June 2018

音楽産業を経済学で解く!

    昨日・今日と、学会に出席していました。 Music Industry Research Association(音楽産業リサーチ協会)主催の学会です。主に経済学者がデータ解析で音楽産業の傾向や将来、問題と問題の解決法などを協議する学会でした。面白かった! 今回の学会のラインアップはここで見れます。https://themira.org/2018-program MIRAのHPはここ:https://themira.org/ RIAA(Recording Industry Association of America)の弁護士とかデータ分析の人とかNEA(National Endowment of Art)のデータ分析の人とか、プリンストンの教授、オバマ婦人の首席補佐官だった人(ミシェルオバマは男女平等やアメリカの子供の肥満問題など、色々活動的だったので)など、ものすごい人たちが次々と発表しました。 例えばこんなデータ。 アメリカ人一般で職場人種差別を受けたことがある、と答える人は男性が16.9%、女性が11.1%。ところが、アメリカで音楽家として生計を立てている人(内、クラシックは約35%)に同じ質問をすると、男性が24.4%、女性が26%と一気に増えます。さらに同じグループの一般人にセクハラを受けたことがあると答える人は男性が11%、女性が42%。そして音楽家のグループでセクハラを受けたことがあると答える人は男性が16.8%、女性が67.1%! このデータが発表されたときは、「このまま自分の本に使える!」と非常に嬉しくなりました。それに、自分が主張しようと勇気を出して頑張っていることが、自分の妄想ではなかった、と言う確認が取れたような気持ちにもなりました。 性差別、そしてセクハラ問題と言うのは、特に音楽産業に多いと言うのは私の主観ではなかった!   しかし、なぜこうなるのか。なぜ音楽にセクハラ・パワハラは多いのか? 一つに、音楽産業ではギグ・エコノミー(英語ではGig culture::単発や短期の仕事を受注してフリーランスする労働形態)が蔓延している。こういうやり方だと、人事部のように働き手の保安を組織的に管理できない。したがってギグをする働き手は弱い立場に置かれる。 もう一つは、音楽産業では夜遅く仕事をすることが必然。そうするとお酒や、時には麻薬などの使用も多くなる。そういう付き合いが悪いと仕事がゲットできない、と言う現状がある一方、お酒などが入るとセクハラの被害に会う確率が増えると言う現状もある。 そして最後に、産業内では権力を持つ立場ほど男性が多くなる。女性は立場が弱いフリーランス演奏家として仕事をしていることが多い。権力が大きくなる立場(例えば指揮者や作曲家やマネージャーやプロデューサー)ほど女性が少なくなる、とかいろいろ面白いデータが次々と出てきました。男女比がここまで極端な産業は、今の世の中では珍しいそうです。 セクハラではないけれど、音楽産業のパワハラを描いた「Whiplash(邦題「セッション」)と言う映画。いつも音楽でのセクハラ・パワハラ問題を考える時に思い出してしまいます。   他に「著作権侵害の経済的ダメージ」とか、「ダフ屋はなぜ儲かるのか?」とか、「ストリーミングの経済的影響」など、データ分析を使った発表が多かった。 色々面白いことが沢山あったのだけれど、いくつか箇条書き。 1.クラシックはかなり例外扱い。でも経済的貢献はクラシックは非常に大きい。 2.ポップスのスターはクラシックよりもずっと儲かってるんだろうと思っていたけれど、そうでも無いらしい。Anthony Improgoと言う人がびっくりするくらいオープンにどれくらい儲かっているか話してくれた。この人はソチオリンピックのテーマ曲とか、テレビシリーズのテーマソングとかも作曲した人だけれど、広報担当の人とかマネージャーとかレコードレーベルとかいろいろなところに搾取されて、手取りは非常に少ない。面白い。 3.テクノロジーに進化が音楽産業にもたらす影響は経済だけにとどまらず、計り知れない大きさ。もっとテクノロジーがこれからどういう風に発展するのかを見極めて、自分の活動の将来性を上手く計算しなければ。ストリーミングと言うものをもっと勉強しなければいけない。 そして、色々面白い人に沢山会いました。ごはんもなかなか美味しかった!    

