アメリカ半横断中!

車で北アメリカ大陸を半横断中! ヒューストンからサンフランシスコ。 サンフランシスコから南下してロサンジェルスからヒューストンに戻る。 これを一週間でこなす。 これはかなりの強行軍である、と言うことを身に持って実感している。 西海岸に散らばる義理の家族のご挨拶のためにこういう旅になったのだが、 アメリカは広い! 雄大な自然。 西海岸は本当に美しい。 太平洋の海岸線沿いにずっと南下してその美しさに圧倒される。 同時に、ロス郊外の墨絵のような山脈の図に空気汚染を感じ、 海岸を臨む豪邸と、内陸の砂漠に屯す貧困にあえぐ村に貧富の差を垣間見、 気候の温暖なロサンジェルスに群がるホームレスの群集に 麻薬、精神異常など社会的な病にも考えさせられる。 そして延々と続くドライブで、経験したことの無いような新しい時間の感じ方。 20代にアメリカ大陸を演奏して回った時も オケのメンバーとツアーバスでこういう運転をしたのだけれど、 あの時は毎晩の演奏会での協奏曲への準備のため、 バスの中では前の晩の録音を聞き、同じ曲を巨匠の録音で聞き、 文献を読み、楽譜を勉強し、毎日必死にバスの時間を有効利用していた。 乗用車では私は読書は車酔いしてしまうし、 相棒と変わりばんこの運転。 視点もバスからの視点よりも全然違うし、 ゆったりととめどの無い会話を毎日10時間以上しながら 相棒と過ごすのは、 なかなか面白いものである。 日常生活の上では知りえなかった角度からお互いを知り合える。 人生の一時休符。

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なぜ、緊張するのか。

すでに伝説のホロヴィッツも 本番前はガタガタ震えるほど緊張していたらしい。 ラドゥ・ルプの緊張ぶりはNYフィルとの共演前の楽屋で、 手を伸ばせば届く距離で実際目撃したことがある。 「忘れたらどうしよう?忘れたら、どこから弾き直せばよいんだ?」 と、独り言のように共演者の内田光子に訴えかけながら (モーツァルトの二台のピアノのための協奏曲だった) うろうろと歩き回っていた。 本番前の緊張は本当に孤独に感じる。 誰にも分かってもらえない、と思ってしまう。 吐いたり、下痢をしたり、本当に死んだ方がまし、と思ったりする。 しかし、こういうヴィデオを見ると、(みんな同じなんだな)と分かる。 アルゲリッチの本番前のヴィデオだ。 最近公開された、アルゲリッチの娘が制作したドキュメンタリーからのクリップ。 始めはフランス語やドイツ語でアルゲリッチが独り言を言っているが、 その内日本語のアナウンスで(ああ、日本での演奏会なんだな)と分かり、 その頃からすべてが英語になる。 「熱があると思う」 「すごい眠気」 「今日は本当に弾きたくない」 とか、文句たれたれ。 なぜ、こんなに苦しみながらそれでも演奏を続けるのか? 生贄の様な自己犠牲、と感じるときもある。 この「自己犠牲」「生贄」の構図はベートーヴェンが定着させたのでは、 と私は論文への研究を進めるにしたがって、思い始めている。 もともとバッハ(の平均律集)は旧約聖書、 そしてベートーヴェン(のピアノ・ソナタ集)は新約聖書、 と言うことは古くから言われてきた。 しかしベートーヴェン=イエス・キリスト、と言うのは 難聴に苦しみながら、一時は自殺まで考えたが、 しかし芸術のために、自分にしか書けない曲を作曲するために、 余生を作曲に捧げることを決意したとしたためる、 俗に日本語では「ハイリゲンシュタットの遺書」と知られる文書と その文書に形作られたベートーヴェンのイメージから来るのでは、 と私は思っている。 そのいかにも19世紀ドイツ・ロマン派的な「苦しみながらも邁進!」の図が理想とされ、 今の音楽家、特に19世紀の作曲や作曲家を主に勉強するピアニストに 引き継がれているのではないか? しかし、これは本当に音楽のためなのか? 緊張につぶされて、自分のベストが演奏会で尽くせない。 燃え尽き症候群に犯される。 または、自分がやっていることが世界の平和に影響を及ぼすかのような誇大妄想に陥り、 そのためにはどんなわがままも通してしまうような人間になる。 このクリップの最後のアルゲリッチの娘のナレーションに身をつまされる。 「子供のころから母の演奏を見るたびに極度の緊張を経験しました。 無事終われ、早く終われ、とそれだけを念じ、 演奏が終わるときにはぐったりの疲れ切っていました」。 自分の家族を思ってしまう。 私の世界一の応援団。 いつも、ありがとう。

