋からピアノを弾くと、自然な呼吸と楽な動きで自然な音楽ができる。一々の指先の動きは大きな音楽の詠いまわしの邪魔になることなく、単なる副作用になる。 そういう練習を毎日している。

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サラソタ音楽祭

6月の下旬、日本は梅雨の盛りでしょうか。 今日まで三週間、フロリダ州のサラソタ音楽祭に参加して参りました。サラソタは粉の様にきめ細かくて真白な砂浜と体温より温かい海水に恵まれた亜熱帯地区に在る町です。観光も盛んですが、むしろ引退した人が多く移住して来たり、「スノー・バード」と呼ばれる、避寒の為に冬だけサラソタの別荘に越してくるお金持ちの多く住む、観光地よりも落ち着いた雰囲気の町です。芸術支援にも熱心で、町の至る所に彫刻が見られ、音楽祭でも数多くのボランティアと個人や企業の寄付金で運営がなされていました。地域の人々の関心と熱意は、生徒に寄せられる晩御飯の招待の数でも明らかです。毎日の様に掲示板に「水曜日の夕飯、3人、お迎え5;30」と言った招待状が数多く貼り出され、ソコに名前を書くとご馳走になる事ができます。地域の誇りである音楽祭の支援を通じてのコミュニティーの一体感、そして芸術や若者の育成に関わっているのだという意気込みがひしひしと感じられます。私もボランティアの方に一度日本食レストランに連れて行ってもらってご馳走になった他、ピアニスト全員で動物園に招待されたりもしました。海水浴もちゃんとしましたし、プールでも何回も泳ぎました。そして毎晩、こう言う音楽祭では恒例の呑み会が生徒・教授混同の無礼講で行われます。 と言っても勿論、遊んでばかりいた訳では在りません。 振り返ってみて3週間でどうやったらこれだけの事をこなせたのか不思議ですが、以下が私がこの音楽祭で演奏した曲目です。 6/8  ブラームス、ピアノ四重奏3番、三楽章(Selby Libraryでのコンサート) 6/10 ブラームス、4つのピアノ曲、作品119 (クローデ・フランクの公開レッスン) 6/12 プーランク、木管三重奏、二,三楽章(Holley Hallでのコンサート) 6/13 ドビュッシー「月の光」音楽祭の大口個人ドーナー宅におけるコンサート 6/15 プーランクの木管三重奏 (地域の教会でのコンサート) 6/17 ブリテン、オーボエとピアノの為の変奏曲 (オーボエの公開レッスン) 6/17 ベートーヴェン、6つのバガテル、作品126(ジョン・ペリーの公開レッスン) 6/18 ベートーヴェン、「ハンマークラヴィア」(ボブ・レヴィンの公開レッスン) 6/19 モーツァルト、クラリネット三重奏、三楽章 (Holley Hallでのコンサート) 6/21 シューベルト、ピアノ五重奏「ます」5楽章 (オペラ・ハウスでのコンサート) この音楽祭で演奏した4曲の室内楽はすべてそれぞれ4時間から8時間のリハーサルと2~4時間の指導を経て、演奏に備えます。そして勿論、自分の演奏だけでなく、教授や受講者の演奏会も聴衆の一員として参加します。自分が演奏した音楽会のほかに、聴衆の一員として参加した演奏会が約12回、時間にしてざっと20時間位です。 この音楽祭で私はいくつもの忘れがたい経験をしました。