美笑日記2.8:音楽文学:幸田延・露伴・文

このブログの英訳はこちらでお読み頂けます。https://musicalmakiko.com/en/concerts/2870

ピアノ文学少女として育った私の様な日本人にとって、中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる(2009)」は日本に於ける西洋音楽史・ピアノ史・ピアニスト史への開眼のきっかけとなった本ではないでしょうか?
私が幸田延(1870~1946)の名前を最初に知ったのもこの本です。でも延の音楽人生に感銘を受けながらも、その作品を探すまでには興味が及ばなかったのは、今にして思えば音楽に対する探究心の至らなさと、自分自身の人種差別・女性蔑視があったのではないかと反省せざるを得ません。

幸田延(1870~1946)は日本初のヴァイオリニスト・ピアニスト・作曲家として、日本初の文部省音楽留学生としてボストンのニューイングランド音楽院(1989)で一年、そして引き続きウィーンで5年留学しました。(詳細は下記の年表をご参照ください。)

なぜ、今、私が幸田延の音楽について書いているかというと。

まず、コロナ禍で、ジョージ・フロイド氏を始め警察の暴行による黒人の殺害事件の多さに、Black Lives Matter運動が国際的に広がりました。その結果、企業の人事・教育現場・政治・地域自治体などに於いて、DEIという事が盛んに言われるようになりました。DEIとはDiversity(多様性)・Equity(公平性)・Inclusion(「包括性」と一般的に訳されていますがここでは私は敢えて「全員一体感」としておきます)という事が、企業の人事部や教育現場や政治などで盛んに言われるようになりました。この副産物として、演奏会の演目に有色人種や女性の作曲をより多く取り入れましょうという動きが盛んになったのです。コルバーンで共演を始めて一年になる白人女性のヴァイオリニストが私に「マキコと日本人作曲家の曲を一緒に弾きたい」と申し出てくれたのには、そういう背景があります。正直にいうと、私はアリバイ作りの様にうわべだけ繕う事はあまり好ましく思いません。それ以上に、BLM/DEIの前は皆(私も含めて)白人男性作曲家ばかりの演目に問題意識を感じない時代が何世紀も続いたという事実を隠蔽してしまう危険性すらあると思っています。しかし、彼女の申し出を受けた時に私は、自分自身が日本人作曲家のヴァイオリンとピアノの為の作品を全く知らない事に驚愕し、恥じ入ったのです。それで「日本人作曲家、ヴァイオリンとピアノ」とググったのです。そしたら筆頭に出てきたのが、これだったのです。

幸田延がウィーンに留学中、1894年にロバートフックスの師事の元書いたソナタ一番。

正直に言って(自分でも悔しいのですが)、びっくりしたのです。

これが幸田延?死ぬまで和装を好んだ1870年生まれの日本人女性が、こんなベートーヴェンの様な曲を書いた!?

年代を観ると70年ほど時代遅れの勘があるのは否めません。しかし、ドイツ古典の様式をきちんと踏まえて実にどっしりとした安定感のある良い曲だと思うのです。妥協の無い緻密さと安定感のあるソナタ形式。それぞれの楽器の特徴と長点を良く生かしている作曲。様式にきちんと沿いながら非常に好感度の高いメロディーと、時々見られる遊び心。

(…弾きたい…!)

更に。

幸田文は私は「台所の音」という短編にお腹の底から感じ入って以来、尊敬する文筆家なのに、幸田延が文の叔母であることは全く思いつかなかった。しかも、という事は、つまり延はこちらも歴史的文豪、文の父の幸田露伴の妹なのだ…!

これは、朗読と演奏でかなり面白いプログラムが出来るぞ…!

...と、云う訳で主催者・会場・共演者・出資者など全般的に募集中です。(日本後・英語、どちらででもお楽しみいただけるプログラムにするつもりです。)

ここに合わせて弾きたいと思っている曲は例えばクララ・シューマン(ロバート・シューマンの妻)の「3つのロマンス」。作曲は1853年の7月。1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港した黒船と全くのドンピシャ同時期に書かれたこの曲!

