中世までの勉強、一段落!

今、こちらヒューストンは8月9日、金曜日の早朝6時過ぎ。 起きて、洗面を済ませたところです。 勉強は順調。 昨日、予定通り中世に一段落をつけました。 中世の勉強を始めた8月5日は、まだ時差が取れておらず、 勉強の焦燥感もあって朝(と言うより夜中)の2時や3時に目が覚めて、 そのまま飛び起きて勉強を始めていました。 その代わり、夕方は6時を過ぎると、目が閉じてきてしまう。 「眠い」、「疲れた」と言った自覚はほとんど無いのですが、 教科書を読んでいるつもりで、気がつくと目がいつの間にか閉じて、眠っている。 いけないのは、その睡眠状態のうちに 新しい史実をまるで読んだかのように夢見てしまうのです。 例えば、バルトークについて読んでいて、 ハッと気がつくといつの間にか眠っていた。 最後に読んでいたのはバルトークのお姉さんの事。。。 と、思いながら読み返すと、バルトークの姉のことなんて一言もどこにも書いていない。 もう一つ困ったのは食事です。 何しろ時間感覚が全く狂っていて、 勉強中、小腹が空くたびに好きなものを取りあえずつまんでいたら、 自分が食べ過ぎているのか、食べたりていないのか、全く分からなくなってしまった。 だって、時差ぼけの上にぶっ続けで勉強していたから 「一日」と言う区分の感覚さえ、無くなってしまったのです。 と、言うことで一日の食事の配給を書き出してみることにしました。 起きてから、眠るまでに、食べていい食品の数々です。 朝、これをバーッとやって置いて、一つ食べるたびに消していきます。 これは良いアイディアだった。 ついでに運動も同じようにすることにしました。 さて、折角ですから勉強したことの大体をここに復習も兼ねて、まとめて見ましょう。 まず、西洋音楽以前。 石器時代、現存する最古の楽器は36,800BCのもの―凄くないですか!?そして、6、000BC頃の壁画から猟やダンスと共に楽器演奏が行われている記録が見られます。 青銅時代(4,000BC)になると、青銅を利用した楽器(ベル、シンバル、ホルン)などが加わります。弦をはじいて演奏する楽器が始めて見られるのも、この頃です。 メソポタミア文明(4,000BC-2,000BC)では、最古の作曲家の記録が…しかも女性!Enheduannaと言う讃美歌を書いた女司祭です。メソポタミア文明は文字を使った始めての文明でその書物の中には音楽理論も、見られます(1,800BC)。この頃のスケールは今の私たちのスケールと同じ。さらに、即興や演奏についても書かれています。1,400BCには現存する最古の楽譜も残っていますが、読解されていないようです。 古代ギリシャ文明(800-146BC)は、その音楽に関する言及で後世の西洋音楽に多大な影響を及ぼしました。音楽はその調和が宇宙や肉体、さらには精神の調和を反映する物だとされていて、だから逆に音楽の調和を用いて、肉体や精神の調和をコントロールも出来ると考えられ、非常に大事な社会的、教育的要素だったのです。プラトンの『共和国』や、アリストテレスの『政治』これ等の概念、そして哲学について言及しています。さらに、音楽が具体的どのように調和するのか、研究するのが音楽理論。 ギリシャ文明の数学者や、天文学者が沢山の書物を残しました。有名なのはピサゴラスの研究と、発見。彼は、弦を弾いて研究し、協和音というのは、弦の長さがきれいに分化されたときに起こる、と証明しました。オクターブは2:1、5度は3:2、4度は4:3、など。 西洋音楽に置ける中世は教会音楽の確立と、その記譜法の発展と確立で始まります。教会(ローマ法王)と、政治(カール大帝-即位800AC、フランク王国)の権威がで合同でローマ・カトリック教会の聖歌・祭典を全て統一しようと試みようとしました。これには、その音楽を聴いたことが無い人が、楽譜を見れば再現できるほど明確な記譜法が必要でした。 1. まず、フランス語のアクセント・サインのような物で、言葉の上にごちゃごちゃと斜め上向きや、下向きや、そう言う印(Neumes)が出てきます。(850年ごろ) 2. 次にこれを色々な高さに置くことによって、どれだけ高いのか、低いのか、表示。 3. そこに横線を引っ張って、この高さ、低さをより鮮明にしようとします。 4. さらに線の横に音の名前を書いたり(ト音記号、ヘ音記号の先祖)、線を色分けすることによって、どの線がどの音を示しているのか、表現します。 