音楽人生

タイマーは効果抜群!今日も頑張る!

昨日は20分タイマーで論文・練習と交互にやり、非常な効果を上げた。 20分と言うのは集中すると意外と長い。 そして「もうすぐ終わるから頑張る!」と言う気迫が効率を良くしてくれる。   今日は贅沢な事に丸一日練習と論文に充てられる。 朝5時に起きてすでに1時間半、文献を読んだ。 軽く外を散歩して、朝食を食べ、これから12時間、頑張る日にする。 今日は論文40分、練習10分の、約1時間サイクルで頑張る。   論文は今、Schumann’s Virtuosityと言う本を中途まで読み進んでいる。 これを読破して書評を書き、さらにThe Virtuoso as Subjectも読破するのが目標。   最近焼きタンポポ茶と言うのを毎朝何杯も飲んでいる。 まず鍋一杯の水にしょうがのスライスを入れて沸かし、そこに茶葉を入れて煮立てる。 「肝臓の能率を上げる」と言う能書きなのだが、なんだか飲むとお腹がすっきりする。 そしてカフェインとは全く違った感覚でお腹の中からモリモリと元気が湧いてくるのである。   さ、今日も頑張るぞ。音楽人生、万歳!

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ピアニストのジレンマ:ヴィルチュオーゾの実物主義vs.音楽楽理の精神主義

