ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブの批評

私は、自分が自信を持って良かったと思える演奏がしたい。
他人にどう思われようと、どう褒められようと、自分が満足できない演奏には納得したくない。
言動で、演奏の印象をごまかしたくない。
でも、言動で演奏の印象をごまかせる事は承知している。
だから余計、その誘惑に勝てる、正直な、まっとうな演奏家になりたいと思う。
でも、今回のアウガスタ・リード・トーマスは、その意味で正直難しかった。
もともと現代音楽はベートーヴェンと違って一般的な解釈と言うものはまだ設立されていないし、
どの音が「正しい」のか、分かりにくいから、その演奏を正しく評価するのが非常に難しく成る。
私の経験から言えば、現代曲は余りにも複雑だから、
作曲家自身でさえ演奏家が正しい音を弾いているか分からない場合が多い。
多分、本当にその演奏の正確さをはっきりと把握しているのは演奏家自身だけだと思う。
だから演奏中、あるいは演奏後のハッタリでごまかしている「現代曲専門家」と言うのも居る。
今回私の演奏した”Traces”は現代曲の中では概念的にはもう少し分かりやすかったが、
技巧的にはかなり難しい所もあったし、音一つ一つに強弱記号や、
「エレガントに」「前の音に逆らって」と言ったト書きの様なものが付いていたり、
一つの音を右手と左手で交互に凄い速さで連打し続ける、と言った
普通のピアノ技法とはかなり違った疲れ方をする部分もあった。
そう言う意味で「難しい」曲だったと思う。
自分で解釈にやっと自信を持てたのは作曲家自身に狂喜してもらってからだ。
アウガスタ・リード・トーマスに初めて会ったのは去年のタングルウッド。
彼女は去年はFestival of Contemporary Musicの監督を務めた。
去年のテーマは「存命中の作曲家」で、選ばれた作曲家も曲も凄く若かった。
そう言う所が彼女と私と似ていると思うのだが、彼女は選曲の責任を全て任されたにも関わらず
自分の曲を出展する事を避けた。
兎に角、彼女が監督を務めた去年のFCMで私はやはりソロの曲で出演し、
彼女に大変気に入られた。
自分自身では納得できる演奏では無かったのだが、
演奏後の私の前に彼女は文字通り飛び出してきて(本当にピョン、と人混みの中から飛んできた)
「貴方は凄い!I love your playing! Oh, my God!!」
とこちらが後ずさりするような大興奮を披露したのだ。
今年、8月1日の最初の本番の前の準備の段階から、彼女は同じ様な興奮を披露した。
私自身の演奏の評価が自分で分からなくなるような作曲家の興奮で
実際観客にも受けたし、批評も「この演奏を逃した人は損をした」と言うような、大げさなものだったし
今となっては私はその日の自分の演奏を正確に評価する事が出来ない。
なんにせよ、その本番を前後して彼女は色々な人に私の推薦状を書いてくれ、
8月14日今年のFCMでの出演が決まってからは(多分本人も興奮・緊張していたと思うのだが)
「楽章の間は20秒くらい間を持った方が良い」とか、「このトリルは笑いを誘うように微笑んでみたら」とか
細かい提案がメールで細切れに来るようになった。
その間も「真希子のTracesの演奏は素晴らしい、私は一生でもう二度とこの曲をこのレヴェルの演奏で聴ける事は無いと思っている」とか「この曲はもう私のものではない、真希子のものである」と言った『前宣伝』と言ったら意地が悪いかも知れませんが、まあでも結果的にそう言うメールが沢山書かれていたようです。
本番二日前には「ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブが批評に来るから」と言うメールが来ました。
なぜ、彼女がそのことを知ったのか、この二つの大新聞が来る事にどれだけ彼女自身が影響していたのか
今は振り返って少し疑問です。
私は8月11日の深夜の録音、そしてその週毎日において行われていたシューマンのトリオのリハーサルとコーチングの為、余り経験しないような右腕の過労を感じていた。それから大きな新聞が二つ批評に来る、と言う事を他の誰にも言えず(他の子も同じプログラムで演奏するから、プレッシャーを与えたくなかったし、なぜ私がそのことを知っているのか、と追及されたらやはり困ったし。。。)シューマンのトリオもスムーズなプロセスでは無く、正直ストレスを感じていた。結果、8月14日のTracesは全く不満足な出来になってしまった。原因はどうであれ、私が自分自信、達成感も誇りも感じられない演奏をしてしまったのだ。(シューマンは頑張りました)。
ところが批評は全く悪く無かったのだ。ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブ、両方とも批評が今日出たのだが、私のかなりアカラサマなミスについては一つも触れずボストン・グローブは「弾けるような自身を持って "Traces"を演奏したマキコ・ヒラタはジャズとクラシカルの要素を混ぜたこの曲を両方の要素を活かして弾きこなし。。。」と言及し、ニューヨーク・タイムズはさらに「ジャズの要素を活かしながらショパン風のメロディーを歌わせ、バッハの要素を描き出しながら、モンク(ジャズ・ピアニスト)のハーモニーとリズムを際立たせ。。。」ともう少し紙面を割いて描写的。そして両方とも「今年のFCMではピアニストの活躍ぶり、レヴェルの高さが際立っていた」と結論づけている。確かに今年のFCMではピアニストが凄かった~私以外は。しかも、本当に唸るような素晴らしい演奏をしたのに、ニューヨーク・タイムズが記述を漏らしたピアニストが居るのに、私は両方ともに好意的な批評を頂いてしまっている。
批評家が本当に分からなかったのか?分からなかったとしたら作曲家自身の前宣伝に目がくらんでしまったのか?それとも若いながらにすでにかなりの地位を築いているこの作曲家への敬意表明が正直に書くことをためらわせたのか?何でも良い。私は惑わされない。私の演奏はまずかった。
ここで私がそう公表する事に何の意義が在るのか?分からない。でも私は黙りこくって本当は皆何を考えているのか懐疑心を抱きながら大きなキャリアを築くより、人から評価されなくても自分が誇りを持てる演奏を胸を張って出来る演奏家になりたい。今回はタングルウッドで私はリチャード・グッドとPierre-Laurent Aimard と言う二人の私の尊敬するピアニストのがっかりする演奏に遭遇した。リチャード・グッドはモーツァルトのピアノ協奏曲を楽譜を舐めるように読みながら演奏し、準備不足を漂わせた。Aimardに至ってはフルートとのバッハの「音楽の捧げもの」の一楽章をニッチもサッチも行かなくなって途中で切り上げてしまった。色々事情はあるだろう。どんなに高名になっても人間は人間だ。調子の悪い日も在るだろう。(今、気になってこの二人の演奏の批評を調べてみたが、両方ともやはり好評だった。。。)でも私は自分本位の演奏で無かった日に他の人の褒め言葉を黙って甘受し、その積み重ねで偉大な評価、大きなキャリアを築くような人間になりたくない。私は正直に、正直に生きたい!正直に、正直に弾きたい!

2 thoughts on “ニューヨーク・タイムズとボストン・グローブの批評”

  1. お疲れさまでした!素晴らしい評価を得ることができたようですし、大いに喜ばさせていただいてます。本当に行って直接雰囲気を味わいたかった。真希子さんの、正直に生きたい、正直に弾きたい、という心の叫び。聞こえてきました。これからもスポーツしながら、心身のバランス良く鍛えてください!!

  2. >momoさんありがとうございます。そうですね、余り卑屈に意固辞になっても非生産的ですよね。過去は過去、今出来る事に集中して、頑張ります。過ぎてしまった事は出来るだけ楽観的に記憶して。マキコ

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