- ミズーリ州が中国を訴訟:「パンデミックの責任を取れ」
- アメリカ政府:「想定外の大企業が中小企業支援に応募してきた。返せ。」
- ハーバード大学(800万ドル)など
- 4800億ドルを新たに中小企業支援に投入。
- CDC:「コロナはこの冬、インフルエンザと重なってにもっと脅威を奮う可能性あり」
- WHO:「最悪時はこれから」「まだ気を緩める時ではない」
「お父さん、『美人』ってどういう意味?」小学校低学年だったと思う。
「う~ん、お父さんにも良く分からないけれど、顔の右と左が全く同じだとか、目と鼻と口がきっちりと顔を3等分にしている、とかそう言うことじゃないかな~?」
こういう所は、父と野の君は双子の様である。
(なんだ、それは生まれつきじゃないか。じゃあ、もうしょうがないな。)私が自分と美人を切り離した瞬間である。
もう一つ、私が『美人』と『自分』を幼少期にきっぱり分けた思い出。
日本美少女コンテストの募集広告が新聞の見開きに載っていて、歴代受賞者の顔写真がずらりと何十~もしかしたら何百?~も並んでいた。私は新聞の上に乗っかって、真剣に一つ一つの顔写真を検証した。(私はここにいる美少女の誰にも似ていない。)がっかりしたのを覚えいてる。でも、心理的自己防御メカニズムがそこで私の人生を決める啓示をここで閃かせるのだ。(でも『美人』ってみんな似てる。私は『美人』より、自分にしかなれない人になりたい。)
私は生まれつき美人ではないのであきらめるしかない、あるいは美人になる事は自分の個性を犠牲にすることでそれは嫌だ、という概念に私はずっと捕らわれてきた。
高校生の卒業アルバム用に撮られた写真を23歳のカーネギーデビューのチラシに使った。それくらいイメージにこだわっていなかった。(お金もなかった)
(美人は得だな~)と思うことは何度もあった。(美人は得だな)と思うことは同時に(美人ではない私は損をしている、あるいはする)と思うことである。
衝撃的だったのは、忘れもしない13歳の時。ヴァイオリンを習っていた妹のお手本のCDを買いに行ったタワーレコーズで、何十とある歴代巨匠のCDには目もくれず父が即座に「これにしよう!この人可愛いよ」と決めてしまった時。(父を責めているわけではない。私は自然体の父が大好きである。)
そういうことに垣間見る世界の傾向に対する反動もあった。さらに業界で67.1パーセントの女性が受けるという統計が出ているセクハラを、御多分にもれず何度も受けたことへの反発もあった。(媚びを売らずにキャリアを築いて見せる)という姿勢に固執して、音楽の道を歩んできた。自分を宮本武蔵によく例えるのは「五輪書」と自分の「ピアノ道」を重ね合わせたことも勿論あるが、武蔵がお通さんより剣を選んだことに共感したからでもある。
兎に角ピアノを極めたい—だから、自分の女も、色恋も、邪魔だったのである。化粧や装飾品にかけるお金を稼ぐ暇があったら練習したい。 ...まあ、興味もなかったんでしょう。
その私が今、美人考察をするのは、COVID-19と脳神経科学を勉強した結果である。
COVID-19で、生演奏が不可能になった。そしてこの状態がかなり長期に及ぶ模様。「イベント禁止令」が解除になっても不景気は相当長引くだろう。感染の脅威が長く残る可能性も否めない。音楽を続けたかったら取り合えずオンライン発信するしかない。オンラインで音楽を発信するというのは以下の条件をのむということである。
- 自分が発信する音色や音楽と相手が受信するものにギャップが出る
- リアルタイムか否か、ということーライブ配信でも時差が生じる。
- 色々な機械様々な過程でが私が作った音色やタイミングをデジタル化する。
- 受信する側のスピーカーは千差万別・玉石混合
- ノイズが、機械や受信者の環境からいつも加わる。