元々はヴァイオリンとピアノの為の小品集です。Duo MATIMAでご一緒しているクラリネット奏者の佐々木麻衣子さんと。マキコ...髪、長!

幸田延の生涯:年表

  • 1880年:開国後、欧米教育を取り入れようと、様々な分野の「雇われ外国人」招聘。音楽教育にはLuther Whiting Mason (1818ー1896)
  • 1881:延、メーソンにピアノを習い始める。まだピアノを購入も出来ない時代。
  • 1882:延、音楽取調掛に入学。
  • 1884年:延、卒業演奏にWeber「Invitation to a Dance」他。研究家に進学・同時に助手として初任給8円(約16万円)
  • 1889年:延、4月第1回文部省派遣留学生に任命される。音楽修業として満3年米国とドイツ留学(後にオーストリアに変更)を命じ、ヴァイオリン科を専修とある。
  • 1891年:延、ウィーンのKonservatorium der Gesellshaft der Musikfreundeに入学。KreislerやEnescoの教師、で音楽院院長の息子、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世に専攻のヴァイオリン学んだ他、副専攻のピアノはフレーデリク・ジンガーニ、そして和声・対位法・作曲をロバート・フックスに教授。ヴァイオリン・ソナタ1番は彼の師事の元作曲。
  • 1895年:延、帰国。東京音楽学校(現・東京芸大)ヴァイオリン教授に就任。
  • 1897年:延、ピアノ教授に就任。作曲・声楽も教える。1899年にドイツ留学した妹の幸が1903年に帰国以降はヴァイオリンは任せる。ピアノの弟子では久野久、ピアノと作曲の弟子に滝廉太郎、声楽の弟子に三浦環、など。
  • 1906年:延、日本高収入女性第二位(2,300円)。一位は下田歌子(宮中御用掛、家族女学校学監、実践女学校創立)
  • 1909年:東京音楽学校に辞表提出(メディアの誹謗中傷:三浦環スキャンダルなど)
    • 校長から辞表ではなく休職とされた13日後(9月25日)にドイツ客船で日本出港。ベルリンで合唱を学び、第9を歌い、山田耕筰の訪問を受ける。ウィーンで恩師ディトリヒと再会。パリやロンドンにも行く。
  • 1910年8月30日帰国。
    • 兄、大尉郡司成忠の購入した紀尾井町3番地に露伴が「審声会」と名付け、延の遂の住処。個人教授所を開き、母と同居
  • 1918年:別棟「洋々楽堂」建設。
    • 1922年日本初の国際的ピアニスト、Leopold Godowsky演奏
    • 1929年Leo Sirota
    • 1939年帰国後の安川加壽子
  • 1931年、東京音楽学校で功績氷床会。スタインウェイ贈呈。名誉挽回。
  • 1937年、音楽家として初めての帝国芸術院会員。
  • 参考文献
    • https://blog.goo.ne.jp/1971913/e/3339ed381f030fce8cd2a9c164f2460e(「私の半生」幸田延述)
    • http://pietro.music.coocan.jp/storia/koda_nobu_vita_opere.html
    • https://wan.or.jp/article/show/9570#gsc.tab=0
    • https://cosmusica.net/?p=13784

2 thoughts on “美笑日記2.8:音楽文学:幸田延・露伴・文”

  1. Pingback: The First Japanese Violinist/Pianist/Composer, Nobu Kōda (1870-1946) - "Dr. Pianist" Makiko Hirata DMA

  2. お疲れ様です。

    今回はとても興味深く読みました。
    幸田文さんんは、簡潔な文章が好きでした。
    幸田延の音楽は、全く知らなかったことから驚きでした。
    大谷康子さんは、BSテレ東「おんがく交差点」は、欠かさず視聴しています。
    伴奏の佐藤卓史さんは好きなピアニストで何かを感じます。
    小川久男

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