• 今週の日曜日は5周年を祝う横須賀芸術劇場のピアノの祭典 『スカぴあ』が開催されます!! スカぴあがいかに素晴らしいか、今週は色々考察。 「スポーツマンシップ」と言葉の定義をインターネットで検索すると 「運動選手になくてはならない正々堂々と勝負を争う精神・態度」 と、出てくる。(http://www.jlogos.com/d001/705140110.html) それに対して「ミュージシャンシップ」と引いても、日本語では出てこない。 英語の場合、これは「音楽を演奏するための知識、技術、感受性」 と、出てくる。(http://dictionary.reference.com/browse/musicianship) もう少し「演奏」と言う行為に直接的な、性質と訓練・勉強で、 態度はここには含まれない。 そして、音楽家同士のライヴァル行為、お互いを貶めるような行為と言うのは 悲しいことに多くある。 その理由の一つには、音楽や演奏を審査する基準が非常に主観的になる、と言うことがある。 もう一つは、スポーツの種目によっては非常に大事になる「チームワーク」が 少なくともピアニストの場合、その養育段階に於いて ほとんど学ぶ機会が無い、と言うことがある。 それだけではない。 ピアニストになるためには、子供のころから小さな個室にピアノと共にこもって 何時間も、まるで織物を織る「鶴の恩返し」の鶴のように 隠れるように、練習することが必要となる。 チームワークどころではない、社会性すら、欠如しやすい背景があるのである。 そんな中で、横須賀ゆかりの4人のピアニスト・グループは ピアニストがお互いをライヴァル視するのではなく、協力しあうことによって いかに音楽が膨らむか、と言うことに注目する協同体。 4人で共演するだけでなく、企画・実行、広報・集客、 どうやって「スカぴあ」を継続・成長させるかと言うことに於いても、 一緒にアイディアと力を出し合ってやっている 本当に貴重なグループだ、と私は思っています。 そして「ミュージシャンシップ」と言う言葉を 「スポーツマンシップ」の音楽に於ける対語として体現しているグループ。 私の、音楽人生の理想を形にしたようなグループです。 このグループの一員である事は、私の誇りだし、 このグループの活動が5年目になることは本当に嬉しい! ピアノは一人でも音楽が完全に奏でられる楽器です。 同じように、今の社会は一人の人間が、誰の力も借りずにテクノロジーを駆使して ほとんどのことをこなせる時代です。 でも、ピアノは一人で弾けるけど、二人、三人、四人と集まると、 一人ではできなかったこと、一人では難しかったことが どんどん、どんどん可能になる。 どんどん、どんどン楽しくなる! それが大事なんです!! スカぴあ今週日曜日! よろしくお願いします。

  • 本番翌朝!

    顔がにやけてしまう... 本番直後の夜は、眠れないのが通常です。 本番中のいろいろな場面がフラッシュバックのようにありありと思い出されて 興奮状態で眠ってもすぐ目が覚めてしまったり、中々寝付けなかったり… でも、昨日は本当にうれしい気持ちで家族と一緒にゆっくりお夕飯を食べて ぐっすり眠れて、幸せな気持ちで目が覚めました。 音楽家と言うのは一人でなれる物では決してありません。 聴衆の一人ひとりも勿論、、 一緒に演奏会と言う大きなイベントを企画・実行してくれる賛同者、 そして後押しして、口コミや宣伝を手伝ってくれるコミュニティー 舞台の裏方さんや、ピアノを調整してくださる調律師さん、 そう言うみんなが力を合わせて初めて可能となる、共同制作です。 それが何回も実現して、初めて一人の「音楽家」が誕生するのです。 そういう音楽家が社会的に成り立っていた、18世紀、19世紀の貴族社会は今はありません。 そんな中普段アメリカ暮らしの私が日本で演奏活動を続け、 今年15年目を迎えることができているのは、 沢山の理解者・協力者に恵まれ、 特に、親戚と家族の全面的なサポートを受ける幸運に恵まれているからです。 私の音楽人生は紆余曲折がかなり極端! いろいろな私の場面場面を太っ腹で受け止め、 一緒に笑い、一緒に心配し、 何があっても演奏を続けたい、と言う私の意思を尊重して そのために協力してくれる… 涙がでるほど、感謝しています。 涙と言えば… 昨日初めて来てくださった聴衆の方が 「Tシャツがこんなにぬれるくらい涙が出ました」 と本当にしずくの後が見えるシャツを見せに来てくれました。 昨日達成できた会場との一体感は これからずっと覚えていて、これからの私を勇気づけてくれるでしょう。 ありがとうございました!! さあ、来週の日曜日はスカぴあ! 横須賀芸術劇場のベイサイドポケットで 横須賀ゆかりのピアニストグループ4人組と オーディションで選ばれたスカぴあジュニアが ソロ、連弾、一台6手、一台8手、2台ピアノと弾き進み、 最後は2台16手まで弾いちゃう、 楽しいピアノ祭典!楽しいクラシック音楽会! http://www.geocities.jp/yokosukapianofestival/

