私は哲学史は全くの素人です。
私は19世紀のピアノ演奏様式の中でなぜピアノ曲が暗譜で演奏されるようになったのか
博士論文で書こうとしているだけです。
でも、その中でどうしても哲学と美学の歴史に触れずには片手落ちになることを無視できず、しょうがないので付け焼刃で(えいや!)と音楽に関係があるところだけをつまみ読みしたものをまとめているだけです。
誤解にお気づきになられた方はメッセージでご指摘いただければ大変助かります。
更には、文献のご提案なども本当にありがたいです。
私が以下に書くものは次の文献に基づいています。
更に、論文を書いていく上で整理が必要になったらこのブログに戻って校正する予定です。
多分どんどん付け足していく事になると思います。
Zarko Cvejic著「The Virtuoso as Subject」Cambridge Scholar’s Publishing (2016)
Immanuel Kant (1724-1804)が人間の主観と、実際の世界の間にギャップがあると最初に提唱した。これはコペルニクスの地動説に次いで、思想史の中でも非常に革命的な事だった。カントに続く哲学者は、このギャップをどのように埋めるかと言う事を重大テーマとした。その中で抽象性を持つ芸術が「真実」を垣間見させる、あるいは「真実」に到達させる、と言う考え方が主流になってきた。
後世の哲学者とは違い、Kantは「演奏や演奏家を無視した音楽そのもの」と言う概念に至らなかったので、音楽の抽象性をそれほど高くは観ていなかった。(「自分は音楽をあまり知らない」と言っている。)しかし、美の条件を「無私でどんな概念からも独立している」とした上で、こう言う物に打ち込む時、人間の自由な理性と道徳性を通じて、総合意識のような物に到達できる、とした。
Johann Gottlieb Fichte (1762-1814)はカントを引き継ぐ。それ程美的意識を重要視したわけではないが、私の論文に於いて重要なのは私が絶対的な自由(主観と客観を超越した域)に到達できるのは道徳を通じてのみで、この道徳と言うのは個人が自由意志によって自己を抑圧する事である、と言う所が演奏者が作曲家のお筆さきとなるべく自分を消す、と言う態度に似ている。
Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831)はベートーヴェンと同じ年に生まれている。さらにA.B. Marxと言う私の論文に重要な音楽評論家と同時期にベルリン大学で教鞭を取っている。ヘーゲルの講義はエリートを気取る連中が鈴なりになって聞きに来たようで、音楽理論や作曲の教授だったMarxも講義に通った。カントに続き、芸術活動(能動的でなくてはいけない)は自分と世界を同時に知るために重要だと考えた。芸術は、個人の個性(=独立性)を反映できると考えた。しかし、ヘーゲルは芸術は感覚に訴え、個人を啓蒙へと導くきっかけのみだとした。美の感覚によって啓蒙に導かれた個人はこの後、精神性(ヘーゲルにとってそれはルーテル派)、そして哲学へと段階を経て、最終的に絶対的な真実へと到達する。
Friedrich Wilhelm Joseph Schelling (1775-1854)はピサゴラス・ボエティウスの「音楽=宇宙を体現する数式」を引き継ぎそのまま「音楽=形式」とした。ハンスリックはシェリングの圧倒的な支持者。シェリングは音楽を神を体現するものとした。
Arthur Schopenhauer (1788-1860)は無神論者でシェリングが「神」を据えるところに、「意思」を据えた。芸術のみが人々が客観的に時間を超えた真実を垣間見られる媒体だとした。そして音楽は「表象」の過程を超越し、「意思」その物を体現できる最高の媒体だとした。我々は究極的には主観から自由になる道は「死」のみだけれど、『美』に我を忘れる事によって瞬間的にこの自由を垣間見ることができる、とした。
これ等の哲学者に於いて、音楽とか芸術の抽象性の重要度と言うのは、それぞれの哲学者が個人と言う物をどれだけ自由と観ていたかに大体反比例している。
音楽の重要性:Kant < Fichte < Hegel < Schopenhauer & Schelling
個人の自由度:Hegel > Kant & Fichte > Schelling > Schopenhauer