11月のプログラム

現代曲考察、ベルグのソナタ

タングルウッド音楽祭参加中からずっとその是非について考え続けた現代曲。 段々ある一つの見解が自分の中で固まってきている気がする。 それは必然性の問題である。 私の独断と偏見に満ちた見解を恐れ多くもここにまとめさせていただければ、 音楽に限らず、全ての芸術作品の価値と言うのは必然性のレヴェルと比例するのではないかと思う。 その時代と、そこまでの歴史の流れを、どれだけ反映し、どれだけ必然性を持って生まれてきたか。 勿論、その芸術家の個人的な歴史の中で、個人的にその作成が必然だったと言うこともあると思うが、 その個人的必然性が一般化できなければ、その作品は偉大とは言えないと思う。 それぞれの作品の歴史上での必然性と言うのは別に、 その曲の中でそれぞれの音、和音、リズムの曲の中における必然性という物もある。 その必然性の密度が高ければ高いほど、楽譜に記録する価値が出てくる、と思う。 楽譜と言うものは、世界中の音楽の中でも特に西洋音楽にユニークな記録・伝達方法だ。 私は民俗音楽に疎いので間違っているかも知れないが、 ここまで作曲家の指示・意図が微細に記録できるのは西洋音楽の楽譜だけだと思うし、 だから西洋音楽は他の音楽に比べて大きく、素早く、歴史と共に(超えて?)発展することができた。 その発祥自体が西洋音楽の性格と、長点、そして限界を元から含んでいると思う。 カトリック教会において、神を讃える方法としてのチャント(俗にグレゴリアン・チャント、6世紀?)を それぞれの地域のローカル性、世俗性を含まない、完全に統一されたものとしてコントロールしよう、 と言う考えから発達された方法なのである。 ここでちょっと話を飛躍させて、私がいつも考えている「記録する」と言う行為について書きたい。 言語には(私が理解する限り)2種類あって、それは文字を持った言語とそうでない言語である。 例えば、日本語はもともとは文字をもたなかった言語だ。 アメリカン・インディアンの言葉もそうである。 文字を持った言語がより「優秀」な言語かと言うとそうでは無くて、態度の問題だと思う。 言葉で捉え得るものを記録する価値があるものとするか、否か。 記録する価値がある、とした文化は記録したものの上に考えや見解を積み重ねていけるから、 文化的発展や、自信・信念を確固と持つことはより可能になる。 でも、記録しないことによって、瞬間瞬間の感覚をより新鮮に、直接受け止める能力、と言うのもある。 先入観、と言うものができにくいからだと思う。 記録しないものを発展させるのは、自然とより長い時間がかかるが、 でも、意思の力が介入しにくい分、より自然、あるいは「本当」の発展ができる、と言うこともあると思う。 楽譜に記録する必要性の高い音楽、と言うのは実は少ないと思う。 例えば、古典派の音楽では「革新」的であると言うのは必ずしも望ましいことではなかったので、 音楽家どおしの「常識」と言うのは幅広く、作曲家がヒントの様な事を書けば 後は演奏家と「ツーカー」で分かりあうところが多く、だから強弱記号など、省いても良かった。 それが、歴史が進むにつれて作曲と演奏と言う行為がどんどん分業化されて、 しかも音楽が「革新的」「独創的」であることがどんどん良しとされ、 今まで誰も思いつかなかったことを作曲家が血眼で捜すようになり、 楽譜の記法がどんどん複雑になり、現代音楽がどんどん一般から遠いところで存在するようになった。 ミルトン・バビット(Milton Babbit, 1916年生まれ)が1958年に書いた 「Who Cares If They Listen?(聴いてくれなくても、気にしない)」と言う有名なエッセーがある。 前衛的作曲家のバビット氏が 「最先端の科学は私たちの日常生活と何の関係もないけれど、その意義を社会的に認められ、大学にその居場所を確保されている。前衛音楽も同じように、一般聴衆とは全く別のところで大学に居場所を保障されるべきである」 と論じるエッセーだ。 これが、今までの芸術の歴史の流れと、今の世の中を反映した、芸術観? それではあまりに悲しすぎる。 私は一人の聴衆、演奏家、そして人間として、それに甘んじることはできない。 今度の11月に私が弾くベルぐはショーンベルグの弟子で、後に無調性、12音階の作曲家となるが 私が今回弾くピアノソナタはその作品1、ちょうど100年前の作品だ。 […]

現代曲考察、ベルグのソナタ Read More »

