美笑日記11.20:誕生日の人魚たち

10歳と20歳で大病をし、のべで二か月半ほど入院生活を送った私です。それに加えて音楽の道を進む中での周りの影響や習い性もあったのでしょう。刹那的に生きてきた私は、長生きする自分というものを全く想像してきませんでした。

そんな私が今年もまた元気いっぱいで、将来を楽しみに誕生日を迎えることができました。10歳の時肝臓を患った私のために無農薬と自然食に徹底し、一時は味噌やうどんまで手作りしてくれた母。20歳の時に滅菌室を要する珍しい病を患った私のために専門医をご紹介くださり、お礼の仕方を尋ねた母に「まきちゃんのCDが出たら一枚頂戴」と言ってくださったAさん。私の治療に手こずり奥様のご出産に立ち会えず、でも結果私の窮地を救ってくださった担当のお医者様。そして長期計画を立てることをせずに、めくらめっぽう我武者羅で生きていた私に手を差し伸べ、適切なご助言や大切なご紹介や演奏の機会などで、私の成長を様々な形で導いてきてくださった方々。考えていると胸がいっぱいになります。感謝の念に堪えません。

うれしいことに今年は週末の誕生日。野の君がカリフォルニア州沿岸のチャンネル諸島で遠足する手はずを計画してくれ、二人で楽しみにしていました。フェリーが出る港までは車で1時間強。5時半起床で6時出発です。メールのチェックよりも食べ物と水の準備に気を取られていました。時間ぴったりに港に着いたら「メールチェックしないで来たね。今日は荒波でフェリーは欠航だよ。悪いね。こういうのはお互い困るよね。我々も収入源が無くなるからね」と、いかにも「船乗り」のマットおじちゃんが一生懸命説明してくれます。素晴らしい秋晴れなのに!でも、道中飲んできたコーヒーのお陰か、二人とも全く気落ちせず、ルンルン気分で港の周りの海岸を探検。そしたら運命としか思えない出会いがあったのです。

まず最初になぜ今、本の執筆再開?

去年の誕生日は、野の君と北にドライブして雪山をハイキングしました。私は、当時すでに一年手つかずで放ってあった手記への迷いに、誕生日の節目に決着をつけたいと思っていました。舞台恐怖症を克服するまでの過程を書いた手記です。原因追及の過程で、業界で経験した教師やマネージャーや聴衆からの大小の数えれない直接的・間接的な女性蔑視・人種差別とその体現としてのパワハラ・セクハラも、私の恐怖症の原因の一つとして書いてあります。これを世に出すことで、私のイメージは、プロ活動や、人間関係はどう変わるのか。更に、本の出版はギャンブルです。出版社との契約にこぎつけるまでに、まず編集者を見つけ自腹で雇い、その後エージェントを見つけ交渉をし…この時間と労力の全てが自分持ち。そして勝敗は時の運。出版も売れ行きも、本の質・内容や完成度よりも、出版時の流行りやマーケティングなど、さまざまな外的要素に左右されます。そこまでしても世に出したいのか。書いたことで自分の中でいろいろ整理と片が付いたーそれだけじゃダメなのか。去年は山頂で野の君に「手記はこれで終わりにする!出版はしない!」と宣言したのでした。

ところが数か月前のことです。突然、ある編集者からのメールが届いたのです。私がこの手記からすっかり手を引く前、2年前に草稿の一部を送ってあった、2年前は返事すらくれなかった編集者です。「出版業を目指す大学院生の、本の編集の授業の教材にしたい。全編送っていただけませんか?」メールを読んで、この本を書き始めた初心が蘇り、胸が高鳴りました。二年も前に私の草稿の一部を読んだのみのこの編集者が、私の草稿を覚えていてくれた、そのこともうれしかった。12人の授業参加者と教授、計13人が私の250ページ以上ある草稿を一字一句全部読み、評をシェアしてくれました。「一般人にとっては憧れのピアニストの舞台裏や日常生活の描写が面白い。そして扱っている社会問題が音楽界の外にも共通点が多く、共感できる。」勇気づけられました。そして何より私自身が2年ぶりに、授業での協議に向けてこの草稿を通して読み、捨て置くには勿体ないと思ったのです。この本はまだ中途半端だ。まだ上達・浄化の余地が沢山ある。そして私には言うべきことがある!

