演奏道中記5.5:目標の明確化でスイッチオン!

本番まで後七日。

人生に何度か凄いプレッシャーのかかる中で、底力を発揮できた思い出がある。

例えば修士の時の歴史の試験。直前まで一時帰国していて全然勉強が出来ていなかった。成田空港までの電車の中で教科書をおっぴろげて必死の勉強を始めた。飛行中も兎に角、一睡もせずに一心不乱で勉強した。客室乗務員の方が「大変ですね。頑張って。」と声をかけて下さったのを覚えている。試験範囲は広大。そしてまだ英語のコンプレックスで苦しんでいた頃、エッセー問題が沢山でる試験は本当に不安で焦燥感があった。でも試験はあっけないほど簡単に感じ、合格できた。自信に繋がる思い出だ。

演奏でも似たような思い出がある。落ち込むほどの失敗をしてしまった演奏の直後、パリで演奏の約束が在った。同じ演目。しかも主催者からはこの演奏会の成功次第ではこれからもお仕事を頂けるというお話し。プレッシャーの多い正念場だった。パリに着いてからの練習場所は演奏前日の一日のみ12時間。私はその日、約束の朝9時から夜9時まで、それまでしたことが無いような死に物狂いの練習をした。練習の課題の優先順位と大まかな時間割を予め作り、休憩時に考えたりやったりすることまで書き出して、練習当日はその予定表を集中してこなす事以外は何も考えずに無心で練習した。ほぼ日光の差し込まない半地下の練習室から、お昼のサンドウィッチを買いに一瞬外出した時に街並みが本当に美しく感じたのを今でもありありと思い出す。演奏は大成功だった。主催者自らがアンコールをねだってくださった。友人が「一音目から空気が変わった」と嬉しい事を言ってくれた。自分でも成功の度合いにびっくりした。

もっと長い期間頑張り続けたのは、博士課程の筆記・口頭試験、Comprehensive Examの為に勉強をした半年間。練習は一日一時間と決めた。この時は、自分の知能を最大発揮するため、ガムを噛み、ミントのエッセンシャルオイルを嗅ぎ、ひまわりの種や青魚など、脳に良いと言われる食品を毎日食べ続け、朝から晩まで勉強した。運動は必要だと思ったので、覚える事項を自分の声で録音した物を聴きながら毎朝で散歩した。ちなみにこの録音は歯磨き中も、日課のサラダを料理中も聞いて居た。それ以外は全て勉強に充てた。この時も試験を受けるまでは、本当に合格できるか不安だったが、受けて見たら意外と簡単に感じた。ピアノ史の試験官からは「自分の記憶する限り学校の歴史上最高の出来」と褒めて頂けた。

その他にも、(自分にこんな底力があったのか!)とびっくりした事は何度かある。文字通り寝食を忘れた博士論文執筆のラストスパート。ストーカーの刑事責任追及の時、証拠を揃えるために自分で行った過去の被害者の被害捜査や時系列作り。一週間で仕上げたラフマニノフのピアノとチェロの為のソナタ...

一週間後に迫った今回の演奏会も、こういう風に没頭して打ち込み、底力を発揮したい。でも中々それが難しいのは、明確な目標が無いからだ、と今朝気が付いた。試験に受かる。ストーカーの違法行為の証拠を揃える。論文を書き上げる。これらは全て明確な目標だ。更に、パリの演奏会前日の12時間練習について言えば、舞台恐怖症にさいなまされていた当時の練習の目標は、兎に角「忘れない」「(暗譜忘れに繋がり得る)ミスをしない」「恐怖に負けて手を止めない」と言った、今よりもずっと具体的な目標だった。緊張はもう全くしないと言えばウソになるが、当時の様な身体のコントロールが効かなくなるような恐怖心はないし、小さなミスにびびって演奏全体が崩壊する、というようなことも今はない。

じゃあ、私は一週間後に迫った演奏で、そしてもっと一般的に演奏家人生をもって、何を成し遂げたいのか。

この自問自答のきっかけは一昨日の高齢者施設で行った予行練習も兼ねた演奏の動画を復習し、熟考した結果である。この日の演奏はまだ暗譜が不安な所もあり、ミスも多く、いわゆるクラシック文化の減点法では合格点は取れない演奏だった。でも意図せずにして、この動画はお客さんの反応がありありと分かるカメラアングルで撮影されていて、お客さんが実に楽しそうに聴いて下さっているのがよくわかるのである。派手な終わりで歓声が上がるのは勿論、演奏中にちょっと微笑んだり、足や頭ででリズムをとったり、頷いたり肩をすくめたり、笑ったりため息をついたり、お客さんが実に表情豊かなのだ。これを成功と言わずして、何を成功と言おうか。クラシックの完璧主義は正当化できるのか。

