April 2019

書評:世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?

書評:世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?

山口周著「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?—経営における『アート』と『サイエンス』」(2017) 光文社出版。 私自身が、音楽を使ったチームビルディングやリーダーシップのワークショップをデザインする段階で市場調査を行っています。その時から確かに、近年、企業がアートやアーティストに指針を求めている、と言うことは感じていました。この本が増刷を重ね(2019年一月の段階で16刷目)、数々の賞(HRアワード2018最優秀賞、ビジネス書大賞2018準大賞、など)を受賞していると言う現象そのものも、興味深い。これは私が打ち出した企業向け音楽ワークショップに対する反響にも反映されていると思います。 なぜ、今、経営にアートや美学が求められるのか?この本は80パーセントをこの問いの解析に費やし、残りの20パーセントで、ではエリートはどのように美意識を鍛えられるのか、と言う提言や例を挙げています。 まず、本書のタイトルにあるキーワードを著者がどのように定義しているか、まとめていきましょう。 『エリート』とは、大きな権力を持ち、他者の人生を左右する影響力を持っている人たち(P. 143)です。システムに最適化しているので、様々な便益を与えてくれているシステムを、その便益にかどわかされずに相対化して批判し、修正する力を持っています(P. 183-4)。しかし、達成動機(P. 140)が高いので、生産性や収益などの数字のみを追っていると、コンプライアンス違反などの犯罪のリスクがあります。『美意識』はエリートを犯罪から守り、さらにその影響力を有効活用して、理想的な社会への実現を向けて現状の改善を促す力があります(P. 237)。 『エリート』の影響力を企業などのシステム、さらに社会改善のために役立てるーこの大きな理想を実現するために必要となるのが「人生を評価する自分なりのモノサシ(P. 143) 」、『美意識』です。 本書で著者は「真・善・美」と言うフレーズをよく『美意識』の同義語として用いています。スタイル・エスプリ・教養とも呼べる、要するに「目の前でまかり通っている評価や判断基準を『相対化できる知性』」です。(P. 150-151) そして脳神経学者、アントニオ・ダマシオ博士の「ソマティック・マーカー仮説」を参照し、高度の意思決定の能力は、直観的・感性的なものであり、絵画や音楽を「美しいと感じる」のと同じようなものだ、とします。 副題にある、経営における『アート』と『サイエンス』とは何でしょう? 経営学者ヘンリー・ミンツバークによると、理想的な経営は『アート』と『サイエンス』と『クラフト』のバランスによって達成されます(P.52)。 『サイエンス』は「分析」「論理」「理性」などと言った「言葉にできるもの」です。(P. 14) MBAで学ぶのが『サイエンス』です。 『サイエンス』には3つ問題があります。最大の問題は、サイエンスだけに頼る経営は、人間味に欠けることです。次に、客観的な数字は誰が見ても同じです。MBAの増加で、同じデータ解析の技術が蔓延し、「正解」の希少価値が無くなります。極論で言えば、人工知能に情報解析を任せればよい、と言うことになります。同じ市場・現状を競争企業が一斉に同じ方法でサイエンスすると、どんぐりの背比べになり、コンプライアンス違反しか競争を勝ち抜く方法が無くなってしまう。さらに、現在はVUCA(Volatile, Uncertain, Complex, Ambiguous)で、不透明度の高い時代です。(P. 108-109) VUCAの時代の厳密な因果関係の整理は、要素の変化が絶え間ない世界では無意味なのです。(P. 110) 『クラフト』は「経験」や「伝統」で培われたノーハウです。ここでもVUCAが問題になります。イノベーションを受け入れにくいのです。