そしてなぜ、誕生日に偶然出会った人魚の彫刻に運命を感じるのか。

主旨・主張は変えないつもりですが、ストーリの展開を明快にするために、構築を大幅に見直さなければいけません。その時によく知られているお話しに結び付けて筋を通すのはどうだろうと思ったのです。そしてアンデルセンの人魚姫(1837)は、19世紀の西欧至上主義・キリスト教的な死生観・女性蔑視問題・19世紀ロマン主義の自己陶酔・哲学の一部として当時新しかった美学とそれを受けて発展したピアノレパートリーなど、全てを包括できる素晴らしい題材なのです。

人魚姫は悲恋の物語として片づけられがちですが、実はアンデルセンの現本をじっくり読み込むともっと複雑です。まず、主人公が手に入れたかったのが、王子の愛なのか、それとも王子の愛を勝ち取れば手に入ると教えられた「永遠の魂」なのかが良くわからない。人魚は300年の寿命を持ちながら、寿命が尽きると海の泡となり何も残りません。でも人間は寿命は短くても死ぬと美しい天国にて「永遠の魂」を約束されています。読み方によっては人魚が欲しいのは、この「永遠の魂」で王子の愛はその手段に過ぎない、ともいえるのです。

同じく、ピアノの道で手に入ると思ったものが何だったのか、私も周りもよく分かっていなかった。表面的には、単純化して言えば、ピアノで手に入るのは社会的地位、もっと簡単に言えば富・名声です。そして富・名声は、王子の愛と同じくらい現実離れしていることも、本当はみんな分かっているはずなのです。それなのにそれに賭けてしまう。その無茶を正当化するために、「音楽は世界の共通語」とか「グローバリゼーション」とか言ったりもします。それは「永遠の魂」と同じように概念的で、宗教的でさえあり、そして魅力的に感じたのも確かです。理屈ではなく、突き動かされてピアノの道を進んでいました。

次に人魚姫は物語の中盤と終焉で、二度決断を迫られます。最初の決断は、海の魔女に人間の足と引き換えに声を要求される場面です。下半身が魚体の人魚が人間の足を手に入れるということは、要するに生殖器を手に入れるということです。その引き換えに声を失うというのは、意味深な象徴性があると思いませんか?声を要求された人魚姫がどこまで迷っているかは、アンデルセンも書いていません。二度目の決断は王子の結婚式の晩です。王子の愛を勝ち取れなかった人魚姫は日の出と共に海の泡となるべく、海辺で運命を待っています。すると魔女からその美しい髪と引き換えに短剣を手に入れた姉たちが現れ、王子を刺し殺せば元の生活に戻り人魚としての寿命を全うできるからそうしろ、と強く勧められます。人魚は短剣を握り、王子と花嫁の初夜の床まで行き、王子が寝言で花嫁の名前を呼ぶのを聴いてナイフを握った手を震わせます。この時人魚はどこまで王子と自分の命を天秤にかけているのでしょうか。

私はピアノを弾くことで、声を得たのか失ったのか…日本語を第一か国語とする女性として生まれた私は、比較的声の小さい人間だったー(もちろん、極貧や難民として生まれるもっともっと声なき人々も沢山いますが)それがピアノの道を進むことで声と発言権を得た、と解釈することもできます。が、一方プロのピアノ弾きになる過程で、ドレスを着せられ、「髪の長い日本人女性(東洋人女性、特に日本人女性は性対象にみられやすい)」のステレオタイプを投影され、さらに渡米したことで英語のハンデと人種の壁との葛藤を余儀なくされ、その結果委縮しました。

短剣を手にした人魚姫は、初めて主体性を握ったと解釈することもできます。でもその主体性を自ら捨て、海に身を投げるのです。私は舞台に上がると本領が発揮できなくなる自分がなんなのか、なぜ自分の体が次から次へと好機を棒に振るような自己サボタージュを重ねるのか葛藤しました。人魚姫は自由意志で短剣を捨てたのか。そもそも王子を殺すという選択肢は、人魚姫の生い立ちやアイデンティティーの中にありえたのか。人魚姫が王子を殺すというおとぎ話が19世紀のヨーロッパで存在し得たのか。そして人魚姫を読んで育った私の様な女性に、堂々と舞台を、そして世界を制覇するという選択肢はありえたのか。人魚姫だけではありません。白雪姫、シンデレラ、眠り姫…みんな武器はその愛らしさだけの、男性の救済を待ち続けるしか道がない女性たちです。

(翌日11/21の追記:1811年 Friedrich de la Motte Fouqueというドイツ人が書いた短編小説Undine」では、人間の男性と結婚して永遠の魂を手に入れることを両親や親戚に課された水の精が、三角関係に敗れ、男性を自分の涙におぼれさせて殺します。この小説は一世を風靡しE.T.Aホフマンやチャイコフスキーやドヴォルジャーク(ルサルカ)やプロコフィエフ(未完)がオペラ化したほか、作曲家Reineckeのフルートとピアノのためのソナタホ短調(1882)、そしてラヴェルとドビュッシーのピアノ曲「Undine」や、バレー作品、文学作品、絵画・彫刻など多くの作品のインスピレーションとなっています。アンデルセンはこの短編小説で唯一「主人公の魂入手を異種(人間)に頼らせるのはいやだ。そんなのは間違っている…自分の人魚姫にはもっと自然な成り行き、もっと天命に従った道を与える(”I have not, like de la Motte Fouqué in Undine, allowed the mermaid’s acquiring of an immortal soul to depend upon an alien creature, upon the love of a human being. I’m sure that’s wrong! It would depend rather much on chance, wouldn’t it? I won’t accept that sort of thing in this world. I have permitted my mermaid to follow a more natural, more divine path.[11])と手紙に書いています。)

