一昨日の夕方から昨日の深夜にかけて、マンハッタンで非常に盛りだくさんな一泊二日をして来た。忘れてしまうのには忍びないような、貴重な体験を沢山したので、反芻するつもりで書き出してみたいと思う。
まず一昨日、マンハッタンのイーストサイドのモダンな感じの教会で行われた、木管五重奏、Imani Windsによる演奏会に行ってきた。Imani Windsのオーボエ奏者とバスーン奏者は私の学部生時代の先輩で、共演したり、同じ音楽祭に一緒に参加したりした仲間である。彼らは5人とも黒人だ。クラシック音楽界において黒人はまだ少数だ。クラシックの世界そのものが、黒人社会や文化とは少し異質だ、と言う雰囲気も否めない。私も過去に住民が半数以上黒人の町で演奏会をした時に、聴衆は真っ白で、しかし演奏会後街中を歩くと黒人の方がずっと多くて、その落差が印象深かった思い出がある。ハーレム弦楽四重など、今は黒人メンバーから成る室内楽グループと言うのは他にもある(このハーレム弦楽四重のヴィオラ奏者は私の友達で、Youtubeでブラームスのソナタなどを共演しているミゲールです)が、Imani Windsはその先駆けで、今年で結成14年目になる。このグループのホルン奏者とフルート奏者は作曲家でも在り、彼らの人種的背景を面に出した曲の書いたり、委嘱したりしてプログラムに入れたり、また黒人やラテン系の子供が多い学校での出張演奏などの積極的な活動を通じて、かなり注目を浴びている。アルバムもすでに5枚収録しており、その一枚「The Classical Underground」(2006年)は、グラミー賞候補にも挙がっている。
プログラムの最初の二曲は「Afro Blues」と言うMongo Santamariaの作曲をこのグループのフルート奏者が編曲した曲と、ホルン奏者の作曲した「Homage to Duke(デューク・エリントンに敬意)」と言う、非常に人種アイデンティティーを意識した選曲だった。彼らはそれぞれ一人一人奏者としても技術的にも音楽的にも非常に上手く、アンサンブルとしての呼吸、音のブレンドも最高で、最近ピアノやピアノ曲ばかりを聴くことに偏っていた私の耳は飢えていたかのようにこの音を喜び勇んでむさぼった。が、しばらくして落ち着くと私の理性はこういう風に人種的ステレオタイプに甘んじて利用するのに抵抗を感じたりもした。その後の二曲は現代曲でも普通のクラシックが二曲。特にその二曲目のストラヴィンスキーの「春の祭典」を木管五重奏用にJonathan Russellが編曲した物は、技術的難度も高い、長くてスタミナも要する曲で「あっぱれ!」と言う感じで会場全体が拍手喝采で盛り上がった。しかし、私が泣いたのは最後に彼らが演奏したKlezmer Dancesである。日本でどれだけ浸透しているジャンルの音楽か知らないが、私自身が長いこと知らなかったので少し説明させて頂くと、クレズマーと言うのは東欧ユダヤ系の民族音楽である。彼らがクレズマーを、しかも私が聴く限りかなり正確にスタイルに乗っ取ったクレズマーを演奏し始めた時、私は涙がこぼれてしまった。黒人の彼らが少しアフリカ音楽やジャズの影響を作風に取り入れた曲を演奏することに抵抗を感じるのに、白人であれば19世紀の西洋音楽を演奏することを何の問題意識も無く容認する私、そして東洋人であり西洋音楽のピアニストで在る私は一体何なんだ!彼らの美しい、物悲しい、そしてノリノリのクレズマーに向かって、私は涙するしかなかった。そしてさらに私を感動させたのは、そういう問題意識を超越して彼らが実に楽しそうに、自由に、そして本当にお互いを気遣いながら、音楽を作り、会場全体に一体感を投影させたことである。ああいう風に楽しく演奏する、楽しいから音楽をする、と言う姿勢を何だか忘れていたのではないかと、自戒した。