(P. 53-54) 『アート』は 組織の創造性を後押しし、社会の展望を直観し、ステークホルダーをワクワクさせるようなヴィジョンを生み出します(P. 53) 。 しかし、『アート』にはアカウンタビリティがありません。説明がつかないことが多いのです。サイエンスやクラフトと議論をすると負けてしまいます。さらに、『アート』だけの経営はナルシシズム、「アートのためのアート」に走る危険性があります。そういう弱点のために今まで軽視されがちだったアート。それが現在見直されるべき理由は、アートは「熱いロマン(P. 61)」であり、「ワクワク」だからです。今日、世界中の市場が「自己実現的消費」に向かい、消費と言う行為が自己表現とみなされる中、ブランドに求められるのは、ストーリー性でありファッション(P. 100)、つまり『アート』の要素なのです。東芝はノートパソコンを世界で最初に開発した会社(P. 120)です。しかし、ノートパソコンのデザインと機能はパクられて市場は乗っ取られてしまいました。素晴らしいイノベーションこそ、すぐにリヴァースエンジニアリングでコピーされてしまいます。他者にコピーできないのが、世界観とストーリー性です。アップルが売っているのはイノベーションではなく、世界観とストーリー性、そしてアップル商品の消費者が誇れるイメージとファッションである、と言うのが著者の主張です。(P. 118) 戦後の日本企業では『サイエンス』と『クラフト』が重視され、『アート』は軽視・無視される傾向が強まって来ていました。それでもやって来れたのは戦後から90年代まで、日本は欧米のお尻をまっしぐらに追いかけていればよかったからです。「ヴィジョン」は無くても、「もっと安く、もっと早く」でぐんぐん成長して来ました(P. 90-91)。しかし今、そしてこれから、日本企業は何を指針に進化していけば良いのでしょうか?  この本で提示されているのは、ミンツバーク博士の『アート』が主導し、『サイエンス』と『クラフト』が脇を固める、と言う構図です。(P. 65) Planをアート型人材が描き、Doをクラフト型人材が行い、Checkをサイエンス型人材が行う、と言うモデル(P. 66) 。その為にエリートに『美意識」が必要になる。ブランドイメージやプロダクトデザインを、本物のアーティストに発注するとしても、社運を賭けるアーティストを誰にするのか決めるだけの『美意識』が無くてはいけません。 さて、ここまでは私は著者の論点や、挙げられている例の豊富さ、そしてまとめ方の説得力に小気味よさを感じながら読んでいました。しかし、最終章「どう美意識を鍛えるか」と言う所で、疑問を感じてしまったのです。下心を持って哲学を学んだり、絵画鑑賞をしたり、文学に触れたりして、本当に『美意識』は培えるのか?著者が挙げる「美意識を鍛える手段」の中に音楽を含む舞台芸術が全く無かったから不信感が芽生えたのでは、と言われれば、正直そう言う所もあるかも知れませんが、それだけではありません。 まず、『美意識』は説明ができないもの、サイエンス型人材やクラフト型人材、そして『エリート』ではない凡人には分かり得ないもの、としてしまうと、『美意識』を持ったとされる人の独裁を許容してしまう恐れがある。『美意識』を培うものが特権階級にしかアクセスが無い教育(オックスフォードやケンブリッジなどの教育が挙げられています)や、教養だ、としてしまうと、なおさらです。いくらCheckをサイエンス型人材にやらせても、サイエンスを解釈するのが人間である以上、データを独裁美意識に有利に使う危険性は多いにあると思います。 私は、本物の『真・善・美』や『熱いロマン』や『ワクワク』、つまり著者が言う所の『美意識』は、伝染する、ものだと思っています。それこそダマシオ博士が打ち出す「ソマティック・マーカー」で、教育レヴェルや立場に関係なく、お腹に共鳴するものです。伝染が部署関係なく全ての社員に蔓延して、株主や消費者にも感染する時、その会社のサービスやプロダクトやイメージはいろいろな意味で成功しているのだ、と思います。成功と言うのは儲けだけでない、実感できる意義、幸福感、誇り、などです。