  • 「南欧の愛と幻想」は私の人生の中ではいろいろな意味で大きなプログラムでした。 ヒューストンで2回、日本で明日の千葉も含めて4回、通させていただいたほか、 ヒューストンのHobby空港のバイトで3回、イタリアの音楽祭で3回、 部分的に演奏させて頂いたりもして演奏の機会も多かった。 一つのプログラムを終わりにする、と言うのはちょっとだけ寂びしいものである。 勿論、次のプログラムが楽しみ!とか、他にもいろいろ感慨はあるけれど。 音楽には、香りと同じくらい、思い出を詰め込む力がある、と私は思っている。 この曲を弾くと、その時の友人との会話を思い出す、とか 自分の人生の一場面がありありと思い浮かぶ、とか そういう曲はたくさんある。 プログラムはそういう曲たちのコンビネーション。 このプログラムを弾き終えることは、私にとって一つの自分の時代に終焉を告げることだ。 明日は、思いっきり弾き切ろう、と思っている。 千葉美浜文化ホールにて、明日8月30日(日)13時半開演!!

  • レーガン大統領は任期の最後、アルツハイマー病にかかっていた。 診断が下された後、彼のスピーチが流されるとき、 大統領付き広報チームは、マス・メディアに対し、 このチームが同意した写真をスライド状態で流すよう、要請した。 自信たっぷりで、頭脳明晰で、力強くレーガンが見えるイメージを公布することで、 レーガンの病の噂や病に侵された言動から国民の目を逸らせたのである。 作戦は成功だった。 この逸話は、現代のこの社会がいかに視覚的か、と言うことを描いたドキュメンタリーで知った。 私は自分の容姿に操作をすることで、交流関係やキャリアを向上することを良しとしない。 しかし、それがちょっと行き過ぎて、のだめのような、 例えば寝癖を直さないで学校の練習室に堂々と出向くとか、 そういう事を良くやって、周りを心配させた。 私に「これくらい着なさい」と沢山の友人が洋服をプレゼントしてくれるのも、 そういう事の表れだと思う。 ここ数年、礼儀として服装に気を使うようになり、 この年(自分が見た目に払う努力が性的なものに誤解されにくい年齢)になって、 初めてはっきりと、自分のルックスは自分の好みや姿勢や過去の反映であり、 一種の表現である、と認識し、 きれいになりたい、きれいになるための努力を楽しみたい、と思うようになった。 しかし、である。t 演奏会のドレスには、多いなる疑問がある。 時代錯誤のイブニング・ガウン。 まあ、弾いている曲が主に18世紀、19世紀のものだから、 タイム・スリップしていただきましょう、と言う意味では面白いかなとも思うけれど、 そして非日常性を醸し出すものとしての意義も同意するけれど、 あまりにも非合理的。 その最たるものが、ヒールである。 慣れが必要なのかもしれない。 でも、ヒールでペダルを操作するのは、結構至難の業である。 私はもう何十回、舞台上、聴衆の前でヒールを脱いだことだろう。 一度など、協奏曲の演奏中、オケのパートで私が長い休符があるところで 急いで脱いだヒールのことを全然失念してしまい、 演奏後に裸足でお辞儀して、すたすたと舞台袖に引っ込んだらば、 団員の一人があたふたと私の靴を一足ずつ両手に持って ついてきたことがある。 このオケはハンガリアのオケで、団員の多くが英語をしゃべらなかった。 彼もしゃべらない一人だったのだが、 舞台袖で「シンデレラ」と大きな声で私に言ったので、 大笑いさせてもらった、楽しい記憶がある。 ああでも、こんな思いでもある。 私の演奏会に毎年いらしてくださっていたAさんは長年、癌闘病をなさっていた。 毎年「来年も来られるように、頑張ります」とおっしゃってくださるそのお姿はでも、 だんだん痩せられ、髪の毛も無くなってしまった。 ある年「入院中だが、一時帰宅を演奏会の日に許可されて、友達に付き添ってもらってくる」 と言うご連絡があったにも関わらず、 病状が悪化されて、来れなかったAさんを私が見舞って病室に行った。 その時私は初めて、ゆっくりとAさんとお話ししたのだが、仰天した。 どの年に私がどう言うドレスを着て、どのような曲目を演奏したか、 全て記憶されていたのである。 (私は全然自分では覚えていない) 感動してしまった。 その数か月後に、Aさんは逝ってしまわれたが、 私は良くAさんのことを思い出す。 私には「ちょっと動きにくい戦闘着」でも、 その私のドレスに夢を託してくださる方々もいらっしゃるんだなあ。…

