「私は4歳の時から兎に角音楽に夢中なの。コロナとか、生演奏ができないとか、そんなことは関係ないの。朝起きるともう音楽のアイディアで頭がいっぱいで書かずには居られない。私は音楽が無かったら気が狂うと思う。そして音楽以外にしたいことも、出来ることも無いの。そしてこれから3年間はもうすでに委嘱作品の契約があるから...コロナになって演奏とかリハーサルとかで一々旅行しなくなった分作曲の時間ができてちょっと嬉しい。」
この前、作曲家のアウガスタ・リード・トーマスと電話で話した時にそう言われ、ちょっと羨ましかった。う~ん、そういう風に迷う余裕もなくまっしぐらな音楽人生も良いなあ。私も彼女の様に超売れっ子だったらそう言う感じで練習しているのかなあ。「私は2歳半の時からピアノ弾いてるの...」とか言って。
でも、数日経った今、私がせずには居られないのは書くと言う行為かも、と思っている。起きたら「何をどう表現しよう」と脳みそが忙しく考えている。例えばストーカーに殺されるかと思った時も、あからさまなセクハラにあった時も、演奏旅行中や、舞台恐怖症でボロボロの時も「これは私の本の面白い逸話になる!」と思っている自分が常にいたことを否めない。(そうやって自分を励ましていたのかな?)そして今書くことに突き動かされている理由の一つは「いつか書く」とずっと思って色々乗り越えてきた過去の自分のためでもある。そして書くことによって、過去を片付けられる気がする。
でも、私に書く力を与えてくれるのはやっぱり音楽だ。私には演奏と執筆のバランスが必要だ。今日は書き続け、ペースダウンして居る自分に気が付くとバッハを弾き、元気が戻ったらまた書き、というのを繰り返した、大変幸せな一日だった。
「書く」と簡略化して言っているが、その中にはリサーチも含まれる。今日は実に4冊の本を読んだ。一冊は最初から最後まで読み、後の3冊は部分的に読んだだけだけど。プロポーザルに、自分が書こうとしている本に似た例にどんな本があるか、これらの本の売り上げと評価がどうだったか、自分の本はこれらの本とどこがどのように違って、どういう市場価値があるのか、述べなければいけない。
そして分かったのだけれど、2冊、私が書こうとしているのと趣旨が非常に似た本がすでに出ている。私は「音楽の効用の研究が進んできているが、一般庶民がその研究結果をどのように日常生活に取り入れたらその恩恵を被れるのかというのかと言うノーハウが欠如している」という論点で売ろうと思っていた。しかし、まさにそういう本が2冊。2冊とも白人女性の音楽療法士によって書かれている。一人は打楽器を持って難民キャンプや戦闘地域を回って、トラウマを受けた人たちと一緒にドラミングをするという活動をやっている人。DNAというのは、トラウマやストレスで変わる。それを音楽が元の状態に戻す事が出来る。その科学的説明と、実際の行為と結果の逸話。もう一人は自分の音楽療法士としての経験を基に、自閉症や学習障害・発達障害を持つ子たちの子育てにどのように音楽を起用できるか、という本を書いている。これも科学的根拠と逸話をきちんと整理してまとめてある。勿論、私はピアノの練習を演奏とか上達のためではなく、精神衛生と自己啓発と生活の質向上のための手段としてやる、その時にどうやったら一番効果的かと言うことを書いているので、表面的には違うけれど、根本的なところは同じ。問題は、この2冊の本が余り大きく話題になっていないらしい、と言うこと。私には2冊とも素晴らしい本に思えるのだが。今の私が書ける本より多分質が高い...認めるのは悔しいけれど。それなのになぜ売れないんだ?この2冊が売れなかったら、私の本はどうなるんだ?私はやはり、元の手記を書くべきなのか?
同志がいることを喜ぶ一方、彼らが余り高い評価を得ていない事に納得がいかない。売れるってなんだ?世論ってなんだ?
お疲れ様です。
本の出版することは凡庸な一般市民が対象ですか?
音楽療法士が対象ですか?
音楽家が対象ですか?
あれやこれやで、虻蜂取らず。
売れる本は、一般市民が買える本です。
理屈やお説教ははいりません。
ピアニスト平田真希子の赤裸々に描くことで本が売れると思います。
たとえば、レイプされそうになったときこんな曲のイメージだったとか。
小川久男
時々お孫さんもお読みくださっているというこのブログへのコメントで
敢えてそういう発言をなさって、私に読者の多様性についてやんわりと警告してくださっている小川さん。
何という犠牲的精神。
小川さんはきっと利他主義の、無視無欲の素晴らしい方なのですね。
ありがとうございます。