そして、それがそのまま『美意識』、ストーリーと世界観では無いでしょうか? そもそも「絶対的な美」と言うのが在りえない以上、一部エリートが持つ「より優れた美的感覚」と言うのは無いのでしょうか?『美意識』と言うのは『蔓延力』、共感を促す力、集団意識へのアクセスではないでしょうか? もう一つこの本に問題を感じるところは「欧米に比べて日本は(日本企業は)劣っている・改革が必要である。」と言う論調です。日本の文化や国民性や現状を論じる時、ルース・ベネディクトの「菊と刀」(1946)を始め、主に欧米人の評価を持って語っています。「偏差値は高いが美意識は低い」と言う論点を強調するために引き合いに出されるオウム真理教に関しては宮内勝典氏の「善悪の彼岸」を参照されていますが、これだって(なぜ日本考察の例がオウム?)と言う感じです。さらに、「日本人は空気に流されやすい。過去の過ちに対する過剰反応が日本企業をサイエンス過多の経営に走らせる」と言う時に引き合いに出されるのは終戦直前の戦艦大和です(P.94-98)。 本当に日本は欧米に劣り、改革が必要なのでしょうか?日本はその非常にユニークな歴史・条件・国民性のため、欧米がお手本にならない、と言うことはあり得るでしょうか?私は歴史上、様々な困難に打ち勝って豊かな文化と歴史を築き上げた日本人について学ぶ度に、その創意工夫や、根強さ、そしてこだわりと言ったものに、触発されます。日本の企業経営やCEOは、確かにグローバル化を目指す中で、他国に学ばなければいけない点はあるでしょう。しかし、論点として、「日本は間違っている、あるいは劣っている」ので改革を目指せと主張するのと「日本のこんな良い点をこういう風に開発・進化させれば、日本のすばらしさはもっとグローバルに広がる」と言う風に主張を展開するのでは、後者の方がより効果的だと思います。(マツダや、無印良品、ユニクロなども、成功例として出てきます。が、GoogleやAppleなどの欧米社と比べて、扱いやページ数が違うのです。) 『美意識』に必要なのは、教養よりも、自信と誇りだと、私は音楽家としての経験を持って言います。もちろん、この自信と誇りは知識と経験に基づいていますが、いくら知識と経験を積んでも、自信と誇りが無ければ『美意識』は打ち出せません。そして残念ながら、日本には自信と誇りの邪魔をするコンプレックスがあります。このコンプレックスには、白人優勢の世界の中で有色人種だと言う事実、さらに極貧の農作国家であった歴史、そして黒船や敗戦のトラウマ、その上ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの後遺症、など、色々な要因があると思います。日本企業が「サイエンス」と「クラフト」に肩入れしてしまうのは、「美意識」をないがしろにしているからではなく、「美意識」をはっきりと打ち出す自信と誇りを抑圧させる背景があるからではないでしょうか。ここを直視しないで、『美意識』が無いのでルノワールやカラバッジオを鑑賞しろ、プラトンやドストエフスキーを読め、と言われても...「はい、そうですか」と従う人はほとんどいないと思いますし、(なぜヨーロッパの絵画?)(なぜギリシャ哲学?)(なぜロシア文学?)となります。日本人のコンプレックスにさらに追い打ちをかけているだけではありませんか?「日本はフランスと並んで、おそらく世界最高水準の競争力(美意識)を持っている(P.112)」と、山口さん、書いてるじゃない?(最初のチーフ・クリエイティブ・オフィサーとして千利休を挙げられています(P. 72~)し、美意識を鍛えるために詩を読む、と言う所には谷川俊太郎さんの「朝のリレー」が出てきます(P. 244)。が、例外的です。) この本で、私は沢山のアイディアや視点に開眼しました。この本を丸ごと批判するつもりはありません。が、美意識を鍛えるためのあるシステムを提示されたので、著者が警告を発している「システムを無批判に受け入れる」と言う悪を冒さぬため、日本人としての誇りを高く持つ在米30年目の日本人、そして一人のアーティストとして、最後に評論いたしました。

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「ピアノに聴く水」参上!

