書評:「作曲家の魂に通じるように演奏」

孤立した個人が歴史を動かす事はない―と言う事が、私がこの博士論文へのリサーチを通じて認識したことの様な気がする。例えば、コペルニクスの地動説やカントが指摘した「主観と客観の間のギャップ」、ダーウィンの進化論、さらにはピサゴラス、ベートーヴェン、アインスタイン…これらの人は画期的な見解を提示した。でも、それが受け入れられたと言う事は、それが理解される土壌が社会にすでにあったと言う事。

 

でもじゃあ、いずれは多数意見となる見解にはいつも何等かの客観的真実の反映があるのか?必ずしもそうでは無い。かつては天動説が信じられていたのだから。そして何よりアーリア優勢が一時期とは言え、民族虐殺を社会的に許すまで信じられていたのだから。

 

私は天邪鬼である。社会的に自分よりも信憑性が高いとされる人に「これが真実」と言い渡されても自分の頭で「本当に言い渡されたことが真実だろうか」と考えてみたい。子供の頃からそうだった。

 

歴史と言うのは、実際の社会変動を物語にすると言う事。3次元的なモノを2次元的なものにする作業に似ている。例えて言えば、球を描くのに視点を定めて一方向からしか書けないような感じ。その時に視点を定めるのに都合が良いのが、あたかも一人で歴史の方向を変えてしまったかのように見える科学者や哲学者や物書き。でも、そういう歴史には必ずウソがでる。歴史的真実とか美的概念言うのは実際には捉えどころがないはずであるべき。その両方を無理やり体裁の良い物語にしようとする音楽学なんていうのは、私は元々懐疑的なのである。

 

しかし、今回は頭を抱えてしまう。色々な人が、色々な時代に、色々な場所で同じことを言っている。そして何よりも困るのは、今私が言及している多数意見と言うのは、私がこのリサーチを始める前に、自分が自分の実体験に基づいた見解として述べたり書いたりしていたことなのである。

 

「音楽は言葉を超えたコミュニケーション」

「音楽を通じて、文化・時空・個人的背景を超越した(作曲家ー演奏家ー聴衆との、更には古代永劫全人類との)一体感を味わう事が出来る」

「音楽は、だから、人類愛」

「演奏中は時間・言葉・肉体・意識…要するに『自分』を超越して自由になることが出来る」

 

私はこういった事を19世紀の主にドイツ人哲学者が言っているとは知らなかった。もしかしたら19世紀のロマン派理想主義ドイツ哲学者が言った事がクラシック音楽の文化の中に浸透し、一般知識として先生から生徒へと代々と言い方を変えて伝承されて来たものが私の中からまた似た様な言葉や考えとなって書き表されたり、言い表されたりして来ていたのかも知れない。でも、私は正直に実体験に基づいた個人的な実感として言っていたつもりだった。

 

実際に音楽を稼業としていた人達に関する研究は少ない。それはこう言う人達があまり書物を残していないから、と言う事もある。しかしそれでも、教則本や手紙や日記などには彼らの考えが残されている。これをひっくり返して研究した音楽学者、Mary Hunterの書いた記事を二本、続けて読んだ。

Mary Hunter著To Play as if from the Soul of the Composer:The Idea of the Performer in Early Romantic Aestehtics, Journal of the American Musicological Society, Vol. 58, No. 2 (Summer 2005), pp.357-398

Mary Hunter著‘The Most Interesting Genre of Music’:Performance, Sociability and Meaning in the Classical String Quartet, 1800–1830, Nineteenth-Century Music Review, 9 (2012), pp 53–74.

 

まずこの人は作曲家に対する演奏者の力関係、そして楽譜と言う物と奏者の関係を描こうとしている。さらに、19世紀のドイツロマン派理想主義に関する音楽学に於いて、演奏者と言うのは作曲家と言う『主』に対して全く『従』の立場になったかの様な書き方をされるのが普通だが、実際にはそうは在り得なかった。むしろ、作曲家の概念的な音楽を実際に聴衆に届け、作曲家とも聴衆とも一体感を味わうと言う意味では演奏と言うのは究極的にロマン派理想主義的な行為だった、と言う新しい見解を述べている。

 

この人の論理の展開については、私はあんまり興味がない。私が興味あるのはこの人が50ページに及ぶ記事の中で行った膨大な引用。その全ては演奏と言う行為についてか、実際の演奏者によって書かれているか、演奏者のために書かれている。そしてこれ等を彼女の論点に沿ってではなく、年代順に並べ直して読んでみると驚異的な事が明らかになる。

 

1749年。啓蒙主義が多大な影響力を持ち、作曲家よりも演奏家が、演奏家よりも聴衆が力を持っていて、楽譜と言うのはレシピに過ぎず、演奏会では演目も演奏も即興が多かった時代にすでに「演奏と言うのは演奏家が自我よりも音楽(作曲家の意図)を大事にするときに一番表現力を持つ」とGeminianiと言うイタリア人が言っている。ヘーゲルが「自我を超えた融合による社会・世界の向上」と言うような事を言うずっとずっと前に、「美学」を1818-29年に出版して奏者の作品と作曲家への融合を説くずっとずっと前に、すでにイタリア人もフランス人もドイツ人もいたるところで全く同じことを言っている。さらにさらに、ヘーゲルが言っていることってはっきり言って花伝書(風姿花伝、1400年ごろ)に書いて無かったですか?それに、ヘーゲルの個人の「より大きな存在へ」の融合ってキリスト教の三位一体から来てるそうじゃないですか?

 

要するに、概念論ではさもかし新しい、画期的な見解の様に聞こえたかもしれないけれど、実際には道(何でもいいです、武道でも能でもクラシック音楽でも)を極めた人には実感としてある、古来永劫・老若男女、万類に通じる真実だったことって在り得る?

 

勿論このMary Hunterは在る見解から引用を選んでいる。この人は膨大な量の教則本や哲学書や手紙や日記や批評論を読んでいて、私にはそこまでする時間が無い。でも少なくともヘーゲルとかカントとかショーペンハウアーとかよりずっとずっと前に実際に音楽をやっている人達が哲学者を先駆けすることを言っていた、と言う裏は取れた。

 

哲学は言葉の遊び!私は実技の方が好き。私は道を極める過程で考える。私は考えるためには考えない。私はとっとと論文を書き終えて、もっともっと練習と演奏をするぞ!

 

音楽万歳!

Leave a Comment

Your email address will not be published. Required fields are marked *