- 6月7日(日):世界的な新感染者数が13万6千人で新記録。
- メキシコやブラジルなど、感染者数・犠牲者数の発表を辞めてしまった国もあるのに。
- コネチカット州で勝訴:身体障碍者、あるいは知的障碍者の場合、患者の家族が入院・通院に付き添わないのは治療の妨げになり、人権問題になるとして、6月15日から付き添いが認められる
- 抗議デモは続く
- アメリカの半分以上の州で、感染者数の増加ーデモの影響は大きい。
1989年6月9日(金)、母と妹と私はすでに現地入りしていた父を追って、アメリカのニューアーク空港に到着しました。日本での最後の一晩は、会社が用意してくれた空港に近いホテルに一泊。朝食のビュッフェで私と妹がワクワクとしながら菓子パンやオムレツやソーセージや洋食系のものを次々とお皿に盛る横で、母が「日本食が次にいつ食べられるか分からない」とご飯と味噌汁と納豆と、と純和食の朝食にしていたのを覚えています。
バブル経済がはじける直前でした。ビジネスクラスの空の旅でした。当時の飛行機は映画の上映時間が決まっていて、今の様にそれぞれの乗客が好きな時に好きな映画を観ることができるようになるなんて想像もできませんでした。ずっと観たかった「レインマン」が上映された3本の映画の一本で、3人で狂喜しました。なんだか幸先が良い気がしたのです。母がスチュワーデスさんに、「上映時間には起こしてください」と頼んでくれて、3人で興奮しながらかぶりつきで「レインマン」を観ました。父がリモジンで空港まで迎えに来てくれました。ハリウッドセレブが授賞式に乗り付けるようなリモジンです。会社が用意してくれたのでした。何しろ、バブルだったのです。
私たち渡米の直前に起きた6月4日の天安門事件の重要性を当時13歳だった私がどれだけ認識していたか覚えていません。それよりも到着当日の午後、時差で昼寝をしてしまった妹と母をホテルに残して父とホテルの周りを散歩したことの記憶が鮮明です。「ほら、見てごらん。アメリカは大木が多いよ。日本と違って空襲が無かったからね。日本は空襲があったところは1945年以降の木しかないからね。」と言われ、父の博学(に思えたのです)が頼もしく、そして新天地が美しく見えました。
6月11日、台湾系アメリカ人のマイケル・チャンが若干17歳でアジア人テニスプレーヤーとして初めて、グランド・スラムを勝ち取りました。テニスなんて今でもこれっぽっちも興味ないのですが、私にとってそれが忘れられない出来事となったのは、アメリカ到着の2日後、外食のために家族で街を歩いていたら、全く見知らぬ白人男性に父が握手を求められ「おめでとう」と言われたからです。仰天しました。この男性にとってはただ単に友好的で何気ない思いつきが、私にとっては非常に重要な出来事だった理由はいくつかあります。
- アメリカでは見知らぬ人が声をかけてくるだけでなく、スキンシップまで求めてくる!
- そして私たちは「東洋人」であり、日本人としては認識されない!
- そして「東洋人」は一つのカテゴリーであり、東洋人に喜ばしいことは、私たちにとっても喜ばしいらしい!
- つまり...私の名誉は東洋人の名誉で、私の汚点は東洋人の汚点!?