これから半年ほど、水をテーマにしたピアノ曲を比較検討するピアノトーク『ピアノに聴く水』をお届けに世界各地に参上します! ご用意した曲を下に、年代順に書き出してみました。全部弾いて、休憩を挟む通常のリサイタルプログラム程度です。トークを挟むとちょっと長め。サロンなど、お気軽な一時間プログラムでは、レストランのメニューの様にお好きな曲をお選びいただけたら嬉しいな、と思ってご用意しています。まだまだ旅行先各地で空き日があります。ホームコンサート、出張コンサート、誰かへのプレゼント...ピアノとスペースさえあれば、お値段や日時など、なんでもご相談を承ります。お蔭様で19年目になる日本での夏の演奏活動は今年は7月中旬から8月中旬を予定しています。(演奏日程はHPトップページをスクロールダウンしてご覧ください。) 水をテーマにしたピアノ曲って実に多いんです!あんまり多いので(そう言えば体重の3分の2が水だったよね~)とか、(生命の始まりは水中からだったよね~)とか、そういう壮大な所まで想いが走ってしまうくらい。その膨大のリストからえりすぐった曲を準備した、私の「ピアノに聴く水」。 ルドヴィグ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827) ソナタ14番作品27-2嬰ハ短調(1801)より一楽章「月光」(6分半) 『月光』は直接は水には関係ありませんが、ベートーヴェンの死後この曲を聴いた詩人の「湖に映る月」と言う描写が有名になって、このタイトルが有名になったことから今回はこのメニューに加えました。 フランツ・シューベルト(1797-1828) リスト編曲(2版目:1844)「ます(1817)」(4分) あまりにも有名なこの歌曲はシューベルト自身がピアノ五重奏の変奏曲のテーマにもしていますし、子供たちも童謡のように元気よく歌っているようです!19歳のシューベルトの無邪気ないたずら心を反映してるような曲です。ドイツ語の歌詞とその邦訳はこちらでご覧いただけます。ドイツ語版「およげ!たいやきくん!」 リスト編曲(1876)「水の上に歌う(1823)」(4分半) ゆったりとした水の流れを思わせる6拍子の伴奏と、水面を踊る光を思わせる装飾音が、切ないメロディーを囲んでいる曲です。この作曲の数か月前に梅毒の死刑宣告を受けていたシューベルト。ますとは全く別人の様です。この歌詞の邦訳はこちらでご覧いただけます。 フレデリック・ショパン(1810-1849) 前奏曲集作品28(1839)より『Raindrop(雨だれ)』 『雨だれ』はどっち?4番ホ短調(2分30秒) vs. 15番変ニ長調(6分) 激しい雨の中、出先から帰って来た恋人を迎えたショパンは「ああ、君はもう死んでいるかと思っていた。溺れる夢を見た。胸を水滴が叩き続けるんだ…」。口走りながら作曲中の前奏曲を夢中で弾いていた、と逸話があります。一般的にこの時ショパンが弾いていたのは15番だろうと言うことで、15番が「雨だれ」の通称で知られています。が、実はこの時にショパンが弾いていたのは4番だったかも知れない、と言う説もあるのです。確かにどちらの曲もポツポツと言う単調な雨だれの音がします。 『Barcarolle(舟歌)』作品60(1846)嬰ホ長調。(9分) ヴェニスのゴンドラ漕ぎ歌の歌をイメージした楽曲が一つのジャンルになっています。実に「舟歌」だけで一つの演奏会の特集が組めるくらい。その中でもショパンの「舟歌」は有名。ゆったりと漕がれていると高揚感が募ってきます。 フランツ・リスト(1811-1886) 巡礼の年第三年より「エステ荘の噴水」(1877)(8分) 晩年のリストの代表作です。水の動きを描写する音型が後にドビュッシーやラヴェルと言ったフランス印象派作曲家たちに多大な影響を与えました。若いころはロックスター的な人気とモテっぷりで一世を風靡したリストですが、晩年は僧侶になりました。この曲の144小節目には聖書の中のイエスの言葉がラテン語で引用されています。 