私の妹は演劇専修と言うのを大学で専攻した演劇のエキスパートである。
卒業後、某劇団の舞台進行を腕まくりしながら(かな?)筋肉もりもりで担当していたこともある私の自慢の妹である。 そんな縁で芝居の招待券が時々手に入る。 昨日は妹がプレゼントしてくれたミュージカル「マリー・アントワネット」の招待券を手に母と二人でデートをしてきた。
昔の私の愛読書でもあった遠藤周作の筋の入り組んだ大変複雑な歴史小説(単行本にして上下二巻)を3時間のミュージカルにしようと言うのはかなりの野望、と半信半疑のヒヤカシ・野次馬精神で望んだのだが、私は不覚にも2度も泣いてしまった。 涙を拭くと母にばれて恥ずかしいので、ほって置いたら肌がひりひりしてしまった。
何しろミュージカルと言うのは(オペラもそうだが)歌に入ると、とりあえずストーリー進行を放棄して「私は今、大変悲しい!どうか皆さん、私の苦しみを分かち合って、私と一緒に泣いてくださーい!」と延々と歌うのだ。 歌い手は一生懸命だし、オーケストラもビュンビュン鳴るし、もうこれだけのエネルギーと時間をかけて「泣いてもらいましょう!」と頑張られると、素直な私はすぐ涙してしまう。 そして、やはり皆うまい。 有名な涼風真世さんもうまかったが、新人(なのかな!?)の新妻聖子さんがすごく声が綺麗で芝居がうまかった。
しかし涼風真世さんはマリー・アントワネット役で毎日劇進行上(二回公演の日は日に二度)どんどん落ちぶれて、最後にギロチンで殺されるのだ。このミュージカルは179公演目といっていた。 これは大変! 毎日ちゃんと寝付けるのだろうか。 寝つけても夢見が悪そう...人事ながら心配していたら、ショーの後のトークイベントで「ギロチンがスローモーションで下がってくる間ずっと何を考えているのか」と言うインタビュー者の質問にこんな風に答えていた。 「マリーは、願わくばきっと綺麗な空を最後に見て死んだのでは…と」。
そうなのです! 演じる側にはある程度演じる対象と自分の間に距離が必要なのだ。 何のコントロールも無く感情移入しっぱなしで役者が舞台の上で手放しでワンワン泣いてしまったら話しは進行しないし、観客はしらけてしまう。 涼風真世さんは自分を守る為にも、演技を一番効果的にこなす為にも、マリーになりきってしまってはいけないのだ。 マリーはマリー、自分は自分なのです。 私だってベートーヴェンはベートーヴェン、私は平田真希子だ。 感情だけに自分をゆだねてしまったらミスタッチが多くなる。
でも、このバランスが本当に微妙なのです! この感情移入と距離間の適当なバランスを演奏会で達成するために、練習の段階では色々なことをする。 勿論音を一つ一つ学んで行ったり、ゆっくりさらったり、構築を頭に叩き込んだりする、技術的なプロセスと言うのも踏みます。
が、それに対して、弾き込んでいく段階では感情探索と言うか、自分が曲をどう感じるか、どういう感情をこの曲を通じてコミュニケートしたいと思っているか弾きながらイメージを広げていく、と言うこともする。 ここで私はしばしば泣いている。 大抵は弾き続けながら、涙を静かに流すのだが、一、二回本当に悲しかった時は弾くことを止めて、部屋の隅まで歩いていって「オーン、オーン」と声を上げて、体育座りで泣いた。 勿論、弾きながら「ひゃひゃひゃ」と笑うことも有るし、感情つのって「うおーーー」とほえることもある。
一度、学校の練習室でそうやってほえていたら警備員の人が「練習がうまくいかないのかい?」とチェックしに来た(実はこうやってほえているときは練習はのりのりなのである)。同じ夜、やはり私のうなり声を聞きとがめた友達が「トントントン(ノックの音)大丈夫?」と聞きに来た。この子は私がひそかにちょっと可愛いと思っている男の子だったので、大変恥ずかしかった。
この子もピアニストなのだが、この子はほえないのだろうか?この子は控えめなので、きっとほえないのだろう。もしかして練習中ほえるのは私だけなのだろうか?(ちょっと心配)
ちなみに今回(2007年夏)のプログラムの準備中、泣いたのはリストの演奏会用練習曲の2番、雄叫びを上げ続けたのは「熱情」、笑ったのはリストの一番とドビュッシーとモーツァルト、などです。 まあ、これも一般的な話で、日や練習法によっても私の反応もそれぞれですが。
そして勿論、演奏中には私は雄叫びなんか上げていません…多分。