彼らがプログラムのトリに敢えてクレズマーを起用した理由の一つには、聴衆の中にクレズマークラリネットでは今や第一人者であり、彼らの恩師でもある、David Krakauer が居たからでも在る。このDavid Krakauer は学部生時代の私の恩師でもある。非常にエネルギッシュで、純粋に情熱的なこの教授は、色々な生徒に積極的に目をかけ、応援してくれる熱血先生だ。私はまだ若干1年生だった時に、彼にメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」をコーチング頂いたのがきっかけで、私の色々な演奏会にありがたくも駆けつけて頂いたり、彼の生徒の伴奏にアルバイトとして起用して頂いたりしてお世話になり、卒業直後に、リサイタルでの共演と言う身に余る光栄を受けてから、何年か一度は共演して来た。私が彼と共演するのはブラームスのソナタなどの普通のクラシックだが、彼はなんと言ってもクレズマーで名前が通っているのでアンコールなどでクレズマーの伴奏も少しはする。そして私はそういうのが、本当に恥ずかしいほど、へたくそなのだ。自分でも、(どうして?)と思うくらい、ノリが悪い。何にせよ、私は彼と昨日の午後、久しぶりにお食事をして、積もる話を沢山交歓した。彼の情熱的生き方はその幼少時代の環境から形付けられている、と思う。彼の母はヴァイオリニストで、父は当時の伝説的ジャズ奏者の治療に多くあたり、ビリーホリデイとも交流のあった心理学者で、Davidはそのころからジャズ、クレズマー、クラシックと多様な音楽や文化に囲まれて育っている。その結果だと思うが、彼は今1940年代の黒人ジャズ奏者とユダヤ人クレズマー奏者の交流を描いた短編小説を手掛けていて、その背景となる、非常に興味深い話を沢山聴いた。主に、1920年代から60年代までの、ユダヤ人と黒人の抑圧された物同士の結束に関する話である。例えば、ビリーホリデイの有名な曲「奇妙な果実」と言う歌がある。
Southern trees bear strange fruit (南部の木になる奇妙な果実)
Blood on the leaves and blood at the root (葉には血、根には血)
Black bodies swinging in the southern breeze (黒い体を揺らす南部の風)
Strange fruit hanging from the poplar trees. (ポプラの木にぶらさがる奇妙な果実)
Pastoral scene of the gallant south (素敵な南部の田園風景)
The bulging eyes and the twisted mouth (飛び出した眼、歪んだ口)
Scent of magnolias sweet and fresh (木蓮の甘く新鮮な香りが)
Then the sudden smell of burning flesh. (突然肉の焼け焦げる臭いに変わる)
Here is a fruit for the crows to pluck (果実はカラスに突つかれ)
For the rain to gather for the wind to suck (風が吹かれる雨水がたまり)
For the sun to rot for the trees to drop (太陽に朽ちて 落ちていく)
Here is a strange and bitter crop. (奇妙で苦い果実)
一般に人種差別撲滅のための最初の歌、と言われている曲で、リンチ犠牲者の悲惨を歌っている。私はこの曲は知っていたつもりだったがこの曲の作詞者が黒人ではなく、Lewis Allenと言うユダヤ人であることはまったく知らなかった。それに、1920年代、30年代のハーレムでReefer Man(マリファナの供給者)として黒人社会や文化に完全に浸透していたMezMezrowと言うユダヤ人クラリネット奏者の話。彼は麻薬密売で捕まって刑務所に送られた時、敢えて黒人房に入ることを自ら希望したそうだ。さらに1920年代に、Sidney Bechetなどの黒人ジャズ奏者も参加したと言う、ユダヤ人と黒人の合同結束キャンプ。抑圧された少数派同士、助け合って人種差別に対抗する決意を表明する合宿だったらしい。私のまったく知らなかった世界に紹介された。世界が広がった。David Krakauerのまだ未完成の短編小説の朗読を聞かせてもらい、そのあとビリーホリデーや、テッド・ウィルソンや、ルイー・アームストロングの録音を次々に聞かせてもらい、私は身震いするほど触発されてしまった。ビリーホリデーはまるでしゃべる様に自然に歌う。ジャズを聴いている時、その楽器演奏の技術に耳を傾けない。音楽しか、聞こえない。それは私がジャズに疎いからだけではないからだと思う。奏者自身が、楽器の都合や演奏の難しさを意識していないから、では無いか。弾ける様に弾く、自然に弾く、音楽がしたいからする、楽しいからする、せざるを得ないから、する。