アンデルセンの人魚姫は深堀り可能な設定と展開ですが、それでも私の本の基盤をそれだけに頼るのは心元無い。もう少し似たようなお話しを集め、強化します。まず、19世紀半ばを舞台にする映画「The Piano (邦題「ピアノ・レッスン」(1993))」の主人公は口がきけない女性ピアニストです。ピアノと6歳の娘が訳す手話のみで意思疎通する主人公は、父親に売られ娘と共にニュージーランド開拓者のピクチャーブライドとなります。でも到着を迎えた新郎は、ピアノを砂浜から家まで運ぶ手間を拒みます。ピアノを取り戻そうと努力する過程で主人公は原住民男性と恋仲になり、それを知った新郎に指を切り落されます。この映画では、主人公の新郎の白人男性と愛人となる原住民男性の人種と立場の違いが、新郎と主人公の男女間の力関係に複雑に絡み、私の本の展開に一役買うことになります。また私は20代の時のマネージャーにこの映画を引き合いに出され「恋人を作ったら指を切る」と冗談めかしてことあるごとに脅されていた、という背景もあります。

次に社会階級の抑圧と、貧しくても抑圧されても手に入れたい「美」というものに対する憧がれと献身。そしてそのはざまで起こりうる悲劇。ということで松谷みよ子著の絵本「お月さんももいろ」(1973)。

他にもきっといろいろ似たような神話や物語は世界中にあるはず。これから縁を信じて探しながら、本の再構築に取り掛かります。仮題「A Mermaid’s Soul: Reclaiming her Voice as a Japanese Pianist」の手ごたえは上々です!

ここでちょっと蛇足かもしれない追記。

しかし、現実はやっぱり一筋縄ではいかない!このブログを執筆中にいろいろググっていたら、意外な発見をしてしまったのです。アンデルセンは「人魚姫」を書くずっと前に「アグネ―トと人魚男」(1833)という戯曲詩を書いています。ここでは人間が女性で人魚が男性。女性は人間の姿のままで人魚男と結婚し、海底で家庭を築きますが、人間界が恋しくなり地上に戻ります。人魚男と二人の間の子供たちは海辺に来て帰ってきてくれるように嘆願するのですが…と、何しろ女性にとっても主体性があるのです!しかもアンデルセンは同性愛者だった可能性もあり、叶わぬ恋(Edvard Collins)の物語は自己体験に基づいて(そして人魚姫が声を失うのは、アンデルセンが口を閉ざしたことの象徴)、という有力な説があります。

一筋縄でいかない現実を面白がってしまうマキコと、筋を通さないと読者にとって読みにくくなるという現実をどう折り合いをつければよいのか。私は一筋縄でいかない現実を出来るだけ包括的にみることに主体性を見出し、被害者意識を免れてきているのですが。

そしてもう一つ蛇足かもしれない忘備録。

手記の執筆なんて出版が決まるまで人知れず一人で静かにやってもよさそうなものですが、なぜその過程を公開するのか。例えば、前回のブログに編集者との会話を載せました。そして今回Facebookとインスタグラムにこんな投稿をしました。

これは、ある意味作戦です。私はこの本で、できれば誰の心情も害したくない。個人を糾弾しても何の解決にもならないと思っています。私は個人の言動の多くが社会現象や歴史的背景の反映だと思っています。例えば女性蔑視や人種差別の様な問題を解決するためには、歴史的背景を根本的に理解することが一番だと思って、そういう視点から手記を執筆しています。出来るだけ公平な観点から書きたいと思っているし、登場人物の名前は全部変えています。でも、私が何を書くか戦々恐々としている人たちもいます。私はそういう罪悪感は正当な罰だと思ってここ5年ほどプロフィールに「手記を書いています」と記してきたし、その為に「自分のことを少しでも書いたら訴訟するぞ」というメールも、わざわざそういう人の弁護士からもらったりもしています。こういう輩の中には、私が沢山証拠を持っていることを知っていて、裁判を起こしても絶対負けるとわかっていても、それでも嫌がらせのために訴訟をしてくるようなお金と時間と悪意を持っている人もいます。私がこの手記の出版をギブアップしようと思ったのにはそういう事情もあるのです。

でも、再開した私はそういう人たちに気持ちの準備をしてもらうつもりで、やんわりとこういう投稿をしています。だってここで負けたらこれまでの風潮を助長していることになる!声を失ったままになってしまう!そしたら…今朝、あるSNSのメッセージ機能を使って、もう何十年も前にずいぶん泣かされた人から連絡があったのです。「お誕生日おめでとう。どうしていますか。近況が知りたいです。」やっぱり見てるんだ…何よりも(暇人だなあ~)という哀れみが一番です。もっと建設的に生きようよ!

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