ピアニストのジレンマ:ヴィルチュオーゾの実物主義vs.音楽楽理の精神主義

お世話になっている方にご紹介いただいて、先日こちらの番組を観た。

 

私は反田恭平君と言う若手ピアニスト(22歳!)の存在すら知らなかった。

そしてこの番組を観て、久しぶりに「また寝食忘れて練習に没頭したい!自分もまた超絶技巧をやすやす弾きこなす所までバリバリ練習したい!もう一度ラフマニノフの2番をオケと弾きたい!」と掻き立てられた。番組では反田君が朝の4時まで夜を明かして練習するところや、弾き始めるとすぐに汗が噴き出すさま、さらには「ピアニストには体力が必要」とサンドバックを手のあざが流血にいたるまで殴ったり、ウェイト・トレーニングをする所が映される。これはまさにヴィルチュオーゾのイメージである。

 

ヴィルチュオーゾは練習量を誇示した。リストは毎日何時間とオクターブでスケールやアルペッジオを色々な調性やパターンで行う技術訓練を行った。退屈をしのぐために本を読みながらだった。リストの有名な弟子、Hans von Bulowによるとリストの練習はあたかも「救世主の様に自分の指を痛めつけることによって『死んだ手(”Dead Hands, ‘la main morte'”)』で弾く事を勝ち取るものだった(I crucify, like a good Christ, the flesh of my fingers in order to make them obedient)」。1832年の事だ(ただし、パガニーニに衝撃を受ける直前)。リストの「死んだ手」は後にリストのライヴァルThalbergの「骨抜き手」、さらに19世紀最後に「解離した手(la main dissociee)」、そしてその後20世紀初頭までの有名なピアノ教授(Mason, Deppe and Leschetizky)の「活力を奪われ開放された」手と、名前を変えて受け継がれた、演奏に於ける一つの理想である。そしてそれを可能にする練習と言うのは自虐的で膨大でなければいけなかった。アドルフ・ヘンゼルト(1814-89)は一日10時間、練習用の無音ピアノでバッハを弾きながら聖書を読んだ。アレクサンダードライショック(1816-69)は一日16時間練習した。こういうのは多分、誇張だろう。でも、そういう誇張がまことしやかに史実として残る、と言うことの歴史的態度と背景がここでは検証に値する。

 

暗譜は、この膨大な練習によって意識せずに自動的に弾ける域に到達する、と言う事の延長線上にあるとも言える。一方、こういう練習は暗譜忘れで舞台が恐怖になるピアニストへの唯一の恐怖への対処法でもある(ヘンゼルトは有名なあがり症で、協奏曲を弾くときは舞台袖でオケのイントロぎりぎりまで隠れていて、ピアノソロの瞬間に走って行って弾き始めたそうだ)。

 

この「質より量」の練習、「起きてる時間は全て練習!」を美徳とする文化は今でもピアニストの間で在る。私も何年にもわたって朝起きたら兎に角歯だけは磨いて家を飛び出し、道中で朝食を確保して一日中練習室にこもる、と言う生活を続けていたこともある。そうして難曲とされる曲に次から次へと挑んだ。そうしていると確かに自分の演奏が自分の肉体も意識も時間の感覚も超越した所に行くように感じられる。それは快感で満足感があり、練習は中毒になる。昨日反田君のドキュメンタリーを観て私が感じたのは、禁断症状に似たものが在ったのかも知れない。あるいは今論文を演奏や練習に優先させていることがまるで背徳行為であるかのような罪悪感かな。

 

膨大な練習によって自分のピアノ技巧や演奏を肉体や意識を超越した所に持っていくこと事を目指すピアニストは苦行を甘受する僧侶の様にも見えるかもしれない。

 

19世紀に入り、啓蒙主義で従っていれば良い権威(教会・公邸・慣習)などを失い「自分」と言う物に責任と義務を急に持たされた人々は、戸惑った。どこにそのモデルを見出せばよいのか…そして流行したのがヴィルチュオーゾたちだった。料理、探偵、チェス、手品…色々なヴィルチュオーゾが出現したのだが、ピアノ・ヴィルチュオーゾが特にもてはやされたのにはいくつか理由があった。まずピアノと言う楽器が工業革命の産物であり、19世紀前半を通じてみるみるうちに品質改良と量産が進んだこと。品質改良の度にピアノは鍵盤の数や音量をどんどん増していき、それまで不可能だった新しい演奏技術が披露され、その度にセンセーショナルだったこと。そして工業革命を体現するピアノと言う巨大な楽器を臆せずに制するヴィルチュオーゾピアニストは時代を君臨する英雄、自分の指や膨大な数の音符をまるで歩兵の様に操る司令官、と言う風に憧れの対象となった。