お世話になっている方にご紹介いただいて、先日こちらの番組を観た。   私は反田恭平君と言う若手ピアニスト(22歳!)の存在すら知らなかった。 そしてこの番組を観て、久しぶりに「また寝食忘れて練習に没頭したい!自分もまた超絶技巧をやすやす弾きこなす所までバリバリ練習したい!もう一度ラフマニノフの2番をオケと弾きたい!」と掻き立てられた。番組では反田君が朝の4時まで夜を明かして練習するところや、弾き始めるとすぐに汗が噴き出すさま、さらには「ピアニストには体力が必要」とサンドバックを手のあざが流血にいたるまで殴ったり、ウェイト・トレーニングをする所が映される。これはまさにヴィルチュオーゾのイメージである。   ヴィルチュオーゾは練習量を誇示した。リストは毎日何時間とオクターブでスケールやアルペッジオを色々な調性やパターンで行う技術訓練を行った。退屈をしのぐために本を読みながらだった。リストの有名な弟子、Hans von Bulowによるとリストの練習はあたかも「救世主の様に自分の指を痛めつけることによって『死んだ手(”Dead Hands, ‘la main morte’”)』で弾く事を勝ち取るものだった(I crucify, like a good Christ, the flesh of my fingers in order to make them obedient)」。1832年の事だ(ただし、パガニーニに衝撃を受ける直前)。リストの「死んだ手」は後にリストのライヴァルThalbergの「骨抜き手」、さらに19世紀最後に「解離した手(la main dissociee)」、そしてその後20世紀初頭までの有名なピアノ教授(Mason, Deppe and Leschetizky)の「活力を奪われ開放された」手と、名前を変えて受け継がれた、演奏に於ける一つの理想である。そしてそれを可能にする練習と言うのは自虐的で膨大でなければいけなかった。アドルフ・ヘンゼルト(1814-89)は一日10時間、練習用の無音ピアノでバッハを弾きながら聖書を読んだ。アレクサンダードライショック(1816-69)は一日16時間練習した。こういうのは多分、誇張だろう。でも、そういう誇張がまことしやかに史実として残る、と言うことの歴史的態度と背景がここでは検証に値する。   暗譜は、この膨大な練習によって意識せずに自動的に弾ける域に到達する、と言う事の延長線上にあるとも言える。一方、こういう練習は暗譜忘れで舞台が恐怖になるピアニストへの唯一の恐怖への対処法でもある(ヘンゼルトは有名なあがり症で、協奏曲を弾くときは舞台袖でオケのイントロぎりぎりまで隠れていて、ピアノソロの瞬間に走って行って弾き始めたそうだ)。   この「質より量」の練習、「起きてる時間は全て練習!」を美徳とする文化は今でもピアニストの間で在る。私も何年にもわたって朝起きたら兎に角歯だけは磨いて家を飛び出し、道中で朝食を確保して一日中練習室にこもる、と言う生活を続けていたこともある。そうして難曲とされる曲に次から次へと挑んだ。そうしていると確かに自分の演奏が自分の肉体も意識も時間の感覚も超越した所に行くように感じられる。それは快感で満足感があり、練習は中毒になる。昨日反田君のドキュメンタリーを観て私が感じたのは、禁断症状に似たものが在ったのかも知れない。あるいは今論文を演奏や練習に優先させていることがまるで背徳行為であるかのような罪悪感かな。   膨大な練習によって自分のピアノ技巧や演奏を肉体や意識を超越した所に持っていくこと事を目指すピアニストは苦行を甘受する僧侶の様にも見えるかもしれない。   19世紀に入り、啓蒙主義で従っていれば良い権威(教会・公邸・慣習)などを失い「自分」と言う物に責任と義務を急に持たされた人々は、戸惑った。どこにそのモデルを見出せばよいのか…そして流行したのがヴィルチュオーゾたちだった。料理、探偵、チェス、手品…色々なヴィルチュオーゾが出現したのだが、ピアノ・ヴィルチュオーゾが特にもてはやされたのにはいくつか理由があった。まずピアノと言う楽器が工業革命の産物であり、19世紀前半を通じてみるみるうちに品質改良と量産が進んだこと。品質改良の度にピアノは鍵盤の数や音量をどんどん増していき、それまで不可能だった新しい演奏技術が披露され、その度にセンセーショナルだったこと。そして工業革命を体現するピアノと言う巨大な楽器を臆せずに制するヴィルチュオーゾピアニストは時代を君臨する英雄、自分の指や膨大な数の音符をまるで歩兵の様に操る司令官、と言う風に憧れの対象となった。   しかし、この「あたかも肉体やピアノと言う巨大な機械を超越しているかの様に弾いて見せる」ヴィルチュオーゾピアニストと言うのは、19世紀のロマン主義に於いては少なくとも一部の哲学者(ヘーゲル)、音楽理論家(E.T.A. Hoffmann、A.B. Marx)、評論家(ロバート・シューマン、Hanslick)などによって「実物主義的」として、世俗的なくだらない物と評価され、Charlatan(山師)などと酷評されるようになる。ヴィルチュオーゾが提示するものは即実的である。演奏は見えるし、聞こえる。ヴィルチュオーソその物もカリスマを持ったスターと言うイメージを持った実際の人物。しかも彼らはその演奏とイメージの見返りとして富と名声と言うあまりにも世俗的な報酬を受け取る。   ヴィルチュオーゾに対して音楽に於ける世俗性を超越した「精神性」を求めてドイツロマン派主義の音楽家や哲学者たちが到達したのが先日私がブログに書いた「観ない演奏、聞こえない音楽」。ここでは演奏家は作曲家のお筆さきとして、演奏会と言う儀式を司る司祭として、作曲家とその作品を際立たせるために自分は作品の中に消え入らなくてはいけない。この作品に消え入ると言う事を最初にやったピアニストで最も有名なのがクララ・シューマンだ。クララを始め精神性重視のピアニストは、自分がいかに練習をしないか、を誇示した。クララは「3時間以上の練習は無駄」としている。そして人間としてバランスの取れた成長をすることでより良い音楽家となるために、読書をしたり外国語をしたり他分野の芸術作品に触れたり、自然の中で体を動かしたりすることを実践し、生徒にも進める。(ショパンも同じ考えだった。)こう言う精神性重視の音楽や音楽界に於いては聴衆は「時間と共に流れゆく音楽を聴く」のは邪道とされた。本当に正しい聴き方を会得するために自ら作曲の勉強をし、作品の音楽の構築や作曲技法を理解し、作曲家の創造者としての意図を理解し、その作品を把握することによって自分の精神性を高める、と言う事が求められたのである。   私は今この「精神性」 を目指して、この論文をかいているのだろうか?しかし精神性と言うのはあまりにも抽象的で、実際性に欠け、苦しいくらいである。この論文のリサーチと執筆を通じて私は確かに脳の新しい域を開拓していると実感する。毎日新しい見解が生まれる。それをどんどん進めるのは楽しい。一文、一章と書き進めていく上での満足感もある。でもはっきり言って、練習の方が達成感が大きい。より多くの人を幸せにできる。練習がしたい!でも論文を仕上げなければ…   でもこのジレンマと言うのはリストの様なヴィルチュオーゾもクララの様なピアノ司祭も同じく感じていたに違い無い、と私は思う。練習時間だけ取ってみてもどちらの話しにも誇張がある。二人の練習量、そしてジレンマは実は凄く似通っていたのでは、と私には思える。技術獲得のための練習をするのか・精神修行のために読書や芸術鑑賞をするのか、スター性を前押しした演奏をするのか・作曲家を崇める演奏をするのか、音楽が自分のためにあるのか・自分が音楽のためにあるのか…これ等はすべて抽象的な問いかけであり、実際にははっきりと黒白がつけられる問題ではない。リストもクララも実際の演奏にはいつも多かれ少なかれ両方の要素を持っていたと思う。そして練習時間に限って言えば、私たちは皆1日24時間しか無い。そして演奏は実際の演奏会場への交通や着替えなどの直接的な時間のほかに、事務的な交信やアレンジにかなりの時間がかかる。さらに二人とも副業として生徒を教えている。そして二人共家族や愛人などの人間関係のしがらみがある。これらをすべてこなしてさらに練習をするのは3時間でも難しいし、10時間に至っては毎日やるのは無理である。それをあたかも実際に毎日やっていたかの様に書き残すのがロマン派であり、クラシック音楽なんだと思う。「歯だけは磨いて練習室に直行して夜になるまで…」の時代の私だって、実際は練習室でノートに日記を書き連ねたり、練習の「お休み」に友達と昼食を食べながら何時間もだべったり…振り返ると「睡眠以外は全て練習!」とはとても言えない。そうなのだ、大体そんなに練習していたらクララやリストの膨大な交信記録や日記が残る訳がないではないか!   そして私も目指すは悲愴感や哲学をにおわせる究極の我武者羅ではなく、バランスである。「1日論文!」も無理だし、「1日練習!」も無理。バランスを取って健康的に、生産的に、着実に、練習も執筆も進めます!ブログも書いちゃうし、日本語テレビも見ちゃう。   音楽人生万歳!

