こういう夜は本当に「音楽をやっていて良かった~」と心の底から思います。 今日の午後までは会場のピアノも音響も分からず不安で 「ひどいピアノと音響で弾くのは、野球バットでテニスやれ、と言われているようなモンだよな~」 とか一人でちょっと腐れていましたが、 ピアノも音響もOK! しかし何より私を触発してくれたのは、その聴衆です。 打てば響く、と言うような、本当に身を乗り出して聞いてくれているのが手に取るように分かる聴衆。 そしてうまく共感してもらえた時は拍手しながら大きくうなづいたり、目力が凄い! 演奏会の後の打ち上げもとっても楽しかった。 これからの夢が楽しく語れる会でした。 こういう時間は世界の全てに感謝で一杯です。 ありがとう!ありがとう!!
物凄い演奏のオファーが来る。 突然、演奏会をキャンセルされる。 人に好意を示される。 人にないがしろにされる。 演奏をすると言う音楽人生に於いても、 外国で生活を営む独身女性という立場に於いても 日々色々なことが起こり、その度に対処すべき現実が変化する。 でも、それに一々翻弄されて、邪念にまみれるのは 時間の無駄。 修行の邪魔。 自分は正直に一生懸命、修行を積み重ねてきている。 自分はいつも最善とは何かを問い、できるだけそれに近くあろうとしている。 その事実に自信を持つ。 日々の小さな出来・不出来にこだわらない。 主体性を持つ。 自分は何を理想とし、目指しているのか。 そのヴィジョンを現実化するためにはどういう行動が必要なのか。 機会を提示されたら、即何があれば自分がより理想に近づけるのか明確に言葉に出来るようにする。 逆に、理想に近づくのを困難にする現実や出来事は 修行の一環だと思い、甘受する。 理想を高く掲げて、心頭滅却。 礼儀と節度をを持って、優雅に接する。 どんな場面でも、美しくあろう。 パリに、行って参ります。
月曜日の夜、パリに向けて出発する。 約一年の間に三度目のパリである。 ナンだかちょっと『パリに帰る』、と言う感じ。 一回目は2013年の夏、国際比較文学研究会の学会での研究発表と 学会開会前夜に演奏させていただいた。 二回目はその直後の10月。 と、言うことで約1年ぶりのパリ。 今回は28日(日)の夜19時開演で第4区にあるアルメニア教会での演奏もさせて頂く。 音楽の世界は狭い。 世界中に音楽仲間が散らばっている。 今回パリに行くと世間話を何気なくしたら 昔しの学友が今はパリと聞いてびっくり。 早速連絡を取ってランチの約束をする。 友達の友達も多い。 さらに異国で会う同郷人と言う、繋がりも生まれる。 去年の秋にパリでたまたま言葉を交わした日本人留学生の方々が Facebookで今回の来訪を楽しみにしてくださっている。 ありがたい。 「音楽は世界の共通語」だなあ、とこう言う時にも思う。 と、言うことで場所や環境は変われど、 私はする事はいつもと同じなので 楽しみなだけで「大変」ではない。 行ってきます!
