NYの物凄さ

今年カーネギーホールはJapanNYCと題して、色々な日本と関係のあるプログラムを組んでいる。
その一環として、斎藤記念オーケストラがカーネギーホールで一週間に渡り色々なプログラムを演奏した。癌の闘病を続けている小澤征爾の指揮(体力の低下から、当初の予定を変更してプログラムの一番大きな曲だけを振り、他の曲は若い日本人の指揮者に振らせた)、内田光子や武満徹と言った日本を代表する日本人の出演と、目玉が多く、ニューヨークタイムズも二回に渡って写真入りの大きな批評を載せたが、私は行かなかった。私なりに大事な事をしていたからである。
斎藤記念オーケストラが小澤の指揮でブリテンの「戦争レクイエム」を演奏した土曜日、私は午後から一泊NYに居て、こう言う土曜日を過ごした。
2時~4時半 クローデ・フランクのレッスン(いきさつは前述、レッスンの内容については下記)
5時~7時   ジェフリー・スワン(私の恩師)とお茶と近況報告、音楽の話など、下記。
8時~9時半 クリスマス・パーティーでクリスマス・キャロル伴奏のアルバイト。
9時半     音楽仲間との集まり
クローデ・フランクは私にとって音楽の天使の様な人だ。このクリスマス・イブに85歳の誕生日を迎える。ここ何年間かに渡って痴呆が出て、イェール大学で教えている自分の生徒の演奏に興奮して「君は素晴らしい才能の持ち主だ!一体誰に師事しているんだね?」と、自分の生徒だと言う事を全く失念して聞いてしまったり、そういうエピソードは私も沢山目撃しているが、音楽に関しての話になると、物凄く鋭く、そしてベートーヴェンの後期のソナタなどをリュウマチで固まった手で奇跡の様に素晴らしい演奏をしたりする。私はゴールドベルグ変奏曲を今回持って行った。ゴールドベルグと言えば、繰り返しを全部省いても演奏に45分以上かかる長い、長い大曲である。この夏タングルウッドで師事した時よりもさらに身体が一回り小さくなってしまった様なフランク氏と再会して、私は正直、「この素晴らしい曲で音楽鑑賞して、気持ち良く成ってもらえればそれで良い」と思ったのである。ところがフランク氏は私にみっちり2時間半のレッスンをしてくれたのである。最後は私が疲れてしまい、しなくても良いミスを連発してしまった位である。でも、「こんな素晴らしい曲、午後じゅうでも聞いていたいよ!」と仰ってくれ、(これ以上弾かされたらどうしよう)と私はちょっと心配になった。
それでもやっぱり痴呆のサインはある。テーマのアリアを私は「ちょっと表現豊か過ぎるよ。特にこの大曲の一番始めのイントロとして、もう少し荘厳に(stately)弾いてみようよ。さあ、もう一回」と言われ、私がその方向で試みると「もう少し表現豊かに。心配しないで。表現豊か過ぎる、と言う事はあり得ないよ。」と言われたりする。そう言うことが何回か繰り返されて、私は私なりの彼の言葉を解釈して納得した。要するに、彼は構造や大きな方向性を無視して、瞬間瞬間の音楽や音そのもののきれいさに惑わされた小手先の表現を嫌い、しかし大きな構築と方向性をわきまえた上でなら、「表現豊か過ぎる、と言う事はあり得ない」と言っているのではないか。その方向で私が試み始めると、うっとりとした表情で「ビユーティフル!ビユーティフル!」と何回も繰り返してくれるので(本当に「ビ」と「ユ」を全く分けてゆっくり発音して気持ちを表現してくれる)、こちらも本当に嬉しくなってしまう。そう言う繰り返しが変奏曲毎に何回か繰り返され、私も段々色々つかめてきた頃、一度凄い目力でグッとみられて「今、君はバッハが描いた通りの方向性で弾いたよ。バッハの意図を実現したんだよ。分かった?忘れないで。今の感覚を覚えていてね。」と言われた。とても感動した。最後に「君はとても良く練習したね。とても律儀な演奏だ。でも、どちらかと言うと律儀過ぎるよ。微妙な自由、と言うのはいつも必要だ。」と言われた。肝に銘じようと思う。
ジェフリー・スワンは私にとって、全能のゼウスの様な人だ。若いころは主な国際ピアノコンクールの賞を総なめにして鳴らしたのに、ワーグナー研究の権威でもあり、文学、絵画、歴史一般、どんな分野に関しても恐ろしいほど造型が深く、おまけに中国語、イタリア語、ドイツ語、イスラエル語、そして多分他にも数国語喋れるのである。
