演奏道中記10.6: インスタ、バズる(ちょっとだけ)

私はインスタは余りやっていません。コロナ禍でYouTubeは一時期かなり一生懸命やってユーチューバーにはなりましたが、それも今ではかなりご無沙汰しています。最近はライブで弾くことが増え、旅行もあったり、遠方の友人が訪ねて来たり...まあ、色々再開してお蔭様で楽しく忙しくしているのです。

そんな中、自分の練習の確認の為にスマホで撮った動画を思いつきで数カ月ぶりにインスタにあげたのです。それが、どういう訳かいきなり、桁違いの「いいね!」と視聴数が付き始めたのです。これです。

視聴数=4865。「いいね!」=189。...

比較検討の為に公開するとこのピアノバンのインスタ動画は視聴数=106。「いいね!」=34です。

勢いがつくと、アルゴリズムに誘い水の様な効果があって動画をあげて一週間経った今でも視聴数が増え、「いいね!」が付き、新規フォロワーが増えます。(微々たるものですが。)その中には、私のページの他の動画や写真を見て行ってくれる方もいらっしゃいます。その中の一人が、物凄いコメントをスペイン語で連発し始めたのです。こんな感じです。

丁度私自身が譜面台の音楽菩薩像たちに救いを見出している最中だったので、このコメントを読んだ時(こ、この人は私に「菩薩」を見出してしまっている...!)と思いました。

それで思ったのです。

菩薩というのはなるものではなく、周りに見出すものではないか…そして、隣人に菩薩を見出す時に実際には自分が(あるいは「も」)菩薩になるのではないか。菩薩というのは、一度成ったら未来永劫ずっと安泰な地位ではなく、誰でも瞬間的に成れるし、また一度菩薩になった後に人間や鬼に戻る事も可能な状態なのではないか。

「愛する」とか「許す」「恕する」という事は、その人が菩薩になるのと同じだけ鬼になる可能性がある事を認めて、でも菩薩になれる可能性を強く信じて願う事なのではないか。

でもどんな菩薩でも、「自分は菩薩である」という自意識を持った瞬間に菩薩でなくなる。「菩薩」になろうと努力する事はできるけれど「菩薩になった」と思ったら菩薩でなくなる。だから、菩薩になる近道は非常な苦労か集中をして無我の状態になる事で、その為の苦行や儀式や「(武や芸の)道」なのではないか。苦行や道中、自意識的には「般若」になった人達が、実は周りから菩薩として観られたりするのではないか。

1 thought on “演奏道中記10.6: インスタ、バズる(ちょっとだけ)”

  1. お疲れ様です。
    広がってきました世界に。
    時代は、インスタ。
    演奏は、入魂の一曲。
    となれば、感性は一緒。
    日を追って世界中に。
    小川久男

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