なぜ一週間後の演奏会を私がここまで特別扱いするのか。それはこの演奏会の主催者が私の卒業校である、コルバーン音楽学校だからだ。コルバーンは2003年に開校した音楽学校。プロの音楽家を育成するコンサーヴァトリー部門は120人の音楽学生に学費は勿論食事も付いた全寮制を全部無料で提供する、米国では唯一の全面教育費・生活費援助の音楽学校。NPOとして経営されるこの学校の寄付者にはそうそうたる財閥者たちが名を連ね、国際コンクール優勝などとは別に、そういう財閥者の支援を得て大成していく卒業生もいる。でもその校風はバリバリ硬派の保守的クラシックで、それこそ完璧主義の厳しい物だ。期末演奏試験の結果が悪くて退学処分になる生徒を私は在学中(2006~2010)何人も見て来た。寝食を共にする学生たちの非常に小さなコミュニティーの中で、時には10代の学部生に対して、それは酷な仕打ちに思える。

そういう校風の学校主催の演奏会。しかも学校はこれを「卒業生同窓イベント」として、教授陣と今までの卒業生全てにコンサート前のお食事と、タクシーのクーポンまでつけて招待しているのだ。(なぜ自分ではなくマキコがこの演奏会を弾いているのか...)と思っているかも知れない相手に向かって弾くわけである。あんまり嬉しくない状況である。願わくばその私の苦しい立場に同情して応援して欲しいものなのだが、戦国時代のように口と腹とは別物なのが競争の激しい音楽業界。そして皆やっぱり大舞台の中央で弾きたいのである。

なんで、私はーこの平田真希子はーそんな苦しい思いをしてまで弾きたいのか。

クラシック奏者は大抵幼児期にレッスンと練習を開始し、親や先生の調教を受けて音楽家として成長していく。良い演奏や必死の練習はだから、求愛に繋がりやすいのだ。考えてみれば当たり前のその事に、私は今回の高齢者施設での演奏動画を見て感じ入った。この一般論が私自身にも当てはまっている今更ながら目の当たりにしたからだ。

動画を見直すと、私は内心『鬼滅の刃:遊郭編』状態(満身創痍の絶体絶命を自己暗示だけで乗り切る)の箇所はミスはあっても着実に淡々と弾きこなしている。意外ではあるが、音楽的に悪くないのである。
逆にミスや暗譜忘れを心配していない時、私はやたらとアピールをし過ぎている。(ここは溜めて...)(ここは慟哭しているように...)「私はこんなに表現しています!」アピールが鼻に付く。やたらと力がコモっているのだ。
なぜそこまで過分に気張る、マキコ?何故だ?何故...?

...そして、私は気が付いてしまった。私が弾きたいのは、自己顕示欲ゆえだ...高齢者施設で自分に許したミスを一週間後のコルバーン主催の大舞台でしたくない理由はただ一つ。皆に認めてもらいたいからだ。つまるところ、私はただ単にママに褒めてもらいたい5歳児と同じである。...恥ずかしい。「こんなに頑張っているのだから、愛して。」まあ、人間究極的には皆同じなのかもしれないが、これでは来週の演奏会は苦しくなるだけだ。だって「私を認めて」「私を愛して」は終わりのないブラックホールなのだから。

これが、いわゆる「邪心」なのか...

私は、ピアノ弾きならぬ音楽家、そして人類主義者として、もっと大きなことを目指せるはずだ。そしてそこにはミスをしようがしまいが、コルバーンに認めてもらおうがもらえまいが、そんな事はどうでも良いはずなのだ。コルバーンのクラシックに聴きなれた限られた客層にウケルより、ピアノバンや高齢者施設での成功の方がよほど意義が在ったかも知れないのだ。

そして結局コルバーンはそういう私の目指すところを評価したから、今回の演奏会に抜擢してくれたのではないのか。更に来週の演目はバッハ・ベートーヴェン・ショパン・ドビュッシーと言った、いわゆる伝統的クラシックの演奏会とはかなり違う。トッホという余り耳馴染のない作曲家の音楽と人生をお孫さんとの対話を通じて検証し、更にそれを膨らませて戦争避難民や人権問題・表現の自由など、現在の世界情勢問題にも通じる話しの糸口として提供するのだから。音楽は、その問題提起を知性から感性へと移行させるための手段として提供する。だから大事なのは、私の「私はこんなに頑張ってる」アピールではない。私が音をミスしようがしまいが、演奏が評価されようがされまいが、そんな事はどうでも良い。音楽家として何ができるのか、私は試行錯誤をしている。皆も一緒に考えよう。力を合わせてこれからのチャレンジに一緒に立ち向かっていこう。音楽仲間なんだから。世界市民なんだから。

その為の演奏。

これからの一週間は、私は邪念を払い、腹をくくって大きく構えるために体調管理と瞑想とそして地道な練習と広報活動を着実にこなします。なにも非常事態のスパートをかける事無し。私は今までの音楽家人生で演奏は何千とこなして来た。これはただ単にその一つ。大した事ない。日常生活を続け、精進するだけ。

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