「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水が湧きあがるであろう」(『ヨハネ伝』第4章第14節) ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893) 『Seasons(四季)』作品37(1876)より「6月:舟歌」(5分) 沢山の作曲家が「舟歌」を書いていますが、チャイコフスキーの舟歌は、リヒテルなどが好んでアンコールに弾いた哀歌です。ショパンの舟歌とはずいぶんと調子が違います。プレシチェーエフの詩の一節がこの曲のタイトルの下に記されています。「浜辺に行こう:波が足をキスしてくれるだろう。不思議な悲しみを持って、星が我々を照らすだろう。」 クロード・ドビュッシー(1862-1918) 「ベルガマスク組曲」(1905)より「月の光」(6分) 中間部が「水面に映る月」と言う解釈が一般的なため、このメニューに加えました。ヴェルレーヌの同名の詩に着想を得て書かれた曲です。 「映像」第二巻(1907)より2番「黄金の魚」(4分) ドビュッシーは大の愛日家。浮世絵や日本の工芸品のコレクターでした。彼の机の上に飾ってあった池に泳ぐ鯉を描いた塗り物に触発された曲です。水を飛び散らしながら生き生きと泳ぎ回る鯉を彷彿とさせます。 前奏曲第一集(1910)より10番「沈める寺」(6分) 動く水を描写するのはピアノ技法を使って色々できますが、この曲がすごいのは鏡の様に静まった水の世界を醸し出していることです。海底に沈む伝説の都市「イス」が、澄んだ朝に限って一時水面に姿を現す...その時に聞こえてくるイスの鐘の音や聖歌の歌声などが、だんだんと近づき、そして遠のいていく様を音で描写した曲です。 前奏曲第二集(1913)より12番「花火」(5分) この曲だけが水に関係ありません。この曲は「黄金の魚」とペアにして、お客様に、どっちが魚の飛び散らす水でどっちが夜空に光る花火か、当てて頂こう!と言う趣向です。 モーリス・ラヴェル(1875-1937) 『水の戯れ』(1901)(6分) Jeaux d’eauと言う原題は確かに直訳すれば「水の遊び(あるいはゲーム)」なのですが、これは通常「噴水」を意味します。現にリストの「エステ荘の噴水」も原題は「Jeux d’eau villa d’este」。これを「水の戯れ」と敢えて邦訳した人はこの曲の事をとても好きだったのだと思います。ラヴェルはこの曲の原本に詩人、アンリ・ド・リニエの「水にくすぐられて笑う川の神様」と言う一節を引用して書き加えています。 組曲「鏡」(1905)より『Une barque sur l’océan(海原の小舟)』(7分) 「水の戯れ」よりもずっと大きく水を捉えた曲。比較検討をすると面白いです。 フェデリコ・モンポ―(1893-1987) 前奏曲集(1943)より8番『一滴の水について』(3分) 水滴が水面に波紋を広げ、そして蒸発して、また降りてくる...水の輪廻転生を描いたような不思議な曲です。(この曲の公共演奏は著作権料がかかります) 番外:連弾 べドルジハ・スメタナ(1824-1884) 「わが祖国」より『モルダウ』(1874)(12分) 故郷のチェコを交響詩で描写しようとした組曲の中であまりにも有名。モルダウ川がその川辺のさまざまな場面を捉えながら流れていく。 (この曲は下のパートを弾けるピアニストがもう一人必要です。)

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テツさんの「テツササイズ」