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没頭型の私。

自分は没頭型だなあ、と思う。 以前にもブログで書いたことがあったが かなり前にパリを訪れた際、 練習室を借りて練習していたらパリに居ることをすっかり忘れてしまった。 本当に没頭して弾き終え、頭をあげた瞬間、窓の外の景色にすっかり混乱した。 あの奇妙な感覚、そして(ああ、パリに来たんだった)と言う不思議な昂揚感。 なんとも説明しがたい。 映画を見ていると、本当にその物語を生きたような気持ちになってしまう。 テレビを見ている最中に何かをしゃべりかけられると全く理解ができないことがある。 物を書いたり、読書をしている際、だれかに名前を呼ばれても気が付かないことがある。 でもこの状態は意識して入り込める物でもない。 (集中したい、しよう)と思っていても練習中にどうしてもくだらない夢想に走ってしまい、 むしろ夢想に集中して、(あれ、この曲今日もう練習したんだっけ)とか、 そういうことも、多々ある。 そんな中、最近相棒に不意打ちを食らう。 メールや論文やブログ執筆や練習に集中している私に 抜き足差し足で近づいて「ワッ!!」と驚かせるのである。 まんまとはまって、いっつもゴジラを見た「通行人女性その1」の様な悲鳴を 恥ずかしげもなく近所中に響かせてしまう。 その後、非常な努力と時間をかけて抜き足差し足で忍び寄っていた相棒の姿を想像して 毎回大笑いしてしまう。 もう何十回引っかかったか… でも、少しは学習能力があるので、最近は相棒の物音に耳を立てるようになった。 しかし今度は、相棒が近くに居ない出先での作業中にも耳を立てている自分を発見。 盗難防止には大変良いかも。 相棒は、実は私をトレーニングしていたのかな? しかし、こういう性格的な没頭型と言うのは、訓練によって治るものなのだろうか?

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気分転換の大切さ。

私の相棒はきれい好きだ。 私が料理をした後のキッチンをクルクルとため息をつきながら掃除をしている。 16で家族が日本に帰国して、 その後一緒に同居して今では家族の私のアメリカン・マザーは 「炒め物をするときは油が飛ばないように絶対に中火かとろ火で」と口を酸っぱくしていた。 かつて香港で広東料理を勉強した母からは 「炒め物はできるだけ強火で! 日本の台所の火は小さすぎて正当な中華は作れない…」 と聞かされて育った私は、その優先順位の違いにビックリした。 味 vs。ピカピカ台所… 私はどうしても味を取ってしまう… しかし、何にせよ料理と言うのは楽しい。 熱中してしまう。 食材に触れる、火加減を見る、料理の音を聞く、味見をする、臭いを嗅ぐ。 料理と言うのは本当に五感総動員。 しばし他のことを忘れる。 これが『気分転換』なのだな~。 気分転換と言うのは、燃え尽き症候群予防に必要不可欠だそうな。 今日読んだ心理学実験についての記事によると、 一日中仕事をして、その仕事のストレスを忘れる暇無く眠りにつくと、 疲労感が抜けず、次の日の練習が乗らず、 余計効果の上がらない練習に時間を費やし…と悪循環になりやすくなるそう。 食べること、友達と話すこと、運動をすること、睡眠を取ること。 これらを犠牲にして精進することがまるでプロへの道かの様に 根性物の漫画は私たち日本人を追い立てるが、 しかし気分転換と言うのは 練習や仕事の効果を上げ、疲労感をぬぐい、観点をリフレッシュさせる、 とても、とても大事なものなのだそう。 言われてみると、もちろんそうなのだけれど、 でも「こういう実験で」「結果統計を出すと」と言われると (ああ、休んでも良いんだなあ)、 (楽しんでもよいんだなあ)と思える。 ありがとう。