シューベルトについて

今度のリサイタルで弾くべく今練習しているシューベルトのソナタ19番、D. 958ハ短調は シューベルトが梅毒で、若干31歳で亡くなったその年に書かれている。 当時梅毒は治療法が無く、梅毒は死刑宣告だった。 26歳で梅毒の診断を下されたシューベルトはそのあと、 歌曲の詩に多く、死を唯一の逃げ道、あるいは友達、あるいは美しいものとして描写する物を選ぶ。 そのシューベルト死後一年経って、シューマンがこんなことを言っている。 「Where other people keep diaries in which they record their momentary feelings, etc, Schubert simply kept sheets of music by him and confided his changing moods to them; and his soul being steeped in music, he put down notes when another man would resort to words (普通の人が日記にそれぞれ、その時の感情などを記録するように、シューベルトは五線紙に移り変わる自分の感情を書きつけ、打ち明けます;彼の魂は音楽にどっぷり浸かっているので、普通の人が言葉に頼るところを、シューベルトは音符に託すのです。)」 何が、シューベルトのどの曲が、シューマンにこう言わせたのだろう。 「A happy

シューベルトについて Read More »

ベートーヴェンの26番、作品81a「告別」

このソナタは、1809年にフランス軍のウィーン攻撃を逃れて5月4日に田舎に避難した、ベートーヴェンの理解者でありパトロン、そして唯一の作曲の弟子でもあったルドルフ大公の出発、不在そして再会に触発されて、1810年に完成した作品である。そのまま、 一楽章~「さようなら(Das Lebewohl(独)、Les Adieux(仏))」、 二楽章~「不在(Abwesenheit (独)、L’Absence (仏))」 三楽章~「再会(Das Wiedersehen (独)、Le Routour(仏)」 のタイトルが付いていて、1810年一月の大公の帰還の際、献呈されている。 1808年の暮れにウィーンで、交響曲の第5番「運命」と、第六番「田園」、そして合唱幻想曲(作品80)の3大作品の初演を含む、4時間に及ぶオール・ベートーヴェン・プログラムの演奏会が在った。しかし、リハーサル中にあまりに熱狂的なベートーヴェン(耳もかなり遠くなり始めていた頃である)を「この男は指揮をするべきではない」とオーケストラ奏者がボイコットし、ベートーヴェンは控え室でリハーサルを聴く羽目になったのはこのコンサートでは無く、その一つ前、11月15日の演奏会だが、この12月22日の演奏会も、さんざんな結果だったようだ。オケ奏者は間違えを立て続けに犯し、ベートーヴェンは演奏を途中で一旦止めて、弾きなおしを要求したり、聴衆も完璧では無い演奏で提示された、当時にすれば非常に斬新的な交響曲をどう受け止めたらいいのか、戸惑ったであろう。 このようなハプニングを経て、それまでは歴史上珍しくフリーランスで成功していたベートーヴェンは、ナポレオンの弟であるヴェストーハーレン国王の雇われ楽長になる、と突然宣言をする。ウィーン音楽愛好家有志達は慌てふためき、ベートーヴェンをウィーンに引き留めるべく、3人の貴族がお金を出し合って、ヴェストハーレン国王の提示する金額の7倍以上の終身年金を約束する。その3人の貴族の一人にも、「告別」のルドルフ大公が在った。 この曲はベートーヴェンには珍しく、物語性がある。 ベートーヴェンはこの当時の作曲家には珍しく、オペラは「フィデリオ」一つしか書いていないし、その製作には非常に苦労して校正に校正を重ね、10年以上かける難産となっている。一般に有名な、題名のあるピアノソナタの数々、例えば「悲愴」、「月光」、「熱情」、「テンペスト」等も、ベートーヴェン本人が付けたわけでは無く、またタイトルがあるからと言ってこのソナタの様にはっきりとしたストーリー性があるわけではない。もしかしたら、ベートーヴェンは音楽と文学要素を混ぜることは苦手なのかも知れない。このピアノ・ソナタも、他のソナタに比べて、造りが一見単純に見えるが、しかしだから演奏家にかかってくる部分が多くなってくる。前にブログでこの曲の事を書いたときに、「劇的要素が多いことを発見した」と書いたが、練習するにつれて、だからじゃあどう演奏すればいいのか、と言うのがだんだん見えてくる。それは、語尾、あるいは文章の最後をどう抑揚をつけるか、と言うことだと思う。 セリフを言うとき、一番最初の発音、と言うのはとても大事だと思う。 どういう声音を使うか、声量はどれくらいか、どれくらいはっきりした発音にするか、全てが発音の最初の瞬間にいろいろな情報を観客に伝える。しかし、文章をどう終わらせるか、と言うことはより大事だと思う。文章の終わり方によって、質問なのか、はっきりとしたアイディアを提示している文章なのか、自信があるのか、無いのか、いろいろな性格付けができる。ぶっきらぼうなのか、照れ屋なのか、という違いはしゃべり始めでは絶対言い分けられないが、文章の終わりでならはっきりと匂わせることができる。 等など、考察しながら練習中。お楽しみに。

ベートーヴェンの26番、作品81a「告別」 Read More »