私はNYに来る時はレッスンをしてもらう時もあるが、ただお茶を頂きに来る時もある。そうして一緒におしゃべりをさせてもらっているだけで、何だか講義をいくつも聞いた様な感じがするのだ。彼は凄い早口で、話題もくるくる変わる。昨日も私の学校生活に関しての質問に始まってヒューストン一般に関する彼自身の意見、彼が音楽監督を務めるイタリアの音楽祭の話、音楽界での政治の話、私の指揮の訓練と指揮に関する彼の一般の見識について、など忙しく色々なトピックをカヴァーした後、私のLibrary of Congressの話、さらにライス大学が創立された1912年と言う年自体の話になった。この頃、「芸術や、芸術運動は、歴史の一大イヴェントを前もって反映する傾向が在る」と言う見解が発表され、話題になっている。1912年と言えば、第一次大戦の直前だ。その視点から見ると、例えばストラヴィンスキーの「春の祭典」(春が無事に到着するよう毎年行われる乙女をいけにえにする原始ロシアの(架空の)儀式をバレーにした作品)の初演が1913年、ショーンベルグの悪夢の様な「月夜のピエロ」が作曲されたのが1912年、他にも絵画でのフォーヴィズム、表現主義、そして文学と、全てが確かにそう言われてみると、破壊的なのである。「そして戦後、何が起こると思う!? 古典主義だよ!」ジェフリー・スワンは目をキラキラさせている。心底、歴史・人類・芸術の不思議に感じ言っている感じだ。本当に楽しそう。こう言う時私は、こう言う先生、先輩、音楽家に成長したいなあ、と思うのである。
その後、アルバイトに直行した。恥も外聞も無く、「アルバイトが在ったら、回して!!」とNYに来る前からあらゆる機会に宣伝していた効果が在って、昨日の夜急に飛び込んできた話である。クリスマス・キャロルを一時間初見で伴奏と言うアルバイトで、もっと若いころは(音楽の安売りはしない)とか言ったかもしれないが、はっきり言って「腹が減っては戦は出来ぬ」なのである。しかもクリスマスのせいか、それとも余りにも土壇場のせいか、報酬も割が良い上に「早めに来て、是非ご馳走を食べてください。パーティーですから沢山ご馳走が出ます」と、何とも嬉しいオファーなのである。住所も5番街の超高級アパート。アパートの間取りが見れるだけでも嬉しい!着いたらば、子供が一人一人並ばされて、歌を歌ったり、ヴァイオリンで「きらきら星」を弾いたり、それを親が目がとろけるような感じで見守る、と言うパーティーだった。アメリカ在住がもう長い、韓国系のアッパークラスの家族が10くらい集まったパーティーといった感じ。ご馳走が凄かった。寿司、キャヴィア、大きなしゃけの切り身、韓国の焼き肉、山菜のたっぷり入った韓国系混ぜご飯。私は宴たけなわで、皆のお腹がくちくなった頃に着いたのだが、それでもご馳走の90%がまだ手つかず、と言う感じで、本当に大量のご馳走なのである。本当に幸せを絵に描いたよう無パーティーで、子供は無邪気に歌い、次のクリスマス・キャロルを選ぶのにキャーキャーと大はしゃぎで一生懸命で、その横でお母さんの一人がそっと目じりをぬぐう、と言う様な、私も幸せのおすそわけをもらった様なパーティ―だった。
そしてアルバイトが無事終わり、何とただの一期一会のアルバイトの私の為にわざわざ用意してくださっていたクリスマス・プレゼントまで頂いて、友達との会合に向かう地下鉄での事。インド系(に見えた)女性が実に疲れた感じで段ボールを敷いて、駅の隅にうずくまっている。その前には「失業中。助けてください」と書かれたサインが。ホームレスを地下鉄の駅で見かけるのは、珍しくない。特に冬は、外はマイナスの厳寒。地下鉄のホームなら少しは寒さがしのげるのである。こう言う物乞いには詐欺も多いし、実は悔しい位の稼ぎが在ると言う噂も流れていて、私は滅多に足を止めない。ところがこの女性は腕に2歳くらいのぐったりと熟睡した女の子を抱えていたのである。こう言う物乞いの稼ぎがイカに多くても、私がどんなに貪欲でずるい詐欺でも、寒い地下鉄のプラットフォームに子供を抱えて夜の10時に座るだろうか?私がおすそわけにあずかった20分前のパーティーの幸せが目の前にちらつく。この落差は何なんだろう。もうすぐクリスマスなのに。。。始めは衝動で、今さっきもらった報酬の半分を上げようかと思ったが、色々考えて、結局2ドル「Happy Holidays」と言って渡した。お母さんは、こちらが救われる様な、割と明るい目で見返して、「thank you」と言ってくれた。何だか免罪符を買った様な、後ろめたい気がしないでもなかったが、他に私に何ができるだろう。これからもう少し考える。

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