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サルサを踊るピアニスト。

木・金・土・日と4日続けて、踊ってきた。 踊り始めて2か月目にして完全にハマってしまって居る同僚のピアニストに強く誘われて、とりあえず一緒に木曜日にクラスに行った。そしたら「週末スペシャル!一括で払えば金・土・日とクラスにもダンスパーティーにも参加し放題!」と言うのがあってついつい払ってしまったのだ。貧乏性なので、一度払ったとなると「元を取らねば」と言う執念もあり、かなりの忙しさ・眠さの中を、頑張って毎日通ってしまった。 このダンスクラスは、タンゴ、サルサ、バチャダなど南米のダンス専門。ビートに乗って骨盤を動かしながら踊る。初心者のクラスで、男女組まずに全員鏡を向いて練習した時はかなり楽しく、にかにか笑いながら汗だくになって動き回ってしまった。確かにリズムに乗って、周りと一緒に体を動かすのはとっても楽しい。脳みそからなんか出てくる感じ。 元々、ダンスをやれば音楽にもっと新しい感性が持ち込めるのでは、とかねがね思っていたこともあり、まきこ頑張った! しかし、こういう南米ダンスはもう描写できないくらいセクシーなのです。 もうどうしよう!と言う感じ。非常に恥ずかしい。強制的にクラスの男性一人ひとりと組まされて、初対面の人と体をぴったり合わせてくねくねするのは、なんとも言えぬ照れくささ。でも、クラスに参加する老若男女全員、みんな非常に心の広いやさしい人たちで、もたもたと不器用な私をおだてまくって褒めまくって、何とか乗せてくれました。私があまりに不器用な時は、私のネックレスまで兎に角褒めまくり。面白い文化体験だった。 5分毎にパートナーを変えるので色々な男性と踊ることになるのですが、結構面白い。うまい・下手、だけではなく、心配りの仕方がみんな違う風に表れるのです。みんなまず、自分がうまくなることに必死で、邪念が無い。そして、男性は女性を上手くリードすることも「うまくなること」の一部なので、一生懸命やってくれるのですが、それがそれぞれ違う風に表現されるのです。上から目線で色々教えてくれるけど実践がいまいちの男性もいれば、褒めまくりながらちょっとした手首の動きや背中の支え方などで(次どうだっけ...?)ともたつく私の体をさささっとうまく正しい方向へ導いてくれる人も居る。ただ単に経験値や腕前だけではなく、これは自信と意思の強さ、そしてやはり性格?人間性? そして、それぞれの先生の教え方からも色々学んだ。 私は人を教えることの方が、教わることよりも多い立場です。しかも、自分が初心者だった時の事をあまり覚えていないのに(3歳でレッスンを始めたので)、初心者を教えることも多い。そして残念な事に、初心者にどう接するか、と言う勉強をする機会はあまりない。しかし今回のクラスで色々分かった。 1.必死になっている人に、理論や概念を説いても、あまり意味がない。 ...当たり前、でしたね。でもよ~く肝に銘じた。 2.褒めるのは重要。 初心者は自分ができてないことで内心すごくしょげていたりする。褒めまくり作戦は結構重要。 3.笑わせるのは重要だが、あまりジョークばかりかますと、向上心を削いでしまう。 初心者だけど、先生にまじめに接してもらいたいと言うプライドがあるんです。 4.初心者はとにかくやってみたい。 何を説明されても実感が伴わないので、兎に角実践とデモンストレーションが重要。 最後に。 教えている先生たちはかなりハイレヴェルで、コンクールとかでも賞を沢山取っているような人たち。そのこだわりと質向上の執念から来る気負いは、同じパフォーマーとして、良く理解できるものでした。でもこのダンサーたち、無料で踊ることになんの反発もない感じ。とにかく楽しくてたまらない感じ。そして、発表会のような形で色々な分野のダンサーたちと一曲ずつ踊りを披露して、本当に5分とかの短い時間だけでも一生懸命、本当にきらきらと楽しそうに踊って、「見てくれてありがとう!」と言う感じ。収入はたぶん教えることで得ているのでは?クラシックとはかなり違う経済構造。 色々考えさせられました。 それから、楽しいことをしていると、他の事にも積極的に成れる。ものすごく忙しい一日を終えて、普段ならもうダレ~っとして使い物にならないときでも(ダンスのクラスに行かなきゃ!)と思うと、疲れていることも忘れて動き回り、汗をかいてすっきりして、帰ってきてメールを大量に書いたりできる。不思議。趣味は本当に必要なんですね。 ダンス、続けようかな~。非常に迷っています。楽しいけれど、自分のコンプレックスとどう向き合うか...  

