美笑日記11.21:強い女性像と母親不在の意味するところ

前回のブログでは眠り姫・白雪姫・シンデレラといった無力で絶体絶命な状況に立たされている女性の物語に囲まれて育った私の様なピアニストが自信をもって成功を勝ち取ることはより困難だ、という意味のことを書きました。その関係でオンライン検索をしていたら面白いサイトを見つけました。ディズニーの女性キャラは表面的にはよりフェミニストになってきているように見えるけれども、例えば台詞の割合(台本の中の台詞の語数)や、顔の相違などで比べると男性キャラに昔よりもさらに扱いが悪い、というデータを出しているのです!

下のイメージはディズニー映画の男性の顔の構造の方が女性よりもずっと個性的で、女性キャラは非常に標準化されている、という画像分析です。

アメリカでは近来、BLM(Black Lives Matter)運動やDEI(Diversity-Equity-Inclusion)の方針などを受け、「お姫様物語問題」や、人形やアニメキャラなど子供向けの商品や番組に白人ばかりなのは、有色人種の子供たちを傷つける、などとして、正す努力がいろいろ行われています。私の主張も、その流れに乗っています。

これらのキャラにはもう一つ共通点があります。母親の不在です。

  • 人魚姫:父は男寡と最初に記述がある。(ただし末っ子として祖母と5人の姉に溺愛されている)
  • 眠り姫:両親に愛されているが、出生直後に魔女に呪いをかけられ十代で100年の眠る。目覚めると両親はすでに他界。
  • 白雪姫:継母が魔女でその美貌をねたまれ命を何度も狙われる。
  • シンデレラ:継母とその娘たちに奴隷のようにこき使われている。(魔法使いは母性的)

母親と仲が良い女主人公っているのでしょうか?にわかに思いつきません。(追記:「ジゼル」と若草物語の姉妹は母親と友好!)

一方悲劇の姫君たちと対照的な少女文学主人公たち:「ピッピ」「スプーン叔母さん」「モモ」…

私は悲劇の姫君ストーリーに感化されて舞台恐怖症になったのか?そんな単純な話しではない。なぜなら例えば私は下の強い女性像を描く少女文学を一通り読んでいるのです。

  • 不思議の国のアリス(英国、1865、男性著者)7歳、想像力豊か、明るい、優しい、母親出番なし。
  • 若草物語(米国、1868、女性著者)16・15・13・12歳、仲の良い姉妹、それぞれ個性的、母子家庭
  • アルプスの少女ハイジ(スイス、1880~81、女性著者)5歳、孤児、黒髪、利口、明るい、元気、
  • オズの魔法使いのドロシー(米国、男性著者)、11歳、孤児。積極的、勇敢、不思議の国のアリスに似ている
  • 赤毛のアン(カナダ、1908、女性著者)11歳、赤毛、孤児、夢想家、お転婆、そばかす、やせ型。
  • 秘密の花園(イギリス、1911、女性著者)10歳、孤児、両親を疫病で亡くしたばかり。我儘で癇癪もち
  • 幸せのポリアンナ(米国、1913、女性著者)11歳、孤児、独身の叔母が引き取る、妄想的に楽観的
  • 長靴下のピッピ(スウェーデン、1945~48、女性著者)9歳、赤毛、そばかす、怪力、生意気。出生時に母死去
  • スプーン叔母さん(ノルウェー、1956~57、男性著者)60代?スプーンを首にかける、時々突然小人になる
  • サウンド・オブ・ミュージック(原作1949、ミュージカル1959、女性著書)マリアは母を2歳で亡くし叔母が育成
  • モモ(ドイツ、1973、男性著書)10歳位、浮浪児、人の話しを聞くのが異様に得意
  • レイア姫(スターウォーズ、米国、1977、男性著書)外交官、スパイ、戦士、明晰、勇敢

私が読んで育った女性の伝記

  • キュリー夫人
  • ナイチンゲール
  • ヘレン・ケラー(とサリバン先生

さらに昭和の日本で小学生のマキコを影響した強い女性たち

  • キャンディキャンディ(1975~79)6歳~成人まで、米英孤児、はなぺちゃ、そばかす、お転婆、正義感が強い、元気
  • おしん(1983)6歳~高齢、丁稚奉公、第一次・二次世界大戦などを生活苦に堪えて暮らし、やがて大成する女性像
  • 犬養道子(1921~2017)犬養毅の孫、1948年渡米以降、欧米在住しながら著作活動。慈善家・環境活動家
  • 黒柳徹子(1933~)窓際のトットちゃん(1981)「本当はいい子」母親と仲が良い。
  • 桐島洋子(1937~)1957年文芸春秋の記者。62年・65年・68年に出産・3人の子供の未婚の母。「新世代女性像」文筆家

そして宮崎駿の女主人公たち:

特に「風の谷のナウシカ」(1982)は、小3の時にわざわざ母が妹と私の同級生のKさんを連れて行ってくれた映画館で観たのです。帰り道でみんなで興奮してテーマソングを歌いながら帰ったのを覚えています。まだ7歳の私の脳みそに鮮明に焼き付く女性像でした。

しかし気になるのはジブリ作品に於いてさえも見られる母親像の欠如。ナウシカの母は作中ではすでに他界。「天空の城ラピュタ」のシータとパズーは二人ともみなしごです。続く「火垂るの墓」は戦争孤児の物語。そうみていくと宮崎駿は強い女性像を打ち出しながら、母親欠如の伝統は続けています。

なぜ主人公を孤児にするのかという質問に、英児童文学家のレオン・ガーフィールドは「ひとつの理由は(その方が主人公を自由に)動かしやすいからだ」と答えている。…なるほど。母親は安定だ。安定したところに起承転結は生まれない。そして親を亡くすのは子供にとって一番の劇的転換なので児童文学で使われやすいのもわかる。

さて、これを受けて。私はみなしご少女文学の型を使って物語を展開することは可能なのか?現バージョンでは私はとにかく現実をできるだけ忠実に描写するために努力をしている。そして自分を語るのに際して、幼少時や親子関係や、さらには親の人生背景やその背景にある歴史(黒船まで!)を語らなければ自分を語ることは不可能だと思って書いてきた。しかし、一般的な「手記」という文学ジャンルからすると、それはあまりにも観点を大きくしすぎている。私は16歳の時、帰国する家族と別れてアメリカでホームステイをしながら高校を卒業する、という選択をした。16歳以前のことに全く触れずに話しを展開して、したい主張をすることは可能か?(とりあえず可能性の一つとして保留。)

そう言えば、17歳で一番最初に協奏曲を全楽章通して演奏した時、指揮(写真左)も主催者(写真右)も女性でした。

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