明鏡日記9.12:自慢の玖美子おばさん

玖美子おばさんは父の姉です。

父の実家は木曽の山奥にある旧中山道に面した古い宿場でした。天上がとても低い薄暗い二階があって、昔はそこで大名行列の家来たちが雑魚寝をした、と聞いています。玖美子おばさんは妹や弟が上京してそれぞれの道を進む中、実家に残りました。父によると「村役場に勤め、女性初の管理職となり、退職後は公民館の館長もさせていただいた」そうです。

妹が生まれる時、父の赴任先の香港まで出向いて色々お手伝いしてくださったのも玖美子おばさんでした。玖美子おばさんは子供にも大人にも同じ声音と口調でてきぱきと話しかけ、子供の頃は少しとっつきにくいと思っていたような記憶があります。父の二度目の海外転勤が終わりに近づき、私がホームステイでアメリカに残る事が決まった時にも、NJまで訪ねて来てくださいました。

大学に上がった頃から人生や世界に色々疑問を持つようになっていた私は、玖美子おばさんの本棚に非常に魅かれました。フェミニズムや哲学や社会学や心理学などの本がたくさん並んでいたのです。私はその頃から生涯独身を通した玖美子おばさんに興味と一種のあこがれを持っていました。玖美子おばさんは実に積極的に充実した人生を送っている様に見えました。コミュニティーでのボランティア活動や政治や、畑仕事や、家族のお世話などをくるくると精力的にこなしながら、お稽古事も色々し、地域のコーラスやサークルにもいくつも属していて、そして毎年私の演奏会に木曽の山奥から上京して来てくれるのです。

玖美子おばさんは改まってひざを突き合わせて腹を割って話すようなことは敢えて避けるような人だという印象が私にはあったのですが、それでも勇気を出して車の中で聞いた事があります。

「結婚というのは、しなければいけない物なのかなあ。」

当時の私には常識的な結婚と音楽の道を両立する事は、不可能に思えていました。玖美子さんならそんな私の気持ちを支援してくれるのではないか、と少し打算もあったかも知れません。でも玖美子さんの答えは意外でした。びっくりしたので、凄く記憶に残っています。

「結婚はできるのならした方がよい。」

玖美子おばさんははっきりと言い切った後に、こういう風に説明してくれました。結婚をするという事は、自分以外のもう一つの人生を疑似体験できるという事だ。人間関係も専門知識も世界観もより豊かになる。お得だ。そう言う訳だから、自分とは出来るだけ違う人と一緒になった方が面白いのではないか、とおばさんは思う。独身の自分を全く卑下や悲観する事なく、でもまだ20代だった私に(本当だ!結婚というのは素晴らしい可能性を秘めている!)とワクワクさせてくれたのです。

その玖美子さんの言葉が在ったから、私は最終的に科学者の野の君と結ばれたと思っています。進行性の病を患っていた玖美子おばさんは、私達が結婚のご報告に伺った時はすでに車いす生活で、もう自分で食事をする事も困難な病状でした。でも界隈で一等のお料理屋さんに私達をご招待してくださり、木曽の食材をふんだんに使ったこれ以上ないほどの日本食のコースを振舞って下さったのです。木楽舎の方々もスタッフ一同で本当に心のこもったおもてなしをしてくださり、きらきらする思い出のひと時となりました。今思い出して、涙が出てきます。

その翌年木曽に伺った時は、玖美子さんたってのリクエストで実家のアップライトでご近所の方々をお招きした小さなコンサートをしました。玖美子さんがご近所の方にお礼を表明したいから、という事でした。その演奏会の途中で、玖美子さんが泣き出した事を、今思い出します。玖美子さんが泣くのを観たのは、その時が初めてでした。

進行性の病で、段々と麻痺がひどくなり最終的に心臓が止まる、という事はもうみんな何年も分かっていました。でも玖美子さんはいつもニコニコしていました。言葉が上手く発音できなくなって意思疎通が困難になっても、声を出して笑っていました。私はそんな玖美子おばさんに、またもう一つ大事な事を教わったような気がします。

玖美子おばさんは2021年日本時間の9月8日深夜1時15分に亡くなりました。もうここ数年は寝たきりで社交出来る状態では無かったのですが、沢山の方々が弔問にいらして下さり、父は感動したようです。私の自慢の、憧れの玖美子おばさんです。玖美子おばさんに胸を張って頂けるように、私は私の人生を全うしたい、と今日改めて思います。

玖美子おばさん、どうもありがとうございました。

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