12月17日はベートーヴェンの最初の歴史的記録(洗礼を受けた日)から244年目です。
音楽史、そして歴史一般を勉強すればするほど、
ベートーヴェンと言うのがいかに影響力を持った歴史的シンボルとなったか、
と言うことをつくづくと思い知らされます。
近代史に置ける交響曲9番だけを見ても、
1989年のベルリンの壁の前でバーンスタインが降った9番、
天安門事件の際に学生たちが歌った「喜びの歌」など
その象徴性をあらわす例は尽きません。
このテーマで制作された映画「Following the Ninth(第9を追う)」からのクリップを
英語ですが、こちらでどうぞ。
本当に感動して、私は泣いてしまいました。
しかし、ベートーヴェンは同時にクラシック音楽を「困難」な物にしてしまった作曲家でもあります。
ベートーヴェンは、個人的にはそんなつもりはさらさらなかったと思います。
もともと偏屈で、しかも失聴によりある意味周りとの交信を断絶され、
そんな中で情熱に突き動かされた知能的な探究の個人的な結果が彼の音楽では無いでしょうか?
でも、彼の難聴と失聴から来る孤独、自信喪失と、社会的困難、
そしてそれを乗り越えて西洋を代表とする芸術家として名を遺した、と言う史実。
その上啓蒙主義で個人個人の意思・思想が体制や宗教よりも重要視され始め、
さらに工業革命、教育の一般的な浸透など、いろいろな時代背景の結果。
そういういろいろな要素が絡み合って
ベートーヴェンは歴史の方向転換を象徴する偉大な作曲家になってしまったのです。
ピアノのレパートリーの中で
バッハの平均律集を「旧約聖書」
そしてベートーヴェンの32のピアノ・ソナタを「新約聖書」
と言うことがありますが、あながち誇張でもありません。
孤独な困難を乗り越えて勝ち得たもの(のみ)に価値を見出す。
クラシック音楽がある意味から宗教のように崇拝され、同時に一般的に敬遠される方程式。
この方程式は特に、
勤勉で真面目でそして貧困な農作国の歴史を持つ日本人に好まれる気がします。
しかしベートーヴェンが生きたのは1770年から1827年。
ある種の美、人間性、そしてメッセージに普遍的な価値を見出すのは良いとしても、
200年も一人の作曲家がこれだけ多大な影響力を持ち続けると言うのは健康的なのか?
なぜ、そういう現象に至ってしまっているのか?
クラシックはこのまま行って、生き残れるのか?
ベートーヴェンにあまりにも大きな象徴性を課してしまったせいで
私たちは進化を拒否して、足踏みしているのではないか?
音楽の本来の姿を忘れ始めているのではないか?
音楽とは本来もっと素直で自然で日常的で、楽しいものではないか?
クラシックは苦しい音楽になってしまっているのではないか?
私のクラシックの理想追求には少々マゾ的要素があったことを否めません。
だから、こういう自問自答に至るわけですが、
じゃあ、これからどうすれば良いのか。
考えどころです。