先日のブログでは「素敵な女性の先輩たちに沢山色々な事を伝授されている気がする」と締めくくった。でも私に元気とインスピレーションをくれているのは女性だけではない。今日は私を多いに元気にしてくれて、志を高く持つように勇気づけてくれる大切な師匠、テツさんの誕生日。日ごろの感謝の気持ちを込めてずっと書きたいと思っていたテツさんの事を、今日は書きます。 去年の10月、西海岸に越してきてから一年とちょっと、博士号を修得してから一年半近く経って、私は焦っていた。これからの目標や、自分の音楽や経験や教育を誰のためにどのように活かして行けば良いのか、いささか方向が定まらなかったのだ。そんな時何となく在外日本人のための生活情報掲示板「びびなび」でこの広告を見つけたのだ。 カルバーシティーにあるフォックスヒルズパークと言う公園で、心と体を強くする事を目的にトレーニングをして9年になります。現在まで700人を超える方々が参加しており、今も沢山の方々が続けられています。ハードですが効果が絶大なので、自分磨きの為に一緒にやってみませんか?(日曜日AM9時)(火曜日AM8時)集合でおこなってます。またこのトレーニングには、色んな分野で頑張っている方々も沢山参加していますので、人脈作り、友達作りにも最適です。興味がありましたら気軽に連絡して下さい。なおこのトレーニングは何度参加されても無料です。 私はどちらかと言うと「人脈づくり、友達作りにも最適」に引かれて行ったのだ。もしかしてお仕事につながるネットワークが広がるかも、と言う下心もあった。初回の参加は(まあ30分くらいだろう)と高をくくって水も持たず、テツさんに前もって連絡を取る事もせず、朝思い立って公園に行ったのだった。 大抵の参加者はそうだと思うけれど、初回は仰天。みんなムキムキ男性で、私や他の参加者をおんぶして走らされたり、プランク3分、スクアット50回、腕立て伏せ30回そういうハードコアな運動を何セットもやらされる。初回の私は腕立て伏せは一回もできず、膝をついたら「膝をつくな!」と大阪弁でテツさんに怒鳴られ、「自分を甘やかすな!」と喝を入れられた。30分はとっくに過ぎ、1時間、2時間と過ぎる中(このエクササイズって何時間やるんだろう...)と絶望茫然になったころ、やっと整理体操になった。他の参加者に恵んでもらった水をガブガブ飲んだ。 エクササイズをしながら、そしてエクササイズの後みんなでコーヒーを飲みながら、テツさんは自分の「テツササイズ」について教えてくれた。 2010年に始めてからずっと続けていること。 その時に自分に課した鉄さんの鉄則は: ★來る者拒まず、去る者追わず ★人に優しく、自分に厳しく ★一人でも参加希望者がいれば、その人の為に全力を尽くす ★人を強く元気にする為に、自分自身が強く元気になる努力をする ★物事に見返りを求めない ★物事に言い訳をしない これをずっと守ってきていること。 参加者は様々な年齢・人種・職業・状態の人々が、それぞれ色々な思いを持ってテツササイズに挑んできていて、それぞれの人生模様からテツさん自身が学ぶことや触発されることも多く、いつも感謝していること。 過去には自殺未遂者や、複雑な家庭事情や過去を持つ人々や、肉体・知能など様々なチャレンジを抱えた人たちが参加してきたが、それぞれの参加者を見ながら皆がその日のベストを尽くせるように臨機応変にエクササイズを提供するのもテツさん自身のメンタル・エクササイズだと思って、毎回挑戦していること。 テツさんが「テツササイズ」を通してみんなに提供しようとしていることは体を鍛えることだけではない。テツさん自身の人生観や哲学であり、そしてこれがテツさんの人類愛・愛情表現なんだ、と言うことが毎回ひしひしと伝わってくる。私はそんなてつさんに魅せられて、6か月間続けて来ていると思う。 私はテツササイズのメンバーの中では断トツびりっけつのお味噌的存在なのだ。でも、テツさんも参加者もみんな私を応援してくれる。始めてから半年。私も今では曲りなりにも腕立て伏せが20回できるようになった。始めて20回やり切ったとき、周りが「おおおお!!」と喜んでくれたのが嬉しかった。今では腹筋ができた。そして腹筋があると、重心が下がり、演奏中の上体が安定して、より効率よく自信を持って弾ける。私の演奏会にテツササイズのメンバーがみんなおめかししてテツさんと一緒に来てくれた時、家族に来てもらったような嬉しさがあった。私もテツさんの様に、熱血に愛情丸出しで、全力投球でみんなに自分を投げかけられる音楽家を目指す!