5. 最後にリズム。リズムは元々は歌詞に頼っていたので必要なかったのですが、単旋律だけではなく、複数の旋律が同時に歌われるようになってきて、声部と声部が上手く一緒に歌えるようにするために必要に駆られて発明されました。音符の形を変えることで、リズムを表す方法が確立されたのは1320年頃。さらに拍子の概念が確立されたのは、1340年。ここで初めて複雑なリズム(シンコペーション)などが可能になりました。 記譜法の発展と共に、それまでにはっきりと確立済みだった教会音楽に、色々な装飾が施されるようになります(Trope,Sequence,Liturgical Drama,9世紀頃~)。そして、その装飾に新しい歌詞が乗せられ元々の歌詞の解釈が歌われたり…そしてその装飾の延長線上として、複旋律の音楽(Organum, Clausala, Motet、10世紀ごろ~)が発祥・発展しました。記譜法によって可能になったから音楽がより発展するのか、音楽に要求されて、記譜法が発展するのか… ここで面白いのは、リズム記法の発展に、教会の権威の衰退が見れることです。三位一体(Trinity-父と子と精霊)の概念をとても大事にする教会では、3と言う番号は非常に大事。と言うことで、3拍子と言うのがカトリック教会音楽の基本で、リズム記法も最初は3拍子しか念頭に無かった。2拍子とか、4拍子とか、書きたくても書けないのです。でも、人間には足が2本あって、歩く時はいつも2拍子ですから、2拍子の方がずっと自然なんですよね。その2拍子の記法が提唱されたのが、1320年。この頃ローマ法王は実はローマに居なかったんです。1305年にフランス王フィリップ4世が「フランス人がローマ法王になれば、自分の政治に実に都合が良い」と言って、強引にフランス人(Clement5世)をローマ法王にしてしまいます。ところがローマは外国人が大嫌い。と言うことで、Clement5世は「行きたくない!」とだだをこね、Avignon(フランスの南東)に隠れてしまいます。そのまま、ローマに法王不在がなんと1377年まで続くのです。1378年からは方々から「我こそはローマ法王」と名乗り上げる者が続出し、一番多い時で3人の「ローマ法王」が居た時もあったんですよ!一番の皮肉は、この逃げたローマ法王の隠れ家のAvignonで、一番多く、宗教と関係の無い、新しい記譜法とそれによって初めて可能になったリズムのバライエティーを多いに駆使した実験的な音楽が「ローマ法王」のスポンサーによって行われていたことです。 そして、ちょうどこの頃から、複旋律の世俗音楽が重要な発展を遂げてきている、と言うのも面白いタイミングです。フランス、Notre Dame楽派(マショーが有名ですよね)のArs Nova(『新芸術』1300年から1400年)音楽に置ける複旋律のBallade、Rondeau, Virelai と言ったダンスから発祥した歌のジャンル。さらに、元は教会音楽だったのですが、世俗化して複旋律のテクニックの発展に大きく貢献したモテット。イタリアでもトレチェントと言う、複旋律の世俗音楽(マドリガル、カッチア、バラータ)が栄えました。 教会の衰退は教会の責任だけではなかった。例えばペストの流行(1347-50)でヨーロッパの人口が2/3になってしまったのはこの頃ですし、さらに100年戦争(1337-1453)や、人口の1/10が死んだ飢饉(1315-22)。エリートは観念的に神や権威者の正当性を疑問視し、小市民が刹那的になって、どちらも自分の感覚の快楽に走るのはしょうがなかったのかも知れません。 口伝に頼っていた音楽が、記譜法の発展によってより簡単に習得でき、さらにずっと観念的に発展出来る音楽となり、西洋音楽を世界の他の音楽から確立したのは、副作用です。でも、そのお陰で西洋音楽はこんなに早い、物凄い発展を遂げ、勉強するような歴史が出来たわけです。 あ、中世音楽で一つ言及し忘れた重要な部分は、トルバドゥール(南西フランス)と、トルヴェール(北フランス)です。単旋律のラテン語では無く自国の言葉の世俗音楽は、彼等によって12世紀に始まりました。これをきっかけにドイツやイギリスでも、自国の言葉の世俗音楽が発展を始めます。 […]

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