Joan Koll Borneman(1935~2022)
この写真は私が1991年に最初に出会う前のジョーンです。去年のクリスマスイブ、私が訪れた時に居間に飾ってあった写真を私が撮影しました。
昨晩2月8日(火)の20時15分にジョーンはNJの家で住み込みのお手伝いさんに見守られて亡くなりました。癌が臓器全般に転移しており、12月の段階では「クリスマスまで持つか...」とお医者様に言われていましたが、クリスマス・イブの私の来訪ではにこやかに思い出話をして、1月8日のお誕生日にはお友達にケーキを焼いてもらって、そしてその1か月後に亡くなりました。最後の1週間は緩和治療の影響もあり、眠り続けていたようです。
1991年の夏、ボーネマン家に日本から若い女性のお客さんがありました。ジョーンの夫、のちに私のアメリカンファーザーになるエド、のむかしの取引先のお嬢さん、あきこさんでした。ジョーンは私の妹の学校の保健室で働いていた看護婦さんで、ショートヒルズの街には少なかった日本人家族の平田家に通訳などの手助けを頼みに来たのがご縁でした。
エドモンド・ボーネマン(1924∼2016年)とジョーン・ボーネマンです。エドは物理学者で、戦後半導体の技術を日本に紹介しました。ジョーンは看護婦で、定年までディアフィールド・スクールという小学校で保健の先生をしていました。二人共ボランティア活動などを積極的にこなす活動的な夫婦でした。
事実上私の「アメリカの実家」となったこの家はニュージャージー州のショートヒルズという閑静な住宅地にありました。
ボーネマン家には大きなベランダがあって、夏は良くそこでお食事を食べました。グリルで焼いたステーキやハンバーガーが定番でした。これは1991年の夏です。
1991年の11月、16歳の誕生日の前の日に私はジュリアードのポールホールで生まれて初めての独奏会を開きました。これが多分ジョーンとエドが最初に関わった私の演奏会だと思います。父はこの時にはすでに辞令が出て帰国していたのですが、2月からホームステイをする事を決めていた私の為に、母と妹が残って色々な手筈を整えていてくれました。
92年の2月、母と妹は帰国。私はジョーンとエドとのホームステイ生活を始めました。写真に写っている黒いピアノは13歳で渡米してジュリアードに受かった私の為に、両親が奮発して買ってくれました。この後エドが2016年に亡くなりジョーンが家を売るまで、このピアノは基本的にずっとボーネマン家のこの地下にありました。私は大学はマンハッタンで、更に2006年以降はロサンジェルスに拠点を移したりしていたのですが、良くボーネマン家に時には何週間も滞在させてもらって練習しました。
今ではこのピアノは我が家にあり毎日弾いています。
ジョーンとエドの縁結びをしたのが近所のドイツ系焼き菓子屋さんだったことから、特注ケーキがよく人生の節目をかざってくれました。
これは17歳の時初めて協奏曲全楽章をオケと演奏をした演奏会の後のパーティーの写真です。ショパンの一番でした。
上の写真でカットされているケーキです。共同生活はお互い大変だったのです。私は寂しかったし、高校生活も英語の苦労も相まって大変だったし、そしていわゆる難しい年ごろで、内心かなり荒れていました。ジョーンもエドも大変だったと思います。でも今このケーキを見ると(愛がこもっているなあ)と思います。
右端が長男のドナルド。その後ろで立っている女性がドナルドの奥さんのバーバラ。その横に立っているのが次男のスティーブン。
「息子しかいないから、娘が欲しかった」と言ってくれたジョーンですが、買い物やお茶やおしゃれなどの女の子らしい楽しみを余り好まない私はちょっと期待外れだったと思います。そういうことも最初の一・二年はお互い本当に大変でした。
1993年、ジュリアードプレカレッジ卒業式の後、ジュリアードの中庭で撮った写真です。
私の母とジョーンが、私の節目を一緒にヒューストンで祝ってくれている写真です。2016年10月23日。
去年のクリスマスの時の写真です。今気が付きましたが、この写真のジョーンが着ているのは、上でエドと最後のクリスマスを祝っている時のセーターと同じです。何だかしんみりとします。
ジョーンは、死後エドと再会する事を楽しみにしていました。エドは全く容赦のない無神論者でジョーンがそういう事を言う度に何も言わずに鼻で笑っていましたが、特にエドの死後はジョーンはそういう夢をずっと見ていたと思います。
人種も国籍も違う私たちが、縁に恵まれて、こうして30年以上家族と認識し合わって人生を共にしました。
感謝しています。
お疲れ様でした。
爽やかな新緑の風のような一文でした。
五感が輝く世代を暖かく見守ってくれた大切なご夫妻だと知りました。
善因善果とは、ご縁の場所に集う人々だと思いました。
小川久男