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この時期、毎年イベントフル!

なぜか毎年春先、色々旅行・お仕事・発展・出会いが多い。 2017年は博士論文の審査を合格したばかりで、正式に卒業の手続きと準備を進める中、最新アルバム「100年:初期ベートーヴェンと晩年のブラームス」の収録をしながら、演奏会や教えをこなしていた。その間、新居を探しにヒューストンから西海岸に飛んだりもしていたのだった。 2018年の4月はSan Francisco, New York, Houston, San Diegoと飛び回り、演奏や教えや録音をこなし、途中で家に戻った数日で更にラジオ収録や世界初演に向けての作曲家との打ち合わせや、期末演奏試験の伴奏アルバイトなどをやっていた。 そして今年も春は充実!3月後半からいくつか大きな本番が続いた。24日にロサンジェルス中央図書館内にあるTaper Auditoriumで開いたレクチャーコンサート「メロディーは世界の共通語」は沢山のお客様に来ていただけ、反響もとても良い、思い出深い会となった。 その数日後、今度はMuseum of Tolerance(寛容博物館)と言う異文化・異国籍者たちの調和と共存を謳う会場で、小辻節三と言う第二次世界大戦中日本へ避難して来た何千と言うユダヤ人難民を助けたヘブライ語学者についてのプレゼンテーションに音楽を添えさせていただいた。プレゼンターはノートルダム清心女子大学の広瀬佳司教授と、朝の連ドラや大河ドラマでおなじみの俳優、山田純大さん。大物二人がわざわざ日本からいらしたイベントは満員御礼でメディアも沢山来ていて、私は最初と最後にちょこっと弾いただけなのですが、思いがけず色々な出会いに恵まれてしまいました。 そのまた数日後、今度は日本へ一時帰国。私にとっては30年前の渡米以来初めての桜の季節の日本だった。桜の美しさは時差ぼけ早起きの散歩時や、移動の電車の中から満喫した。桜の美しさは勿論、日本人の桜を愛でる心に打たれた。何しろ街全体が桜で覆われている感じになる。8分咲きくらいからちょうど満開の花びらが散り始めるころまでを満喫した。 移動中の桜は満喫したけれど、いわゆる『お花見』の時間はあらばこそ。東京と滋賀で色々な形で音楽のさまざまな効果に関するワークショップを計4回やらせて頂いた。(ワークショップに関してはまた別のエントリーで振り返ります。)ワークショップの合間にリハーサルを重ね、硲美穂子さんとのヴァイオリンリサイタルに埼玉県のふるさと新座館ホールで共演もさせて頂いた。 硲さんは謙虚な方である。何度もリハーサルに来られて、テンポや解釈を確かめられ、納得が行かれるまで形容詞を重ねられてフレージングや解釈の相違について私と意見を交わして下さる。控えめな方なのだが、この特別な日のために発注なされたと言うドレスをお召しになった途端に背筋が伸び、表情が輝かれた。そしてリハーサル中とは見違えるような伸びと自信でたっぷりとフランクを弾かれた。こちらが圧倒される勢いだった。共演者にだけわかる息遣いと言うのがある。微妙なタイミングや、一瞬の音色の事なのだが、この日の硲さんはあっぱれと言う言葉がぴったりだった。 硲美穂子さんとの最初の出会いは25年前、夏の音楽祭で。私はまだ高校生だった。主に大学生を対象にした音楽祭に、美穂子さんはすでに修士も納められ、ご自分で立派に演奏家や教師としてご活躍なさっているベテランとして、更なる上達と発見を求めて9歳の娘さん同伴でいらしていたのだった。今の私には、その物凄さが分かる。脱帽である。そして、この音楽祭でまだまだ青くて生意気な若輩者の私をラヴェルのツィゴーネと言う大曲の共演に抜擢してくださったのである。