音楽と雑音の違いは何でしょう?
脳神経科学的に言うと、音楽と雑音の違いは脳がパターンを認識できるか否か、だそうです。 .(私も最近知りました。)
じゃあ、これは音楽?ノイズ?
今挑戦している、ジョリヴェの「リノスの歌」と言う曲です。4月上旬に演奏予定です。ジョリヴェは超困難、と言うのは巷の評判です。「何度練習中に楽譜を床にたたきつけたことか…」と告白したのは、私の同僚のピアニスト。普段は優雅でおっとり。その彼女までを怒り狂わせるジョリヴェ。
何が譜読みを難しくさせるのか。大きく分けて二つあります。①技術的に弾くのが難しい(例えば非常に速いとか、跳躍が続く、など)②パターン認識が難しい。ジョリヴェは②です。技術的にも難しいのですが(手にはまらない)、今日のブログでは②の問題に集中しましょう。
楽譜を読みながら何度も何度も繰り返して練習しているピアニストですらパターン認識が難しい曲は、聴衆に一回聞いただけでパターンを認識して音楽として楽しんでもらうのは不可能なのでは?それでは私が今この曲を練習している意義は何なのだろう?...そんな邪念が浮かんでくるので、ますます譜読みが遅遅として進みません。 (楽譜の中になんとかパターンを見つけて、出来るだけ短時間で効率よくジョリヴェの譜読みをやっつけよう!) と、焦れば焦るほど、空回りしてむなしく時間だけ過ぎていきます。
...ところが、そこでハッと思い当たったのです。
現代音楽とか、現代アートと言うのは、既存の常識や固定観念を破壊することで、新しい世界観・感覚・意思疎通を試みる、と言うのがその存在意義の一つです。現実をパターン化する事で安心する脳みそに、敢えて抗うんですね。そうしたくなるモチベーションはどこから来るのか?向上心?野心?アーティストのエゴ?出どころは全て「心」の様な気がします。
「脳みそ」 vs. 「心」
ジョリヴェさんがこの音の組み合わせでしか表現できないと思ったものはなんだったのか?そこに「美」を見つけてみよう。そう思って練習を再開。すると全く違う音楽体験が生まれてきたのです。
「パターンを解する」のではなく、「パターンを見出す」、そしてジョリヴェの書いた楽譜の上に自分の音楽を「創り出す」。「仕事」ではなく、「芸術」ー 「創造の過程」。
既存のパターンに全てをはめ込もうとする、と言うことは例えば個人をステレオタイプに無理やりはめ込む、と言う心無さにつながります。効率化は、ある程度は必要です。日常行為の全てを毎回「芸術=創造の過程」と捉えていたら、何にも進まなくなってしまう。でも、逆に全てを効率化しようとすると、そこには心無さが出てきてしまう。Diversity and Inclusionの新しい価値観の現代、柔軟な世界観には、現代アートのチャレンジが必要なのでは?
あくまでバランス。
練習してると、色々な事を考えます。