美笑日記2.13:音楽のバトンリレー(小澤征爾さんを偲んで)

私のお財布には33年前のボストン交響楽団のプログラムの一頁が小さく畳んで入っています。ジュリーアドで勉強していた私をアメリカに残して半年後に帰国する母が連れて行ってくれたタングルウッド音楽祭の思い出です。

あの日私のプログラムにサインをしてくれた小澤征爾が先週2月6日に他界しました。1959年2月に貨物船で渡欧し、同年9月に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第一位に輝いてから一世を風靡する「世界のオザワ」として名を轟かせ、音楽史に太字で名を遺したあっぱれな音楽人生でした。

交響楽団は軍隊に似ています。司令官が発砲しないように、指揮者も音を出しません。高台から戦況を見極め発令するためには戦士たちからの絶対的な信頼が必要です。当時のオケ奏者はみんな年配白人男性。それを敗戦国ニッポンから来たまだ20半ばのオザワが技術と音楽性とカリスマで統率し世界の檜舞台を総なめにしたことは、多様性が謳われる今どきの私たちには想像しがたい大事件だったのです。

そのオザワを育てて世界に送り出す土壌が戦後の日本にあったのも驚愕です。征爾の才能を感じた小澤家は横浜で譲り受けたピアノをリヤカーに縛り付け立川の自宅まで3日かけて運搬しています。音楽を通じて日本の復興と次世代教育に全力を尽くしたピアニスト豊増昇や指揮者齋藤秀雄も征爾の育成に必須でした。フランス政府給費留学生の試験に不合格となった征爾の渡欧費用を出資したフジテレビ初代社長や桐朋のPTAや富士重工などの「音楽を世界の共通語」と見極めた先見の明もまた「世界のオザワ」誕生に力を貸しました。

一方欧米側では人種や国籍の偏見よりも音楽愛を優先しオザワを拍手喝采で迎えた音楽界と観客がいます。そしてその延長線上に今日の私の音楽人生もある、と思うのです。1991年にプログラムにサインをしてもらってから18年後、私もタングルウッドに特待研究生として二年参加し、オザワホールでも何度も演奏しました。音楽万歳。

この記事の英訳はこちらでお読みいただけます。https://musicalmakiko.com/en/nikkan-san-the-way-of-the-pianist/3186 

このブログエントリーは日刊サンに隔週で連載中のコラム「ピアノの記事」のエントリー123(2月18日付発表)を基にしています。

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