- 演奏会場で観客が奏者を観るよりもずっと接近した自分のイメージが、自分の演奏の印象を大きく左右する。
- 相手に届く音が私のコントロール下に無いのと反比例して、相手に届くイメージに対するコントロールは大きくなる(カメラアングル・照明・ヴィジュアル効果など)
例えば、余韻というのは音響の良い演奏会場では奏者が一番その芸術性を発揮できるポイントだ。でもオンライン発信だと、これがほとんど不可能になる。受信者のスピーカーがどれだけの弱音を拾えるか、奏者は分からない。受信者のボリューム設定さえ分かり得ない。でも、奏者がその表情やボディーランゲージで(私はいま余韻に聴き入っています。私はこの最後のかすかな余韻に聴き入る事にこの曲の醍醐味を見出しています)と表現することはできる。
業界で有名な2013年の心理実験でこんなのが在る。人間が、音楽体験に於いてさえ、いかに視覚的かというのを証明する実験である。
- 10の国際ピアノコンクールから、それぞれ上位3位のヴィデオを実験参加者に見てもらい、優勝者を当ててもらう。
- グループA:消音で視覚のみ
- グループB:画面無しの音のみ
- グループC:音声と画面両方
- 実験参加者が音楽素人(185人)の場合 —グループA(46.4%正確)グループB(28.6%)グループC(35.4%)
- 実験参加者が音楽プロ(105人)の場合 —上記とほぼ同じ結果。
何故だ!? ...この実験については私はもう何年も知っている。始めは(なんてばかげた実験設定だ)と憤慨していた。ちゃんと読みもしなかった。でも今は、自分がライブ配信を二日後に控えて真剣に考察して、考えを改めている。音を消しても見える音楽性。それは①カリスマ性と②奏者の自信と③タイミング(ノッテいるか否か)だと思う。そして、視聴者に自分を投影したいと思わせるのにはその3つの要素で十分なのでは?
演奏のこの側面ー視覚的に音楽性を訴えるという側面ーを私は軽視してきた。その結果だと思う。私の最新のピアノ・ミュージック・ヴィデオの感想を送って来てくれた先輩がこんな言葉を漏らしたのだ。「最後のガーシュウィンを弾き終わった後の笑ったあなたがもっと見たい。どうしてもっと顔を見せないの?」 —実はこのヴィデオでは私は今まで出したどのヴィデオよりも顔を見せまくっているのである。(私の顔をこんなに見せてすみません)と申し訳なく思うほどである。それなのに「顔を見せていない」と思われてしまう。これは、私が共感をそそる表情をしていないからではないか?
目の前に置いてあるカメラを無視して音楽に没頭しようとすると、どうしても目をつぶってしまう。さらに、彼女が言うには「表情が真剣すぎる。真剣に演奏するのは良いのだけれど、音楽というのは究極的には楽しむものでは無くて?」—彼女はオペラ歌手である。元々音楽を視覚芸術と捉えている人種である。
表情に関して唯一褒められたのは、30分のビデオの最後の一瞬。これは別に笑おうと思ったのでは無くて、一日中収録に費やしてへとへとで最後のガーシュウィンが終わって(やったね~!終わったよ~)とすごくうれしかったので思わず笑ってしまったのだ。
脳神経科学の勉強を経て分かって来たのは、音楽に欠かせない「共感」という要素は美人の方が醸し出しやすい、ということだ。カメレオン効果や、ミラーニューロンの働きで、人は自分が成りたいと思える相手により注目する。要するに奏者に自分を重ね合わせてみることができればできるほど、視聴者の共感の度合いが高まる、ということだ。
美人とは「こんな人になりたい」という憧れと、「この気持ちは分かる」という共感の対象ではないだろうか。