それから25年を経て、硲さんの転居を機にそれまでコミュニティーで30年続けて来られた演奏会シリーズに終止符を打たれる、その大事な会にまたもや抜擢していただいた。光栄この上ない。フランクのソナタやクライスラーの小品など、美しい曲を沢山ご一緒させて頂いた。 日本から帰って数日後、今度は長距離ドライブでSan Diegoに。アメリカの高速はうっかりすると時速140キロを超えて走ってしまう。でも大自然の中の広々としたハイウェイでは、あんまり早く感じない。周りの車に抜かされたりする。 San Diego Flute Guildとは去年からのご縁。毎年恒例のSpring Festivalでは近辺の小学生高学年から音大生・セミプロまでがコンクールに参加したり、楽器商店などの出品を物色したり、公開レッスンを受けたりする。この音楽祭の目玉は二つ。アメリカ中から録音で選抜された若いフルーティストのコンクール勝者のコンサート。さらに、このコンクールの審査と公開レッスンの講師を務める客演フルーティストのリサイタルである。私が仰せ使うのは、コンクールの最終選考の伴奏と勝者のコンサートでの共演、そして客演フルーティストのリサイタルでの共演。今年の客演フルーティストは元ボストン交響楽団の首席フルーティストで、現在はライス大学でフルートの教授を務めるLeone Buyse. 世界に名だたるフルーティストである。私が博士課程を修めた母校の恩師でもある。 伝説的なピアニストでこれまた私の恩師Claude Frankと並んで、Leone Buyseは私が「音楽の天使」と呼びたい一人である。優雅で邪気が全く感じられず、音楽を愛する気持ちだけがひしひしと伝わってくる。後光がさしている感じ。レオンは大の日本好きでもある。 「マキコサ~ン、オゲンキデスカ?オシサシブリデ~ス」とハグしてくる。 「演奏旅行で今まですでに12回も日本に行けた!」と目を輝かせて、「でも桜の時期にはまだ一度も行っていないの」と私の携帯の桜の写真を、感嘆詞をあげながらいつまでも見ている。 レオンは妖精の様な人だ。私が(こう言う風に年を重ねたい)と憧れる愛らしさ愛情と余裕と優雅さをすべて持っている。周りへの気遣いが何気なく、でも画然としている。レオンの周りではみんなが優しくなる。彼女の音楽も同じく。共演者に自信を持たせる確固たるリズム感と、気遣いが両立している。そして気負いの無い自信がある。周りを圧倒する自信ではなく、周りを安心させてくれる余裕がある、朗らかな自信。こういうのをカリスマと言うのかもしれない。 レオンと今回初めて共演して、開眼場面の一つ。本番直前の楽屋で。「本当は外で日の光を浴びていたいんだけれど、色々な人に話しかけられるでしょう?話しかけられると嬉しいからついつい会話してしまうけれど、本当は本番前は静かにしていたいのよね~。」と入って来たレオン。楽屋は一つしかなく、私たちは二人で一つの楽屋を共有するしかなかったのだけれど、私に「無理な会話と気遣いはやめましょうね」と優しく気遣って同時に釘を刺し、さらに「本番前は奏者は音楽に集中するわがままが許されていいんだ」と言う安心を与えてくれた。そして私がトイレに行って帰ってくると弱音で練習していたのだが、それがこれから私たちが弾くレパートリ―では無かったのである。「ああ、これ!? これ来週弾くの。何度弾いてもなんか弾きにくい曲ってあるのよね~。」貫禄を感じた。 こう書きだしてみて、最近私は素敵な女性の先輩に色々な大切な事を伝授されている気がする。ラッキーだなあ、と思う。

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