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通常生活へのリハビリ

戦争・和平交渉・結婚・葬式…   なんのリストだと思いますか? 歴史上、色々な文明で音楽が利用されて来た場面の多くのリストです。 音楽と言うのは、大きな社会変動や個人の社会に於ける位置変動が起こる度に (大丈夫だよ~、大きなことは変わっていないよ~)と安心を醸し出したり、 (これは良いことだよ~、さあ、勇気を出そう~)と連帯感を醸し出すと言う効果があるそうです。   音楽を『高尚』、さらには『神聖』とさえ思うような西洋クラシックの世界で育ってきた私は この概念を紹介されたときには結構感じ入りました。 儀式化された音楽ではなく、人間の営みに必要性を持って組み込まれている音楽。   祖母や育ての父親や友人を今年に入って続けて失ったり、 生まれて初めての全身麻酔を伴う手術で大げさで怖がりな私は(死ぬかも)と本気でちょっとだけ思ったり(恥ずかしかったので誰にも言わなかったけれど、どんな薬にも大げさに反応する自分の体が全身麻酔に正常に反応するとは思えなかった。)、更には沢山のコミュニティーの方々や日本からわざわざ来てくれた家族に祝福されながら新しい名前で人生の門出を祝ったり、この半年間、さらに最近の数週間は心理的に本当に盛りだくさんだった。そんな時、音楽を専門にする私は、忙しさにかまけて少し音楽から遠ざかった。   やばい。   音楽から遠ざかった私が再発見するのが食である。 音楽と同じく食と言うのも冠婚葬祭には音楽と同時に人生の一大事に連帯感を醸し出し、人間の営みの普遍性を思い出させる大事な立役者。 最近「孤独のグルメ」と言うドラマにはまっている。 私と同じく門出を祝った相手と一緒に 祭りが空けた今日はアイスクリームをパクつきながら見てしまった。   練習と論文は週末が明けてから。 ひとまず疲労回復と生活リズムの回復を試みなければ。      