1989年はフランス革命勃発の200周年記念でもありました。それを知ったのは、私たちの新居の隣人のお爺さんがフランス系アメリカ人で、祖先が革命中にアメリカに逃げてきたことを教えてくれたからです。
このお爺さまは親切だったのですが、私たちを良く観察していました。私たちの新居の庭は横浜の庭の100倍くらいあったのですが、私たちはどうしても草刈りをお金を払って人にやってもらうなんて許しがたいことに思えたのです。だから、自分たちで日本と同じように芝刈り機でやっていました。でも毎週末やっても中々追いつきません。そうすると、親切なアドヴァイスを受けるのです。「芝生が伸びていますよ。」「タンポポが生えていますよ。」「手動の芝刈り機では無理ですよ。エンジン付きの古いのがあるから、貸してあげましょう。」
木曽の山中で育った父は結構楽しそうで、庭の藪の野イチゴを私たちに食べさせたりして喜んでいました。都会育ちの私たちは「汚い」とか言ってあまり有難がらなかったのですが、不思議と今、その味を思い出せる気がします。ある日、父は落ちていた落ち葉や枝を集めて火を点けました。そしたら消防自動車が来てしまったのです!庭先で火を起こすのが違法なんて、きっと木曽育ちの父には想像もつかなかったのでしょう。皆で大笑いした記憶があります。ばてるまで芝刈りや草むしりをやって、前庭で皆で母が持ってきてくれたレモネードをピクニックの様に飲み干しました。今思い返すと(目立っただろうなあ)と思います。アメリカで前庭は何かをする場所ではなく、庭師にまかせて綺麗に刈り込んで、あとは放置して人に見せるものだからです。でもその時はそんなこと思いも呼びませんでした。ついにギブアップして庭師を雇うまで、何週間くらい平田家総動員で頑張ったのでしょう?今となっては良い思い出です。
世界は11月のベルリンの壁崩壊に向かって色々な事が着々と動いていたのですが、1989年は平田家にとっても一大事の多い年でした。私と妹はアメリカ現地校に入学し、私は土曜日はジュリアードのプレカレッジに通い始めました。ピアニストには必修の合唱の授業で最初に歌ったのが、子供の頃から大好きだったモーツァルトのレクイエムです。音楽で背筋がゾクゾクするという体験を始めてしました。(な、なんだこのゾクゾクは...?)と慌てながら、なんだか全く新しい境地に立っていると確信しました。室内楽も初めての経験でした。ソルフェージュと楽理は、余りにも簡単でこれもびっくりしました。それからジュリアードにはアメリカ人(私の中では当時はアメリカ人=白人でした)しかいないと思っていたのに、入ってみたら生徒のほとんどが東洋人でびっくりしました。(先生は、ソルフェージュや楽理を別にすると、白人ばかりでした。)日本人も沢山いました。プレカレッジだけでなく、学部も大学院生もです。韓国人も中国人も沢山居て、私の様に英語に不慣れな生徒が多かったので、現地校よりもずっと気楽に過ごせました。でも振り返って考えると、気楽だったのは英語が喋れなくても引け目に感じる必要が無かっただけでなく、東洋人が多勢だったこともあるのかも知れません。月曜日から金曜日まで通っていた私の現地校には有色人種は数えるほどしかいませんでした。
母は本当に頑張ってくれました。自分だって慣れないアメリカで心細かっただろうに、私に付き添って毎週土曜日ジュリアードまで通ってくれ、レッスンの時間は通訳をしてくれ、私の授業中はせっせと航空便箋にびっしりと字を書き連ねていました。当時のニューヨークは今と違って犯罪率が高かったのです。銃を突きつけられてお金を要求されたとき現金が少ないと撃たれることがあるから、との出展不明の助言を信じて、いざと言う時出せるように二人で靴下に20ドル札を隠し持ったりしていました。母は戦々恐々としながらも、時々カーネギーホールや、リンカーンセンターのコンサートにも連れて行ってくれました。当時の私のあこがれであり目標でもあった五嶋みどりさんのその年の演奏会でもらったサインは今でも私のお財布の中に入っています。私は初めて英語で受ける現地校の授業や宿題に加えて、ジュリアードのための練習や宿題と、プレッシャーの多い生活の中で息もたえだえという時が多かったのです。いわゆる「難しい年ごろ」でもあり、母に理不尽なわがままを言ったりもしました。でも、母はお夕食にいつもすごく美味しいものを出してくれて(オックステールシチューが絶品でした)、そして毎朝不登校気味の私を優しく励ましてくれて、自分も初めてのアメリカ生活ということを脇に置いて、一生懸命色々生活や気晴らしの工夫をしてくれました。初めてのクリスマス休暇にはいくつもブロードウェーミュージカルを家族で一緒に見に行きました。ニューヨークのクリスマスはきらびやかで、おしゃれをして家族で出かけるのは楽しかったです。そして観光にNYで行った後は必ず紀伊国屋によるのが息抜きでも楽しみでもありました。
こうして当時の事を書いていると、色々な事が細部まで鮮明に蘇ってきます。過去の事は思い出せるのに、未来の事が全く分からないのは不思議なものです。でも、過去の思い出は財産として、将来の糧になります。それは、確信しています。
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