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論文のための歴史検証。

暗譜の歴史について博士論文を書いている。 今までは、暗譜の伝統の歴史について (直接的に言及している書物が少ないから) 間接的に言及していそうな、 文化史とか、ピアノ史とか、 リスト、クララ・シューマン、メンデルスゾーン、ショパンなどのピアニストの伝記、 など、どちらかと言うと専門書に近い本を多く読んできた。 しかし、色々考えるところあって、ざっともう一度 一般的な音楽史を読み返している。 一番最初に学部生が一般的に必修の音楽史の授業で読む音楽史の教科書を読んだ。 これはまあ、復習。 そして今、 チャールズ・ローゼンの「The Classical Style:Haydn, Mozart, Beethoven」を読み終え 同じ著者の「Romantic Generation」を読んでいる。 Charles Rosenは私は昔から「すごい音楽学者だ」と思っていたが 改めてそのすごさを再認識。すごい造詣の深さ。 音楽史を文学史や芸術史や哲学史につなげて語れる。 爪の垢を煎じて飲みたい(もう亡くなってしまっているが)。 なぜこの優れた著書が日本語訳にされていないか、理解に苦しむ。 その中からすごく感銘を受けた個所を抜粋して要約。 『18世紀の見解では、宗教音楽は厳かな献身を、宮廷音楽は優雅さと華やかさを表現するものとされていました。しかし、新しい交響曲や協奏曲が入場料を払う一般聴衆のために書かれるようになっても、収入増加は勿論、受け狙いでさえ、その目的とすることは良しとはされませんでした。権力者へのごますりは許されても、一般聴衆のごますりは恥ずかしいことだとされ、これらの作品は「自己表現のため」に書かれた、と言う大義名分が付いたのです。 …この様な作品の価値はその誠実さにある、とされました。社会的役割がはっきりしない美的感覚のための製品としては当然のことです。「芸術家の内から湧き上がる必要性に応じて」産まれた、とされるこれらの作品は、表現以外の目的を持つことを良しとしません。個人的な目的さえ悪とされ、私的な犠牲はその証とされました。発表当初、一般聴衆に受け入れられない作品は、芸術家の「犠牲」の証となり、死後成功の可能性を高めたのです。産業革命や資本主義への反発もあって、創造活動のために飢える芸術家はその存在自体が美しいものとされました。 …この時代に楽器音楽がもてはやされた理由にはこういう社会的背景があったのです。言葉に囚われない楽器音楽は社会的役割からも、宗教からも束縛されません。言葉と同じように表現するものとされながら、表現の対象がはっきりしない―そのために役割もはっきりとしなくなる、しかし独自の世界を創り上げる力がある、とされる。』 『(コールリッジの「The Friend」から要約して)作曲家の作業と言うのは歴史家のそれと似ている。過去の語り方を選ぶことで現在への見解と将来への期待を影響する。歴史家も、偉大な作曲家も、まず驚かせ、その後読者(や聴衆)を驚かせた歴史的(あるいは音楽的)出来事がどのように準備され、必然的なものであったかを、解き明かせて見せる』 この様に読み進んでいると、今まで自分独自のものだと思っていた見解や信念が、いかに自分の周りの歴史的・社会的背景の産物であるか、気が付いて愕然とします。 久しぶりに本の虫です。

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