ひとつは伝説的なピアニスト、クローデ・フランクの人柄に触れ、演奏を聴くことができたことです。シュナーベルの生徒だったフランク先生はすでに80代半ばです。指は勿論、体中の関節炎のためまっすぐ立つことも、歩くことも不自由で、こう言ったら失礼かも知れませんが可愛いヨチヨチ歩きです。ステージの昇り降りの際は思わず回り中の人間が手を差し伸べてしまうほど危ういのに「よっこらしょ」と転びそうになりながらピアノに向かって歩いていきます。 公開レッスンでは幸せそうに生徒の演奏を聴き、「素晴らしい!何と美しい! 本当にどうもありがとう!」と生徒が恥ずかしくなるほど手放しで褒めてから後、細かい、細かい指導があり、そしてお手本で弾いて見せてくれるとこれがまた、まるで別の曲の様に素晴らしいのです。 ここで生徒は「じゃあ、最初に褒めてくれたのは何だったんだ」と思うのですが、これは生徒同士の話し合いの結果「演奏を褒めたのではなく、曲を褒めたんだ」という結論に至りました。 ヴァイオリンの教授として同じ音楽祭に参加していた娘のパメラ・フランクさんによると、フランク先生はもう演奏することは苦痛なようです。関節炎の為、指が伸びず、ミスタッチが多くなり、納得の行く演奏ができないことを悩んでいるようです。でも、フランク先生がベートーヴェンの最後のソナタ、作品111を演奏したときは、私は言葉で表現するのが難しいひとつの体験をさせてもらったと思いました。彼の体の中に曲の最初の音から最後の音までがすでに完結した一曲としてはっきりと存在しており、彼は聴衆のためにそれを一音ずつ体から出してくれているだけなのです。そしてその体の中の音楽があまりに確固たる物であるために、ミスタッチで演奏が惑わされることは全くなく、音楽が絶対的な世界として実感できるのです。私は80代、90代まで生きて、ああいう演奏家になりたい、とはっきりと思いました。新しい志を見つけられた、と思いました。 もう一つの忘れたくない経験はピアニスト、ロバート・レヴィンに出会えたことです。ロバート・レヴィンは音楽祭の総監督、かつピアノの教授として参加していたのですが、彼は古楽器演奏の一人者でハーバードの教授でもあります。この人は本当に浮世離れをした、知識の泉というか、とにかく一旦音楽についてしゃべりだすととまらないのです。興奮して、どんどん、どんどん話が広がっていき、そして言っていることのすべてが文献や彼が実際にリサーチした事実に基づいているのです。私は何回か20分から50分くらいハンマークラヴィアやそのほかのことについて会話をする機会を持つことができましたが、50分話を聴いたあとは頭ががんがんして、すぐに自分の部屋に戻って教えてもらったことをノートに書き出して整理をしないと勿体無い、という強迫観念で大変な気持ちでした。 第一日目に出会って初めて講義を聴いたあとは、感動して、私はピアノ演奏をやめて、音楽学者になってロバート・レヴィンと勉強するべくハーバードに行こう!と興奮しましたが、何回か話をしているうちにとても及ばないことがわかったので、やはり素直にこのまま練習・修行を重ねよう、と気持ちを新たにしました。 実に、実に、充実した3週間だったと思います。新しい友達にたくさん出会い、知らなかった曲をたくさん発見し、いろいろ考え、いろいろ話し合い、人の考えを知り、自分の考えを深めるきっかけとなりました。