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新しい気候、時差、新曲練習、新プロジェクト、親交...

帰ってきて3日目。 肌寒い。朝夕は長袖のカーディガンが欲しい。涼しくて過ごしやすいが、日本と随分違うぞ!朝起きたら喉が痛かった。要注意。 時差のあっても夜はぐっすり眠れているのだが、朝型の私には珍しく朝いつまでもとろとろと寝ていたい。目の周りにはパンダの様な隈。疲れも隈も早く取れてくれ~。午後は異様な眠さ。生産性は一時放棄して、ずっと見ようと思っていた映画「ガス燈」(1944)を見る。 イングリッド・バーグマン主演で、多くの人が傑作とする古典映画だが、この映画は心理学的にも大事らしい。「本当は自分は加害者ではなく、こんなに良い人なのに、お前の被害妄想や狂気のために糾弾を受けて自分が被害を被っている」と言うのは、虐待の加害者が良く使う手らしい。被害者の意識を操作して加害者が保身を図るためのこう言う論理を「ガスライティング」と呼ぶのは、この映画が基になっている。しかし眠気と戦いながらの映画鑑賞は映画には申し訳なかったが、授業中でもなんでも(寝てはいけない)と思いながらとろとろと一瞬寝てしまう時、何であんなにも気持ちが良いのだろう。 そんな中、友達がありがたいことに色々誘ってくれる。今日は最近踊りにはまっていると言う同じくピアニストの友達にダンスのクラスに誘われた。片道一時間半の遠出だが、超有名なインストラクターのクラスが格安で受けられると言う。ブラジルのZoukと言うスタイルのダンス。 楽しそうだが、出発が午後半ば、帰りが真夜中近くと言われる。ここで体動かして気分転換して、すっきり時差が取れるかも!?と言う希望的観測で興奮する自分がいる一方、(いやいや、この隈は寝てしか直せないでしょ)と戒める自分が最終的に勝つ。すごく行きたかったけど。こういう風に誘ってくれる友達がいるのは嬉しい。 残った理由の一つにはずっと同じ演目を弾いてきて、そろそろ新曲を練習したくてうずうずしていた、と言うのもある。今回の「恋するピアノ」はシューベルトを中心とした歌心を大事にする音楽的な曲が多かった。そのバランスをとるかの様に、今の私は激しく、肉体的・打楽器的な、リズミックな曲が弾きたいのだ!今、私の頭の中でずっとなっているのはこの曲! 新曲を練習始めるのは、楽しい!ワクワク。 そしてずっと保留になっていた本の執筆も今日、再会。かなり良い調子でぐんぐん進む。 時差のせいで、朝型の私が夜になると目がギンギンに冴えてくる。しかしもう11時半!寝なければ隈がいつまでも消えず、朝がいつまでもつらい...寝るぞ!

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いじめは損!