飢饉の脅威に脅かされている時代はふくよかな女性がもてはやされ、飽食の時代は痩せた女性が良しとされる。これは希少価値への憧れだ。COIVD-19のこの時代に、私は心身共に健康そのものである。しかも、死にたいと思うほどの孤独感と戦う10代からの留学や、2度の大病、数えきれないほどの大小のセクハラと刑事責任追及にまで及んだストーカー退治を全て克服して、この年まで元気に幸せに生き長らえている。私は今、憧れてもらって良いと思う。
次はどうやってピアノから発音する演奏だけでなく、顔の表情やボディーランゲージをも含めて共感がしやすい音楽体験を提供できるかーである。
「媚びを売らない」ということに固執するあまり、私は「自分は慣習にとらわれていないんだぞ」という態度を誇示するようなキャラを身に着けた。人が度肝を抜くような手放しの大笑いを恥ずかしげもなくしたり、わざとどすの利いた低い大声でべらんめえ調でしゃべったり、演奏後にドレスが素敵と褒められれば「このドレスは古着屋で300円でした」と自慢したり...それは、敢えて「憧れてもらえなくても、ピアノの腕だけで感動させてみせます」という私のエゴだったと思う。演奏中の自分の表情に気を付けることすら恥ずかしいと思ってプロ活動をしてきた。私なりの自分の過去との折り合いの付け方であり、プライドであり、自己防御であったが、結果的に聴衆の音楽体験の質を下げていた側面もあるかもしれない。
過去はしょうがない。私も必死の精一杯だった。でも、これからどうするかは別の話しだ。私は音楽を発信し続けたい。そして音楽の治癒効果を今こそみんなに実感してもらいたい。こういう状況だからこそ、私なりに皆の幸せと将来への希望に貢献したい。音楽とか創造性とか共感こそが人間性だ、幸せへの道だ―経済力じゃない―と気づいてい欲しい。その為には、もう40代も大台で野の君もいるし、セクハラなんか全然怖くない私だから、表情もボディーランゲージも全部共感のために使える。
勿論、聴衆を操るために芝居をうったり、表情やジェスチャーを取り繕うのはいけない。反面教師はランランだ。
硬派ピアニストの間では、ランランは鼻つまみ者である。でも、今の私にはランランの成功は無視できない。「He is so cute」という表現を白人ファンがするとき、東洋人クラシックピアニストに対するある一種の潜在的な蔑みを感じて身震いせずにはいられないが、彼はピアノの技術は超一級だし、ショーマンとしてのサービス精神が旺盛なのは間違いない。更に、いまこのランランを笑いものにした2分弱のヴィデオを数回観て、私は必ずしもランランが聴衆のためだけにわざと大根芝居をしているとは思えない。彼のこの全身・全表情筋の音楽造りは、実は彼自身が音楽に入り込むための術なのでは?だとしたら、それは本当にそんなに悪いことなのか?
それでもランランにはなりたくない。ランランは恥ずかしい。じゃあ、どういう表情や動きが正直で自然で、そして聴衆に共感を醸し出すのか?
演技派と言われる女優さんを観てみよう。例えば樹木希林やウッピー・ゴールドバーグやジュディーデンチ。共通していることは、一般的に美人と言われる体系や顔の作りではないけれど、美人を演じられるということだ。美人を演じるということは美人の雰囲気を醸し出すということ。
木曜日のライブ配信が決定してから、撮影しながら練習している。そして音だけの表現ではなく、体や呼吸や表情で音楽シェアリングに意識を移行するというのがどういうことなのか、考えながら練習している。新しい局面を迎えている。
音楽人生万歳!私はこれから『美人』になります。
私は真希子さんは結構な美人(失礼)だと思っています。特に笑顔はとっても可愛いし素敵だなと。
そうですか。
飯田さんは、私に自己投影をしてくださって、憧れと共感を抱いてくださっているのだと、感謝します。
その事で飯田さんが私の発信する音楽をより一生懸命受信してくださるんですよね。嬉しいです。
真希子
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