昨日、友達と話していて口から出任せだったのだけれど、 自分で自分の言うことを聞きながら (あ、これって「真実」かも!覚えとかなくちゃ)と思ったこと。 私も、私の友達も、クラシック音楽家と言えど、 いままでどちらかと言うと「ノダメ・キャラ」で来ていた。 いつもどたばたと、面白おかしく、詳細にこだわらず、がさつだけど大らか、みたいな。 でも、私は「色」とか「気遣い」「思いやり」「ゆとり」などから来る 「女性美」追求にギア・チェンジをしたい、と思うのだ。 理由は色々在って、今まで人や自分にきちんと説明したことも無かったのだが、 昨日の会話で言った出任せは、案外正当かも。 がさつをひょうきんでごまかして、面白おかしく出たとこ勝負で、と言うのは勢いが要る。 勢いは良いし、楽しいし、勢いがなきゃできないことも沢山ある。 でも、それは一生は続かない、と思うのだ。 これから段々成熟していくにつれて、色々得る物も多いと思うのだが、 一つだけ落ちていくことが決まっているのは、勢いだ、と思うのだ。 死ぬまで毎日、少しずつ進歩していくことを自分に課している私は、 勢い任せの3枚目より、 じっくりと追求できる「余裕」「細やかさ」「気配り」と言った 一呼吸置いたような「色」の方がずっとこれからの可能性を秘める成長株なのである。 これは、日常生活に於いても、音楽の解釈や演奏に於いても、全く同じである。 と、こういう話しをじっくりできる友達に恵まれていることは、幸せ。
数日前のブログにも書きましたが 何時間も映画の予告編を次から次へとYoutubeで見てしまった晩 しまいには色々な映画がごっちゃになって来る中で一つだけ際立って 「絶対観たい」と思った映画を今日観てきました。 「ルーシー」です。 何故そんなに強く惹かれたかと言うのはむしろ勘的なものですが、 敢えて説明をするならば 1.演技派女優のスカーレット・ジョハンソンがアクション映画に出ている。 (クララ・シューマン系の私が今リストの『ラ・カンバネラ』を練習しているように) 2.脳の許容量を全て使いこなす女性、と言う設定に憧れを抱いた。 3.今模索中の「超絶技巧」の練習に役立ちそうに思えた。 技術的に難しいパッセージを物凄くミスタッチしてしまう時とそうでない時がある。 違いはちょっとしたこと。 肉体的、心理的、そして技術的な要素、 そして集中度と言う要素が在ります。 この集中度と言うのに、今物凄く注目していて、 この映画で何かヒントを掴めそうな気がしたのです。 う~ん、期待以上に凄い映画で、しかもとても私に役立った。 今、燃えています。 人間は脳のキャパシティーの10パーセントしか使っていないと言われています。 それが20、40、50、そして100パーセント使えたらどうなるのか。 スカーレット・ジョハンソン演じるルーシーは 麻薬を投与されて、意図せずしてそこまで到達してしまいます。 脳力がどんどん増すにつれ 「人間的で無くなっていくように感じる。 それまでの感情から遠く離れていく感じがする。 欲望が無くなる。死をもう恐れない。」 と、まるで禅僧のようなことを言います。 私は全くの凡人ですし、麻薬もやりませんが、 でも音楽を通じてこういう領域を垣間見ることがある、と思っています。 もう比べるのもちゃらちゃら可笑しいのかも知れませんが、敢えて。 映画:脳20パーセントの段階で、ルーシーは自分の体の全てをコントロールできるようになる。例えば、運動能力、メタボリズム、自己治癒能力、感覚の鋭敏化など。 演奏家:どんなに風邪を引いていて咳も鼻も止まらなくても、演奏中は出ない。花粉症でもくしゃみが出ない。すっごく眠くてもあくびが出ない。眠いのも、風邪で気分が悪いのも、花粉症で鼻がむずむずするのも、全部忘れてしまう。さらに、感覚が鋭くなる(遠くの音が聞こえる、人の気配に敏感になる、など) 映画:脳40パーセントで他の人を操れるようになる。(テレパシーとか、催眠術みたいに自分がさせたいことをさせられる、とか) 演奏家:演奏が上手く行っている時、本当に聴衆の呼吸とか、心拍数とか、呼吸の速さを、音楽と一体化させられる(と、思う―しかし、実際に医療現場で乱心拍の患者に音楽を聞かせるて、心拍を一定化する、とかリハビリ中の患者に音楽を聞かせて運動能力を高める、等と言うことが行われている) でも、確かにスカーレット・ヨハンソン演じるルーシーは 脳力が高まるにつれて、無表情に、冷たく(冷静に!?)なっていく感じがする。 ルーシーは物裡も数学も究極的に全てマスターしてしまう。 そして「でもこの知識をもってどうすれば良いのか、わからない」 とモルガン・フリーマン演じる脳科学者に相談する。 「伝達しか無い。人間、生物、そして細胞の、究極的な存在意義は伝達のみ」 と言われて、まあそうするのです。 (大丈夫、ここまで言ってもまだ全然映画の種明かしはしていません) 私に出来ることも、この音楽を通じて垣間見る、私自身も上手く説明が出来ない、 この超越的な「在り方(State of Being)」を 自分が音楽を通じて垣間見ることができるなら、 音楽の演奏を通じて他の人にも垣間見る機会が伝達できるかも、と信じるだけです。 奮い立ちました。 勇気付けられました。 そして、この主人公が女性、と言うのも、面白い。 なぜ、敢えて、女性、なのか。 私はその選択を多いに支援しますが、 でも、今の世相を反映しているようで、面白い。