いじめと言う行為は、個人、あるいは特定のグループ(性別、性嗜好、人種、宗教、心身的特徴、社会的地位や層など)を心身的暴力によって矮小化し、自尊心・自信・社会的尊重を奪う行為だ。いじめは、心無い行きずりのコメントの事もあるし、執拗な日常的に行われる長期的な行為の場合もある。学級内や職場でのいわゆるいじめはもちろん、セクハラもパワハラもいじめ。家庭内や社会的な位置づけ・「キャラ」づけなど、一般的にはいじめとされない行為も、この定義だといじめになる。例えば女性蔑視・人種的ステレオタイプはいじめだと私は思う。それから「あんたはいっつも___なんだから!」と言ったような、表面的には観察や助言とさえも解釈できる表現も、相手の自尊心・自信・社会的尊重を失うと言う結果を生むのであれば、いじめだ。 じゃあ、なぜいじめはいけないのか。 善悪と言うのは突き詰めると難しい。簡単に机上の空論になってしまう。でも、私は「宇宙兄弟」と言う漫画で素晴らしい倫理のバロメーターに出会った。宇宙に行きたい兄弟の夢を支援する登場人物の言葉だ。 「迷ったときは、何が『正しい』かではなく、何が『楽しいか』で決めろ」                       どれだけ「楽しいか」は単純計算できると思う。 行為の「楽しさ」= 行為の楽しさ×行為で楽しくなる人の数 - 行為で楽しくなくなる人の数x行為が生む心の傷の程度。 私は人間にとっての最高の快楽は、周りの人間に貢献していると言う実感だ、と信じている。だから私はいじめは非人間的な行為だと思っている。いじめっ子はかつてのいじめられっ子。周りを貶めることでしか自尊心でしか感じられない人、と言うのはやはり本人も何等かの傷を受けてしまった人だと思う。じゃあ、最初のいじめっ子は?と言われると、例外的に非人間的、サイコパス的な人と言うのが居るのは脳神経科学が証明している。 でも、いじめは損!と言う認識を広め、文化的にいじめと言う行為を削減することはできる、と思う。 なぜいじめは損なのか ー 究極的には、いじめと言う行為は、楽しくないからだ。 仮にいじめに何等かの快楽を感じるいじめっ子がいたとしても、そのいじめにより不快を経験するのはいじめられっ子だけではない。何故なら不幸は、正当な幸福と同じくらい感染するからだ。と言うことで楽しさは、楽しくなさに圧倒的に負けてしまう。 更に、いじめの被害者は必然的に本領を発揮できなくなる。これは被害者だけの損ではない、社会的な損だ。損は誰も楽しくない。 セクハラの糾弾を受ける人の中には、素晴らしい功績を残した芸術家や社会貢献をした重鎮も居る。中には糾弾されているセクハラが数十年前にさかのぼり、本人がかなりの高齢者のケースもある。加害者の人権も尊重されるべきだ。ヒステリックな糾弾はそれその物がいじめになる。 そしてその人の恥ずかしいいじめの行為とその人の功績は別々に考えた方が良い、と私は思う。 例えば、私は指揮者のジェームズ・レヴァインとタングルウッド音楽祭で勉強したことがある。彼は大抵のアリアや歌曲は、楽譜を見ないで原語で歌えたし、演奏を全曲通して聞いた後、楽譜を見ないで「歌詞が___の所」とか「小説番号___で」と言った風に的確な指示を瞬時に出すことができた。そしてその教授法はいつも誉め言葉と暖かい姿勢に基づいていた。彼が何人もの未成年男子に性的行為を強要する癖を改めないことは長年周知の事実だったし、私は彼の天才の恩恵を直接受けて、非常に複雑な心境だった。しかし今、74歳でしかも長患いをして事実上引退している彼を、業界が寄ってたかってあたかも今まで誰も何も知らなかったように糾弾しているのを見て、これは彼一人の問題ではない、社会的・文化的問題だ、と確信する。逆に、ジェームズ・レヴァインに恩恵を受けた生徒として、ジェームズ・レヴァインの才能と音楽的功績を庇護したくなる。周りはジェームズ・レヴァインの才能と社会的地位を考慮して、彼の性癖を許容・助長したのだ。同罪だ。 でもいじめっ子の才能・功績・地位に関係無く、いじめと言う行為が社会的に糾弾されるべきだと私が思う理由は、私自身が受けたいじめの結果、長年本領を発揮できなかったからだ。沢山の人の支援や指導や愛を得て、私がいじめから傷ついた自尊心・自信・社会的尊重を回復した今、その損失が実感できるからだ。 16の時、演奏直後に楽屋で「演奏している姿にそそられる」という意味の事をもっと卑劣な言葉で言われた。20の時、私の才能を買って沢山の演奏を世話してくれた恩師から口説かれた。21の時、続けざまに目前でアスピリンを口にするマネージャーに「Blue Balls」の意味を説明された。その後も、教師・主催者・音楽支援の献金者・共演者など多数の方々に、口説かれたり、脅されたり、交換条件として性行為を持ち出さりされた。