演奏道中記1.22:収録を経てバラ色の夕方

今日の収録は教会で行われました。毎週水曜日の正午から30分、入場無料で生演奏を提供するシリーズ。もう何十年も続いています。パンデミックの前は近所の住民や、近くのオフィスで働いている人がお昼休みに立ち寄ったり、高齢者施設などからバスで沢山の住民が参加してくれて、いつもにぎわっていました。「もう何年も毎週来ている」という人もいました。パンデミックになってからはオンライン配信に切り替わりました。

この教会のピアノはヤマハのセミコンです。長年使いこまれた結果でしょう。ハンマーのフェルトがすり減っています。その結果、音が非常に硬く陰影が付けにくいのと、ペダルでニュアンスを付けようとゆっくり上げ下げをすると、薄く固まってしまったフェルトが弦と摩擦を起こし金属音の様な音を立ててしまったり、変な鳴り方をしてしまったりすることがあります。更に、聖堂にありがちないつまでも続く残響はないのですが、普通の演奏会場に比べると残響が長い。

このシリーズはオンライン配信に移行してからは毎月一回、収録の日を土曜日に設け、一か月分の演奏会の収録を一日で行います。一つの演目に与えられる時間は90分。その内最初の30分は奏者のウォームアップと同時にカメラや録音の調整に充てられています。カメラは4台。固定カメラですが、ズームや角度がかなり自由にコントロール室から操れる優れものです。手や顔のクロースアップも撮られますし、会場全体から遠くにピアノを入れるロングショットも撮れます。30分で音響とピアノの調子を確認し、冷たい手を何とか弾けるところまで暖め、更に会場のスタッフと挨拶をしたり、必要事項の会話をしたりします。中々忙しい。30分はあっという間です。

そしていよいよ本番。「生演奏だと思って弾いて下さい。壇上を横切ってピアノの前でお辞儀をし、座ってから一曲目から演目を全て通して弾いてください。曲と曲の間には20秒から30秒の間を空けて下さい。この合間に、次の曲の題名やあなたの名前のテロップが入ります。最後の曲を弾き終わったら、ピアノから立ってお辞儀をし、壇上を横切ってまた袖に入ってください。」

録音ブースに居る技師さんと係の人以外は、全く空っぽの教会に向かってお辞儀をするのはちょっと滑稽な気持ちです。笑いたい気持ちなのですが、同時に心臓の鼓動が早まっている事を意外に感じ、気持ちを引き締めます。(完璧さではなく、正直な表現を目指そう...)自分に言い聞かせて、呼吸を整え、最初の一音を解き放ちます。会場に音が広がっていくのはやはり何とも言えない素晴らしさです。自分を開け放って、世界に物申す感じです。今日収録するの演目はショパンの「別れの曲」やバッハのカンタータをペトリがピアノ独奏用に編曲した「羊は安らかに草を食み」などの有名処の合間に、モンポ―やトッホの知らざれる名曲を挟んだプログラムです。

3曲目4曲目と弾き進む内に心臓は平常になり、私は音響と音楽に高じてきます。(気持ち良い...!)フェルトのすり減ったハンマーでも、教会の幅広い音響を活かして遊べるようになってきます。(もっと弾きたい!!)

全曲弾き終え、お辞儀をして退場します。スタッフが拍手をしてくれます。「美しかった。なんて繊細な弾き手なんだ。素晴らしい!」録音技師が手放しで興奮して褒めてくれます。「申し訳ないが、教会の外の工事の音が入ってしまった。数曲弾き直してもらうことは可能だろうか。」...こちらとしても願ったり!

(私はやっぱりピアニストだ。演奏する事が生き甲斐なんだ。これは何にも代えられない。)

興奮状態は帰宅しても続きます。野の君は新学期がオミクロンの為に色々七転八倒していて非常に忙しいのだけれど、遠慮気味に「食料の買い出しに一緒に行こうか?忙しかったら一人で行っても良いのだけれど...」と誘ってみます。「いいよ~。」野の君は滅多の事では私にノーと言いません。いつもの懐の深さでにこにこ快諾してくれます。道中今日の収録の事、演奏する事が自分にとっていかに大事か、これからの抱負など、色々野の君に聞いてもらいます。生きている実感がふつふつとあふれ出る様な気持ちです。

帰り道の夕焼けも相まって、世界がバラ色に感じました。

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