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ベートーベンのハンマークラヴィア

皆さん、いかがお過ごしでしょうか? こうして年に数回の御手紙をしたためていると、本当に時間の不思議を実感します。 9・11が起こった2001年に初めてのリサイタルをさせていただいてからもう7年半、今年で8年目になるのですね。 最初の頃は、暗譜が本当に怖かった。ショパンの24のプレリュードや、ラヴェルの鏡など、短い曲を探したのを覚えています。その私が今年はハンマークラヴィアを学んでいる!これはもう、サウンドウェーブに育んで頂かなければ在り得なかった一大事で、それだけでも私は嬉しいのですが、そのハンマークラヴィアを日本で弾くか否か、という事が今日のお便りの主題です。 ハンマークラヴィアは50分。  32あるソナタの中でも、名実ともに飛びぬけて大曲です。弾く本人はむしろ時間をかけて消化しているし、曲に対して実際働きかける事が出来るので、むしろ聞く方に更なる気力、体力と心構えを要求する曲かも知れない。 恥ずかしながら私は、初めてこの曲を生で聴いたときは、居たたまれずに途中で会場から避難してしまいました。若手の堅実な演奏で、今から思えば多分とても安全無難な演奏だったのだと思う。私の他にも観客の多くが前後して退場していたのを思い出します。 この曲は逸品と言っても、曲を尊重してただ音を並べてもだめな曲だと思う。 ある程度芝居心、と言うか気を張って「間を持たせる」という事をしないと本当にだれてしまいます。それに挑戦してみたい気も多いにします。武者震いしちゃう。 でも、来て下さる聴衆の皆さんに本当に喜んでいただけるか心配です。 去年のプログラムはとても喜んでいただけました。 デモ、理由の半分は私が始めて「普通」の曲を弾いたから、と言うのは否めません。シューベルトの即興曲や熱情、リストのため息などはピアノ・リサイタルの定番だし、有名だから教材にも良くなるので「昔、音大生だった頃に弾いた」、「娘(或は隣のお姉ちゃん等、)が子供の頃練習していた」等、個人的な連想がしやすい。 要するに、親しみやすいと言うのはどのような理由であれ、どれだけ感情移入がしやすいか、という事だと思います。例えばその前の年に弾いたチャイコフキーの「四季」等はそれほど有名では無いけれど、同じ雪国の日本人の叙情に訴えかけるようなメロディーと、題と詩がそれぞれの曲についてくるので、あるはっきりとしたイメージを持って聴け、感情移入がしやすいのだと思います。 それに比べて、ハンマークラヴィアと言うのは感情、と言うのを超越しているのです。 例えば、私が弾いた四季の8月、9月、10月、11月の中から一番叙情的で私の母の一番のお気に入りだった「秋の歌」は5分弱でした。 ハンマークラヴィアの叙情的な三楽章は20分、ピアニストによっては25分です。 この三楽章は、この世の物と思えない美しさです。 人によってはどん底の悲しさ、と言いますが、私はそういうものを達観してしまった、あきらめと言うか、哀れみというか、兎に角、凄いのです。弾いているときはもう頭の中はぶっ飛んでいます。終わって欲しくない。 バッハの一番複雑なフーガを弾いている時に似た緊張感ですが、同時に陶酔感もあります。 ところがそれがついに終り果てて、感情的にもう出し尽くしてしまった時に、すぐにハンマークラヴィアの中で一番難解、かつ難儀な4楽章が始まるのです。 この4楽章が曲者! 弾くのも難しいのですが、理解するのはもっと難しい。 私は弾けるようになったけれども、まだ完全に理解できていないと思います。デモなんだか分からないけれど、急き立てられるようなエネルギーはドンドン盛り上がり、弾き終わる頃には洋服が汗で本当にぐっしょりです。  私は今まで曲を弾きとおしてこんなに汗を書いたことはありません。ちなみに、初めてレッスンでこの曲を弾きとおした次の日、私は上体くまなく筋肉痛で、びっくりしてダンサーの友達に「ずっと長いこと練習していて、練習では何でもなかったのに本番の後筋肉痛になる事ってある?」と聞いてみました。すると、「本番ではアドレナリンが体内を巡っていて、普段苦しいと感じることに麻痺しているので、普段よりも頑張ってしまい、よって筋肉痛が起こる」と、実に納得の行く回答が帰ってきました。 ハンマークラヴィアは凄い曲です。圧倒的です。 どうしましょう、弾きましょうか? デモ、私がこんなに愛している曲を弾いて、共感してもらえなかったら悲しいです。それに、この曲は弾くのもですが、聞くのも本当に疲れます!これは事実です。ハンマークラヴィアを聞いたあと、電車に揺られて夜遅くお家にたどり着くのは、大変ではないでしょうか? 今年のプログラムにハンマークラヴィアを入れるかどうか悩んでいたら、主催者の方から「ハンマークラヴィアを弾けるのは気力体力技術力、全て整っているときでないと弾けないから、やりたい時に是非弾いた方が良い」と励まされて、今年のプログラムの中心にすえることにしました。 今年も皆様に聴いていただけるのを励みに練習を続けています。 どうぞよろしく!!

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