競争の激しい業界だから、と言うこともある。セクハラだけでなく様々な形で矮小化され、「いじめ」られた。 こういうセクハラの一つ一つをそれぞれ私は笑い飛ばそうとした。私は自分を美人と思ったことは一度もない。化粧やおしゃれに全く興味が無く、なりふり構わず練習ばかりして、どちらかと言うと「のだめキャラ」的な私を欲望の対象としてみるなんて、非常に可笑しいと思っていた。更に私は声も体もでかい。いわゆるか弱いいじめっ子とはタイプが違う。こうしてこのブログを書きながらでさえ、自分を「いじめられっこ」の立場で書くことに違和感を覚える。私を個人的に知っている人は私の告白にショックを受けるだろう。でもこういう事象が信じられない数で周期的に起こって、私はだんだん自分に来るチャンスや、チャンスをくれる人を疑うようになっていた。純粋に私の演奏や音楽性を買って仕事をくれる人はどれくらいいるのか?私の演奏や音楽性には本当に価値があるのか?私自身に価値を認めてくれる人は、この世にいるのか?振り返って、私が長年必死で戦ってきた舞台恐怖症は、少なくとも多少は、受けてきたいじめのせいだったのだ、と思う。 矮小化され続けて私は最終的に家庭内虐待を受ける立場に自分を陥れてしまった。「合い鍵をなくした」と同棲相手に言われ、自分がどこに行くのか・いつ帰ってくるのかを報告し合わなければいけなくなった。思えばそれが始まりだった。自分のスケジュールを管理され、交友関係がどんどん狭くなった。車にGPSを付けた、お前に知らないところに隠しマイクが付けてある、お前が思考や行動はすべて把握しているぞ、と脅された。どこに居ても、どこに行っても、相手がひょっこり現れる。そして彼が怒るとどうしようもなくなってしまう。それでも、恋愛感情で一時的に狂ってしまって居るだけだと言う説明を受け入れたかった。それを愛情と認識できないのは、過去のトラウマで私自身の判断の基準が狂っているからだ、と言う糾弾さえ受け入れたかった。愛されていると思いたかった。別れようと思ったのは携帯電話を叩き割られ、コンピューターを壊され、メルアドをハックされて過去の更新をすべて消去され、そして数か所に保存してあった私のコンピューターのバックアップファイルもすべて消去されたときだ。消去されたファイルの中には進行中の博士論文もあった。安全のために警察の協力を得て別れ話しを持ち出した時に、過去の家庭内暴力事件で彼に逮捕状が出ていたことを初めて知った。彼に逮捕状が出ていた事件では、当時付き合っていた相手を、彼女の9歳の娘の前で、包丁を使って肉体的に痛めつけ、警察を呼ぼうとした際に彼女が使おうとした固定電話を壁から引っこ抜いたのだった。このことを知ったとき私は、彼の暴力が私とは何の関係も無いこと、私以外にも沢山の被害者が居ることを瞬時に理解できた。そして彼の刑事責任を追及することは、私の社会的義務だ、と思った。別れた後、最終的な逮捕まで、相手は私にストーカー行為を働いた。私の車を3回破損し、私のために運転してくれた友達の車も一回破損した。これを受けて、私が属していた大学、そしてヒューストンの日本人コミュニティーが総動員で、私を守ってくれた。数えきれない人たちが、私と私の演奏活動を守るために、ボランティア活動を実行してくれた。今思い出して、涙が出る。安全対策会議を開き、役割分担をして、駐車場・会場・私の会場の行き来など、すべての安全を管理してくれた。私を励まし続け、何気ない形で沢山の社交活動に誘ってくださり、孤立化を防ぎ、暖かくコミュニティー全体で私の回復のプロセスを見守ってくださった。周りの多大な支援を受けながら、彼の罪を立証することを達成した時、私は過去に受けたいじめの全てを清算できた気持ちになった。自信を取り戻せたのは、刑事責任追及が最終的に成功したからと言うのもあるが、こんなに沢山の素晴らしい人々の愛情を体験できたからだ、と思う。 性的対象と見られない年齢・立場に成った。これらはすべて過去の話しだ。心無いいじめも沢山受けたが、無私のサポートも沢山受けた。そして私は幸い、自尊心も自信も回復できた、と宣言して、その過程を本に書くところまで来れた。自分の経てきた経験に自信を持って音楽活動で社会貢献をする幸せを今かみしめている。同時に、もっと早くこの境地に達することができていれば、自信を持った音楽活動に費やす余生はもっと長かったのに、とも思う。 私は女性蔑視や人種差別を始めとする、すべての「いじめ」行為は社会的に損だと、自分の経験を踏まえて声を大にして言いたい。だから本を書く。だからこのブログも書いた。書くことで、一人でも多くのいじめられっこに勇気とヒーリングを、そして一人でも多くのいじめっこに反省と自制をもたらせれば、本望だ。 世界は一つ。人間みな兄弟。音楽人生万歳。      