 

しかし、この「あたかも肉体やピアノと言う巨大な機械を超越しているかの様に弾いて見せる」ヴィルチュオーゾピアニストと言うのは、19世紀のロマン主義に於いては少なくとも一部の哲学者(ヘーゲル)、音楽理論家(E.T.A. Hoffmann、A.B. Marx)、評論家(ロバート・シューマン、Hanslick)などによって「実物主義的」として、世俗的なくだらない物と評価され、Charlatan(山師)などと酷評されるようになる。ヴィルチュオーゾが提示するものは即実的である。演奏は見えるし、聞こえる。ヴィルチュオーソその物もカリスマを持ったスターと言うイメージを持った実際の人物。しかも彼らはその演奏とイメージの見返りとして富と名声と言うあまりにも世俗的な報酬を受け取る。

 

ヴィルチュオーゾに対して音楽に於ける世俗性を超越した「精神性」を求めてドイツロマン派主義の音楽家や哲学者たちが到達したのが先日私がブログに書いた「観ない演奏、聞こえない音楽」。ここでは演奏家は作曲家のお筆さきとして、演奏会と言う儀式を司る司祭として、作曲家とその作品を際立たせるために自分は作品の中に消え入らなくてはいけない。この作品に消え入ると言う事を最初にやったピアニストで最も有名なのがクララ・シューマンだ。クララを始め精神性重視のピアニストは、自分がいかに練習をしないか、を誇示した。クララは「3時間以上の練習は無駄」としている。そして人間としてバランスの取れた成長をすることでより良い音楽家となるために、読書をしたり外国語をしたり他分野の芸術作品に触れたり、自然の中で体を動かしたりすることを実践し、生徒にも進める。(ショパンも同じ考えだった。)こう言う精神性重視の音楽や音楽界に於いては聴衆は「時間と共に流れゆく音楽を聴く」のは邪道とされた。本当に正しい聴き方を会得するために自ら作曲の勉強をし、作品の音楽の構築や作曲技法を理解し、作曲家の創造者としての意図を理解し、その作品を把握することによって自分の精神性を高める、と言う事が求められたのである。

 

私は今この「精神性」
を目指して、この論文をかいているのだろうか?しかし精神性と言うのはあまりにも抽象的で、実際性に欠け、苦しいくらいである。この論文のリサーチと執筆を通じて私は確かに脳の新しい域を開拓していると実感する。毎日新しい見解が生まれる。それをどんどん進めるのは楽しい。一文、一章と書き進めていく上での満足感もある。でもはっきり言って、練習の方が達成感が大きい。より多くの人を幸せにできる。練習がしたい!でも論文を仕上げなければ…

 

でもこのジレンマと言うのはリストの様なヴィルチュオーゾもクララの様なピアノ司祭も同じく感じていたに違い無い、と私は思う。練習時間だけ取ってみてもどちらの話しにも誇張がある。二人の練習量、そしてジレンマは実は凄く似通っていたのでは、と私には思える。技術獲得のための練習をするのか・精神修行のために読書や芸術鑑賞をするのか、スター性を前押しした演奏をするのか・作曲家を崇める演奏をするのか、音楽が自分のためにあるのか・自分が音楽のためにあるのか…これ等はすべて抽象的な問いかけであり、実際にははっきりと黒白がつけられる問題ではない。リストもクララも実際の演奏にはいつも多かれ少なかれ両方の要素を持っていたと思う。そして練習時間に限って言えば、私たちは皆1日24時間しか無い。そして演奏は実際の演奏会場への交通や着替えなどの直接的な時間のほかに、事務的な交信やアレンジにかなりの時間がかかる。さらに二人とも副業として生徒を教えている。そして二人共家族や愛人などの人間関係のしがらみがある。これらをすべてこなしてさらに練習をするのは3時間でも難しいし、10時間に至っては毎日やるのは無理である。それをあたかも実際に毎日やっていたかの様に書き残すのがロマン派であり、クラシック音楽なんだと思う。「歯だけは磨いて練習室に直行して夜になるまで…」の時代の私だって、実際は練習室でノートに日記を書き連ねたり、練習の「お休み」に友達と昼食を食べながら何時間もだべったり…振り返ると「睡眠以外は全て練習!」とはとても言えない。そうなのだ、大体そんなに練習していたらクララやリストの膨大な交信記録や日記が残る訳がないではないか!

 

そして私も目指すは悲愴感や哲学をにおわせる究極の我武者羅ではなく、バランスである。「1日論文!」も無理だし、「1日練習!」も無理。バランスを取って健康的に、生産的に、着実に、練習も執筆も進めます!ブログも書いちゃうし、日本語テレビも見ちゃう。

 

音楽人生万歳!

 

 

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