楽譜を読む能力は音楽を楽しむためにどれくらい必要か?
Leon Botstein著『Listening through Reading: Musical Literacy and the Concert Audience』
Nineteenth-Century Music, Vol. 16, No. 2,Music in Its Social Contexts (Autumn, 1992) pp. 129-145. University of California Press.
チャールズ・アイブスは音楽を描写するために使う言葉が読む人の音楽の体験を影響してしまう事を受け、「言葉を超越した絶対音楽」の概念は無理だとした。音楽を言葉その物と捉え、物事の本髄を表現することによって現存する言葉を超越した世界共通語となることを目指すことができるだけ、とした。
この記事で著者は、音楽と言葉の関係の歴史的な発展を追っている。
18世紀の後半、一般聴衆と言うのが中産階級の出現によって広まった。文盲率の減少、都市化、市場経済の発展、印刷物による一般情報の多様化の結果だった。表現の自由や、活発な情報交換、多数決などによる社会形成が文化を大きく影響した。
このころのアマチュアの多くはまだ貴族的教育の名残を受け、アマチュアとしてでも楽器演奏だけでなく、作曲も出来た。
18世紀の終わり頃すでに設立されていた音楽に関する文学は批評、美的概念論、そして音楽に関するフィクション。ここに音楽の歴史(1776~)や作曲家の伝記が少し遅れて加わる。
このころのアマチュアと言うのは大体歌を歌うか、弦楽器を演奏していた。(ピアノはやはり一般的には高額だった。)歌や弦楽器だと「楽譜を読む」と言う行為は、音符を見たらその指示されている音程を自分で分かり、発音できなければ行けない。
19世紀の始めごろから消費者社会になり、文化は娯楽に成り下がる。
しかしこのころから音楽学校の設立が盛んになる。
1848年の革命を境に、ドイツ語圏を中心に音楽文化がもう一度盛り上がる。合唱クラブやアマチュアアンサンブル、中産階級の中からスポンサーを募って運営する公開演奏会。それまで家庭内だけで音楽演奏を楽しんでいたアマチュアが社交的に音楽創りを楽しめる。
ピアノが安く手に入るようになり、沢山の家庭に進出。ピアノでは楽譜を読むと言う行為が、音を見ればどの鍵盤をどの指で弾けば良いか、と言う事になる。歌や弦よりもずっと簡単でだれにでも出来る。
ピアノが「音痴でも弾ける楽器」を提供したことと同時に、消費者経済の影で音楽が大衆娯楽となり下がる危険。これら危惧した評論家たちが、ベートーヴェンの崇高化などを通じて、いわゆる「クラシック」音楽を通じた精神性や意識の向上、教育効果などを高らかに歌い始める。
19世紀後半になるとここに曲解説や、どうやって音楽を聴くべきかを説く本、音楽の簡単な略史、演奏会用の演目解説、そして音楽誌が沢山出回る。
このころは演奏会の供給が需要に追い付かず、一般聴衆は音楽イベントに飢えていた。
その飢えをちょっとでも満たすために、旅行ガイドの様な音楽批評を多く出回った。
…19世紀後半以降は私の博士論文に直接関係が無いので、とりあえずここで中断。
すでに一応知識としてぼんやり理解していることを的を得ている他の人の言葉で読むと、爽快!
音楽人生、万歳!