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日本を後にして。

本拠地の空港に降り立った瞬間「また生き長らえた...」と思った自分を発見してびっくり。 飛行機事故を懸念して、ではないのだと思う。やはり私は一つのツアーを一つの単位として人生を生きてきているのだ。ツアーとか一つの滞在に文字通り一所懸命になる。前や次の場所・時間はとても抽象的・概念的なものになり、とりあえず今居る場所、一緒に居る人、目前の目標だけに集中する。だから、ツアーが終わるころには人生の終焉に近づいたような気持ちになってしまうのだと思う。そして、飛行機が次の場所に降り立つと「え⁉ 人生終わりじゃなかったの?これからまだあるの??」とちょっと慌ててしまう。まあ、大げさに言えば、ですけど。 5月16日から6月16日まできっかり一か月間。今回の日本滞在は例年よりやや長めだった。音楽会も学校コンサートも含めて細かく数えると全部で14とすごく多かったし、US-Japan リーダーシップ関係の集まりや交友も多くなり、今回はまったくフリーな日と言うのは全部で3日しかなかった。とても充実した滞在だった。ブログを更新している余裕がなかった。Facebookには割とこまめに写真や動画を上げていたのだが...本の執筆も進まなかった。それよりも日本でしか会えない家族・親戚・友人との協調性を意識的に優先させた。 音楽活動を通じて色々な方々の色々な人生の場面に触れ、共鳴する。涙、笑顔、逸話、回想...その一つ一つに感謝。もう日本での演奏活動も18年目になるので、初回から私の応援に毎年駆けつけてくださって来ている方々が段々年齢を重ねられて来ている。中には健康が不安定に成られてきていらっしゃる方も、亡くなられてしまった方々もある。引退を迎え、これから第二・第三の人生を楽しみに計画していらっしゃる方々もおられる。私と同世代、あるいは後輩の中には、今が働き盛り!でバリバリ・イキイキ頑張っていらっしゃる方々もある。お子様が在られる方々はお子様がどんどん大きくなっていく。時間の流れを感じ、それを自分と自分の音楽人生の発展に重ね合わせ、愛おしい。そしてみんな、みんな、私の音楽の一部となっていく。 今回の聴衆は下は一歳児から、上は95歳まで、実に幅広かった!               US-Japan Leadership Program 関係の交流と、そこから広がったネットワークとの交流も充実していた。アートギャラリーのオープニングに行ったり、社会に関連性を持った芸術活動や芸術とビジネスを結びつけることに関して色々な起業家・芸術家と協議したり、米国大使公邸でのレセプションに行ったりもしました。医療の発展や社会構造の多様化に伴い、これから家族や親子関係はどのように進展していくのか研究している友達と、こんな映画を見に行ったりもしました。 音楽もナレーションも無い映画は、ドキュメンタリ―でも初めてでした。こんなに泣いたドキュメンタリーも初めてだったかも。 社会に関連性がある音楽造りを目指す一巻として社会や人間についてもっと知りたい!そんな私の想いを汲んで、色々な人が色々な専門知識や個人的体験や気持ちをシェアしてサポートしてくれます。そういう人たちの希望が、私をもっともっと触発し、活性化していきます。前を向いて、ずんずん、前進します。  

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