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おばあちゃんが亡くなった日に病院でした演奏

今朝起きたら、日本からおばあちゃんが亡くなったと言うメールが届いていました。 下の写真は今年の2月、卒寿のお祝いの時の写真です。 おばあちゃんはいつもおしゃれっ気がありました。 ベレー帽が懐かしい。 おばあちゃんはお出かけの前には必ず鏡台の前に座ってお化粧をしました。     正午にヒューストンのメディカルセンター主催の演奏会シリーズに出演が決まっていました。 ヒューストン・メディカルセンターでも一番大きなMethodist Hospitalは Medical Center for Performing Artsと言う 演奏家の治療や、音楽セラピー、音楽と脳神経の研究などを主に行う部もあります。 音楽の治癒能力を宣伝し、その一環として 病院のロビーでは毎日月曜日から金曜日の1時から5時まで生のピアノ演奏があったり、 またそう言うBGMとは別に今日私が出演したようなちゃんとした演奏会形式の演奏を 月に10回ほど主催したりしています。 今日は私はブラームスのヴァイオリン・ソナタとクラリネットソナタと言うプログラムで ご存知私の心の友のクラリネット奏者の佐々木麻衣子さんと ヒューストン交響楽団でヴァイオリン奏者を務めている私の昔のルームメートのTinaと一緒。   演奏をしていると神経が研ぎ澄まされ、普段分からないことが分かるようになります。 例えばお客さんの息遣いが聞こえるようになったり、集中度や目線が肌で感じられたり。 吹き抜けの会場の二階から目線を感じて見上げたら、 お医者さまが沢山鈴なりになって聞いていらっしゃいました。 会場の横の廊下を通りすがりの患者さんや看護婦さんも立ち止まって聞いてくださいました。 音楽が受け入れられている、必要性を実感されている、と感じられる日でした。   最後にアンコールでスクリャービンの左手のためのノクターンを弾きました。 「第一次世界大戦からは右手を戦場で失ったピアニストが沢山帰ってきて、 その中の数人が左手のための曲を委嘱始めた。 人間は生きていると色々な物を失っていく。でも人間は強い。 この曲はいつも、私にその事を思い出させてくれます」 とスピーチをしてから弾き始めたら、聴衆が本当にかぶりつくように聞いてくれました。 今日のお客様の多くは医療関係のスタッフ、お医者様、看護婦さん、 そして患者さんや看病のご家族。 毎日生死に向き合っている方々と音楽を通じて一体感を味わう事が出来た事が嬉しかった。   病気がちだった私は母や家族、そしておばあちゃんやおじいちゃんや親戚のみんな そしてお医者様や看護婦さんやインターンの先生や色々な方々に見守られて 成長して来ました。 成人式の時に「生存率は50パーセントと思ってください」と言われて入院していた私。 「式に出席だけないだけじゃなくてもう2週間もお風呂に入っていない汚い身体で…」と 看護婦さんにこぼしたら 「体は拭けばきれいになります。着物はいつでも着られます」と強く励ましてくださった。 その時に、付きっ切りで私の治療法を工夫してくださったお医者様は 実はその時ご自分の奥様が分娩室に入られても私に付き添ってくださっていた、と 後からお聞きしました。   私、そして私が奏でる音楽はそう言う方々みんなの想いの結晶です。      

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最近盛りだくさん!

