韓国一日目のブログにも書いたが、韓国には整形手術の宣伝、そしてクリニックの看板が多い。
演奏会場に行き、並ぶチラシを見て私が「みんな美人だね~」と声を上げたところ、一緒に居た友達が「この子は鼻を直してるね」「この子は目をいじったね」「この子は顔の輪郭を…」などそれぞれのチラシを指差して指摘し始めた。私にはそんなことぜんぜん分からないから、彼女の言っていることにどれくらい真実味があるのかにわかに信じがたい。でも彼女と別れて一人ソウルの道を歩いていると、美人とすれ違うたびに注意して見てしまう。
私がまだアメリカに行く前のある日、こんなことがあった。新聞の見開きいっぱいに「日本美少女コンテスト」の過去の入賞者何十人もの顔写真が並べられていたのだ。たぶん公募の広告だったのだろう。私はその顔写真を一つ一つじっくり見てみた。そして私はこの「美しい」とされる顔のどれにも似ていない、と言う事実を本当に悲しい気持ちで受け止めていた。しかし、一つ一つ写真を進み続けるにつれ、私はその写真がそれぞれとても良く似ていることに気がつき始めた。「私は美しくなるより、自分らしくなりたい」と決めたのはその時だ。
私は「自分らしさ」を追及するべく、割りと非常識な選択をして今までの人生を築いて来た、と思う。例えば、私は音楽の修行を、物質的豊かさや、将来のための貯蓄に優先させる、と言う選択を毎日している。今まで食べるのに困ったことが無いが、寝食に直結しない投資は「贅沢」と思ってきた。だから服は古着がほとんどだし、化粧などは本当につい最近まで演奏用にしか買ったことが無かった。そんな私を心配して、イカに視覚的印象が大事か、友人や支援者、そして家族は私にいろいろ助言や、叱責、時にはプレゼントまでしてくれたりした。
しかし、2012年が明けたころから私は化粧をし、ヒールを履くようになった。そして食べ物に気をつけるようになり、少しだけやせた。そう言う自分に対する金銭、時間、そして気持ちの投資がセルフ・イメージを向上し、自信につながる、と強く説教する人に言い負かされたからである。化粧やおしゃれの努力が直接自信につながっているかどうかは分からないが、しかし周りが前より好意的だ、と感じる。そして、それは気持ちが良い。気持ちが良いから、私も前より微笑むし、そうすると循環的にいろいろな事がどんどんスムーズに成ってくる。私は確かに前より幸せになった。
でもなぜ、人はすっぴんで運動靴の私より、化粧してヒールを履いた私に優しいのか?世間の常識を突っぱねて反抗的な私の態度が問題なのか、それともそれはもっと視覚的なものなのか?化粧してより常識的な美人に近づく努力をしている私は、よりFamiliar(親しみやすい?親しみがある)からだろうか?より共感を持てるのだろうか?より同情的になれるのだろうか?
じゃあ、どこまでやっても良いのか?白髪染め?歯の矯正?エステ?整形?どこまでダイエット?どこまで服飾に投資?そしてそう言う選択に伴う投資のための人生の選択は、「わたしらしさ」をどこまでとどめておけるのか?「私」はどこまで「私」なのか?
化粧に慣れた私は今では、化粧した自分の顔のほうがより「自分らしい」と思ってしまう。整形も同じなのか?韓国では就職活動の前に多くの女子が整形をする、と言う。「不美人差別」の人権運動と言うのを誰も唱えないのはなぜか。整形手術の横行のほかにもう一つ韓国で気がついたことがある。ふてぶてしく太っている若い女の子たちが割りと居るのである。日本では見られないくらい、ほとんどアメリカ人並みに、病的に太っている10代くらいの女の子たちである。この子たちは整形では救いようが無い。そして、それもやはり彼女たちの選択なのだ、と思う。「美人優先」に対する、ある種の反抗、あるいは抗議 ―しかしその自己犠牲はあまりにも高い気がする。
美しさとか身だしなみ等々は、学校やメディア、社会集団がそれとなく人々の意識にデシプリンして出来上がってきたもののような気がしますね。
>kawashimaさん
そうですね。問題はどこまでそれに自分が同調するか、ですね。クリス・ロックと言うアフリカ系アメリカ人のコメディアンが作った「ヘア」と言うドキュメンタリーがあります。アフリカ系アメリカ人の女性が以下に莫大な財産を投資して、しかも非常に健康に悪い薬品を使い、自分たちの髪を人工的・強制的にまっすぐにして白人のように見せる努力をしているか、と言う映画です。私たちがしていること(目を大きくする、鼻を高くする、肌を白くする、などなど)もそれと同じでない、と言えるでしょうか?
マキコ