コロナ日記108:神のために弾くか、人のために弾くか

  • 感染者数増加の中、規制緩和の見直しが15の州で発表:アリゾナ、フロリダ、ジョージア、テネシー、テキサスなど
    • カリフォルニア州:この一週間で感染者数が45%増加。
      • ロサンジェルス群では10万人以上の感染者が確認される(今日の新感染者数:2903人)
      • ロサンジェルス群で今空いているICUベッドは200前後ー数週間で限界の見込み。
  • ブロードウェーミュージカルは今年いっぱいは開演しないと発表。
  • シルク・デュ・ソレイユ:破綻申請。
  • 全米のCovid-19犠牲者の43%(5万4千人)が高齢者施設関係者
今朝は小雨の中でカタツムリを見つけました。ちゃんと歌いました。♪で~んでんむ~しむしか~たつむり~♪

脳神経科学によると、音楽とノイズの違いは脳が音のパターンを認識できるか否かだそうです。

西洋クラシックとか、もっと一般的に「崇高」と言われる美学の問題は、このパターン認識が伝統音楽や「大衆」音楽に比べてより難解で、しかもわざと難解にしてある側面が在ることです。その理由は色々あると思います。

  • 西洋音楽の発祥はグレゴリア聖歌を布教のために書き留めるという概念。
    • 楽譜の発明で、作曲という行為が発展した。
      • 聞いて認識できないパターンでも、机上の空論として成立し得る。
    • 作曲家と奏者の分業が可能になった。
      • 演奏不可能な曲でも書ける。
    • 宗教音楽は畏怖の念を起こさせる目的もある。
      • 分からない物の有難みさ
  • チャレンジ精神・意欲・知的探求:
    • 作曲、奏法、聴力…すべての側面に於いての限界への挑戦。
  • 音楽の商業化:希少価値の必然
    • アマチュアや消費者とプロとの格差をつけるために必要なハードルの一つが難度。
    • もう一つが不可解要素:スター性、神秘性、複雑さなど。

私は音楽を世のため人のために役立つツールとして提唱したいと思っています。その為にはこの難解性をある程度解消しなければいけません。奏者としてこの難解性を解消するためにできることはいくつかあります。一つは演奏時に曲のパターンを明確化する解釈をする、ということです。もう一つは演奏前にパターンを説明する、ということです。同じ曲を同じ演奏会で2回以上弾く、ということもあり得るでしょう。最近ライブ配信で時々やっています。

この境地に至る前は、私は「芸術家」としてこの音楽の複雑性を追求し、自分にしかできない解釈というものを常に編み出さなければいけないと思っていました。私の性格やエゴも在ったとは思いますが、クラシックの教育や文化にそういう「崇高さ」を奨励する傾向も確かにありました。更に「パターンをハイライトしたり、解説を入れたりするのはマジックのトリックを明かすようなものだ」という人も、19世紀ロマン派の時代からありました。今でも沢山いるでしょう。

例えば、2001年に私が日本での演奏活動を始めた際、聴衆に向かって演目解説をした私に「蛇足だ。演奏会は儀式だ。ピアニストが喋ると雰囲気が壊れる」といった意見をお客様に頂きました。今では日本でも「ピアノトーク」などといって、奏者が聴衆に語り掛けることはずいぶんと普通になりましたが、当時はそうでも無かったのです。それに対して私が反論として発表とした文章「私が演奏会で喋る訳」を読み返して、基本的には私は今も昔も姿勢としては変わっていないのだと思います。

「奏者は偉大なる作曲家のお筆先であるべき」という考え方は、作曲家と奏者の分業が始まったころからありました。更に作曲を「知性」、演奏を「肉体性」とし、知性=神聖、肉体=動物的なので奏者は作曲家の奴隷という考え方は古代ギリシャからあります。だから、女性はピアニストに成る事は許されても、作曲や高等楽理を勉強する事は長い間音楽学校で許されていませんでした。(国によって違いますが、女性の作曲専攻が認められ始めたのは20世紀になってからです。今でも女性の作曲家は少ない。ちなみに指揮者も、教授も少ないです。)同じ理由で、有色人種の作曲家も今でも少ないです。だから私は、東洋人の女性ピアニストとして、敢えて喋りたいという気持ちが余計にあります。自分の見解を主張したいです。

パターンをハイライトした演奏をする、ということは神聖化されたものを分析してみせる、ということです。また、パターンがより明確化されている曲を選んで弾く、ということにもつながります。例えば音楽は言語的要素が多くあります。言語というのは決まり事を踏まえた人の間で初めてコミュニケーションのツールとして役に立ちます。ところが、クラシックに於いてこの決まり事が時々作曲家の個性や独創性の追求や、楽理の独り立ちで、人間の聴覚レヴェルを超える時があります。楽譜で読んで初めて「見える」けれど、絶対に聞こえないパターンと言うのが出てくるのです。こういう曲を「音楽」と呼べるのか?奏者として弾くべきなのか?

この前の段落で、現代曲を思った人は多いでしょう。でもバッハやベートーヴェンなどの作曲家についても実は同じことが言えたりします。この二人は全く違う理由でパターンを敢えて聞こえにくい複雑な作曲をしています。一言で言うとバッハは神のために書いたので人に理解されなくても良かったと言えると思います。ベートーヴェンの難解さの理由はより複雑なのですが彼が失聴作曲家であることの象徴的な意味合いは、難解を美学とするカント以降の哲学者たちに多いに利用されたと思います。

今、朝練のライブ配信でバッハのゴルトベルグ変奏曲を一曲ずつ分析して、声部別に弾いてから演奏する、ということをやっています。この曲は凄い!私はこの曲はもう10年弾いていますが、毎回そのすごさに圧倒されます。人間が書いたとは思えない。そして一般聴衆の認知のためには書かれていない。

バッハは今でこそ「西洋音楽の父」とか言われていますが、生前は息子の方がよほど有名でした。バッハの作風は当時としては少し時代遅れで、その技術は認められつつも当時は敬遠されるところが在ったように思われます。仕事に応募してもゲットできなかったり、補欠で繰り上がってゲットしたり、まあそう言う感じでした。そのバッハが何のために渾身を込めてこの大作を書いたのか…(不眠に苦しむ貴族のために書いたという逸話は事実無根です。)そして、一回聞いただけでは到底認知不可能な完璧さと壮大さというのは、サブリミナル効果でやはり何等かの影響を私たちに与えるのか…?

私は10年この曲を弾いてきて、まだ毎朝新しい深みを発見して仰天します。そして、それを分かち合いたいと突き動かされます。感動を分かち合いたいと思うーこれが一番の人間性ではないでしょうか?信仰深い人は他の人間とではなく、「神」と分かち合いたいと思うのでしょうか?バッハは寂しかったのでしょうか?それとも最高に幸せだったのでしょうか?

私は明日の朝、ライブ配信で第3変奏曲をお届けできることが今からとっても楽しみです。私は人のために弾きます。日本時間では6月30日(火)の夜10時からです。

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