それからInternational Keyboard Institute and Fesitval(国際鍵盤楽器祭)に置いて、この夏ルービンスタイン国際コンクールと、チャイコフスキーコンクールと言う、巨大国際コンクール両方共に置いて優勝した、Danil Trifonovと言う20歳のピアノ・リサイタルを聴いた。International Keyboard Institute and Festival (略してIKIF)と言うのは、毎夏NYの3大音楽学校の一つ、マネスで2週間にわたって繰り広げられる、ピアノ一色の音楽祭である。参加者は毎日の様に世界各国から来た色々な先生にレッスンや公開レッスンを受け、また他の参加者のレッスンを聴講したりする。ピアノのレパートリーや、奏法、様式、有名なピアニストの録音の比較検討などの講義も毎日の様にある。しかし、すごいのはその演奏会の数である。毎日6時と8時半に2つピアノリサイタルがある。6時の方は最近コンクールに勝ったり、この頃話題沸騰中の、いわゆる若手であることが多い。8時半の方はもうちょっと、(またはかなり)ベテランのピアニストであることが多い。この演奏会シリーズには実に世界中の色々なところから沢山のピアニストが聞きに来る。ちょっと怖いくらいである。私は、心の準備も無く立ち止まって気軽に会話をしたり抱擁しあったりするのがちょっと苦手なので、お面の上にサングラスをかぶって、さらに泥棒のように手ぬぐいでほうかむりをして、それでもまだ行きたく無いくらいなのだが、少し前に私の学部時代の先輩がゴールドベルグを演奏したので聞きに行ったのと、今日の若手はあまりにも話題沸騰中で色々な人から「絶対に来い」と強く進められたので、友達の影に隠れて行った。
彼はスクリャービンのソナタ3番でリサイタルを始めた。彼が優れている最初の点は、第一音から明確に確固たる世界を提示することである。拍子も、リズム感も、方向性も、全てがあまりに明らかで、聞き手としては納得してその世界に素直に入り込まずには居られない。さらに若いコンクール優勝者にありがちな圧倒して聴衆を吹き飛ばす様な爆音や超絶テクニックを誇示するのでなく、音量も主張も控えめにこれをやってのけるので、聞き手としては彼の提示する世界に歩み寄っていかなければいけない。そして歩み寄っていった聴衆を(あ、気持ちいいな~)と思わせる雰囲気を彼はその音色と疑いの余地無く確固たるリズム感でかもし出す。さらにその世界に歩み行った聴衆は彼の明確なメロディーのラインをたどっていかずには居られなくなる。彼のメロディーはあまりにも自然、と言うか自然にかんじさせる説得力がある。聞き手としてはその彼の提示するメロディーを一緒に歌っている気持ちになるほどである。彼が対位法や、和声進行にどれほどの注意を意識的に払っているか分からないが、あまりにもメロディーに説得力があるので、そういうものはそれなりに収まってしまっている。
でも、私が手放しで褒めていると思ってもらってはいけない。彼はスクリャービンからチャイコフスキー、ショパン、と弾き進んだが、どれも同じ戦略なのである。いや、もとい、彼はこれを「戦略」とは絶対意識していない。その風貌と演奏と彼の年齢に基づいた私の勝手な独断と偏見を述べさせて頂くと、彼は物凄い文学青年か、音楽馬鹿かも知れない。私が言いたいのは、自分の持っている音楽性に対する絶対的没頭が、この確固たる音楽世界を一瞬にして設立してみせる、と言う事に繋がっているのではないか。だとしたら、これから色々な批評や、ツアーを通じて触れざるを得ない多様な世界感を通じて、この彼の絶対的な自己陶酔は揺らがざるを得ない。その時彼がどう反応して、苦しみ、成長するか、と言うのが彼の本当の音楽性の見せ所だと思う。
ま、私はちょっと悔しいのです。
ハハハ。
いやいや、見せてもらった君の技、ゴールドベルグに多いに応用させてもらうからね。