最近、なんかすごい事が多い。   一週間前は副大統領のJoe Biden氏とその妻のJill Bidenがライス大学に来て、癌激減対策「Cancer Moonshot」についてのスピーチを行った。開会宣言とJoe Bidenの紹介でブッシュ大統領とレーガン大統領の国防長官だったJames Bakerもスピーチをした。2015年の5月30日に長男を亡くしたJoe Bidenは大統領選に出馬するのではなく、このCancer Moonshotのプロジェクト・リーダーになることを選んだ、とスピーチで説明。しかし、その理由はただセンチメンタルな物では無い事を、緻密な計画を発表することで明らかにした。末期がんの宣告を受けた息子の闘病に伴って学んだ事の多くに、医学研究の一般的な不透明さ、発表までの手続きの大変さ、等を上げ、政府介入が不可避、と感じた、と言う。まず進行中の研究でも日ごとにその経過報告を公開することを義務付ける事。さらに、儲け優先の薬品会社には隠す理由が多い試供薬品のトライアル結果(成功している結果は市場調査などをしてから、失敗した場合は会社のブランド名が落ちるなど)を、すべて公表することを義務付ける。Joe Bidenは熱情的で、そして本当に父親としての心痛を人類愛に置き換えたような感じで、本当に心を打たれた。   さらに9月6日になんか変ないきさつで変な映画に出演してしまったポスターが私に断り無くFacebookに挙がったのを発見したのも今週。どうしたら良いのか…まあ、大して害はなさそうですが。 私の名前が「映画音楽」の所に出ているのも、変。 まあ、気にしないのが一番かも。   そんな事は小さなことで、次に大きいハプニングは昨日の朝。 自身が継父による家庭内暴力の経験者として育ち、そのあまりのひどさに13歳の若さで兄と殺人さえ試みたと言う凄い経験を持ちながら、その後警察のキャリアを通じて家庭内暴力撲滅に務め、数々の勲章をもらい、ついには大統領のアドヴァイザーにまでなったMark Wynnと言う人がライス大学にレクチャーに来て、これも聞きに行った。これも非常にパワフルだった。昔はレイプされた人が「ウソの通報をした」として逮捕されてしまったり、彼自身が被害者の時代(1960年代)には家庭内暴力を受けて通報したら「これ以上夫婦喧嘩で通報して来たら、逮捕しますよ」と言われてしまったりしたらしい。『女性は感情的で証言があてにならない」とか「家庭内暴力は殺人や強盗に比べて軽犯罪」と言う偏見が強かったのが原因だったが、実は統計を取ると、家庭内暴力は通報の大部分を占め、殉職する警察は家庭内暴力の通報で死ぬことが多く、さらに家庭内暴力を振るう人は外でも犯罪を犯す可能性が多い事が最近明らかになった。また最近、十何年も放っておかれた何千と溜まったレープキットが倉庫にある事が明らかになり、それを調べ始めたら、80人の連続レープ犯が一挙に検挙された、とか。いかに昔は被害者に対する偏見が強かったか、しかしいかに政府・法廷・警察・コミュニティー共に改善の努力を続けているか、と言うお話しを早口で情熱を持って語り、こちらも胸が熱くなった。   そして今日と明日は演奏会! アジア人女性の指揮者。この人は本当に好感度が高い。腰が低いのだけれど、しっかりと自分の意思と思いが伝わり、みんなニコニコで楽しく連帯感を高く持って演奏できる。この人を見ていると(指揮者になるのだったらこういう指揮者になりたかったな~)とすごく思う。   !   私が弾くのはショスタコーヴィッチのバレー組曲4番。ピアノとチェレスタの間を行ったり来たり素早く、時には激しく移動しながら、結構弾きまくり。 今夜8時は野外コンサート(Miller Outdoor Theater at Hermann Park)。 明日はシーズンオープニングのガラが5時から。 その後すごいゴージャスなカントリークラブでドーナーとの夕食会! 楽しみ。   音楽人生万歳!

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