  • 小さい物も含めると、国際ピアノコンクールと称するものは毎年160以上ある、と言われている。 と、言うことは毎年なんらかの「国際コンクール優勝者」がその数だけ、 そして「国際コンクールの入賞者」がその数倍、出る訳である。 そして国際コンクールへの優勝が、キャリア成功の確約だった時代は終わってもう何十年。 私も個人的に何人も有名な国際コンクールの入賞者、優勝者を知っているが、 そして彼らの多くは2つ以上の入賞歴、優勝歴の持ち主だが、 演奏だけで生活をしている人はほとんどいないし、 多くが将来の経済不安、キャリア不安と共に生活している。 私にはコンクール歴が無い。 その正直な理由について、 コンクールの年齢制限を上回ってもう何年にもなる今だから、 記録として、書いておきたい。 私の学部生のころの恩師は熱血の、当時まだ若かったDavid Buechnerだった。ジーナ・バックアワー国際ピアノコンクールでは金賞を受賞した(1984年)が、チャイコフスキーでは銅賞(1986年)、エリザーべート王妃国際コンクール、リーズ、シドニー、ウィーンなどではすべて入賞に終わっている。私が師事を始めた1994年には、すでに自分の将来の演奏活動に不安を抱き、コンクールには幻滅していた。そんな時、生徒として入門した私に、彼は非常な期待を託した。 多分、彼は自分の過去がコウダッタラきっともっとうまく行ったに違いない、と言う全ての不満を自分の生徒に対する教育と接し方で挽回することで、自分も癒されようと思ったのだと思う。 彼の学部生のころの教師はすでにアル中がひどく進行していた、Beverage Websterだった。Baltimoreの田舎から都会で初めての一人暮らしを始めていた彼は、教師に親的な存在となることを期待していたが、それは到底無理な相談だった。だからだろう。自分の生徒たちを「家族」と呼び、金曜日の夜、準備した曲をそれぞれの生徒にお互いの前で弾かせる「ピアノ・クラス」には、毎週お菓子とワインを持って来て、クラスの後にはワインの講義をしてみたり、屋上でみんなで夕焼けを見たりした。楽しかった。 当時の彼の生徒に聞いてもらえればみんな同意してくれると思うけれど、私は特に目をかけてもらっていた。そんな私に、彼はコンクールを目指すことを奨励しなかった。代わりに、演奏の機会をできるだけ作ろうと奔走してくれた。そして、私にコンクールで課題曲になるような主流の有名な曲の勉強よりも、人が弾かない、珍しい曲や作曲家のレパートリーを目指すよう、選曲を勧めた。同時に、私を散歩に連れ出してマンハッタンの建築物を指さしながら色々な時代の建築様式や建築家について話しをしてくれたり、美術館に連れて行って絵画や彫刻を見せたり、またレインボールームなどの高級バーでカクテルを飲ませてみたり、兎に角教養を付けようと努力してくれた。彼が演奏旅行に出ると、自分の家の鍵を私に預け、自由に練習できるよう計らってくれた。私が出向くと、彼の留守中に見ておくべき映画傑作のヴィデオ・コレクションが机の上に並べてあった。「カサブランカ」や「市民ケーン」などの白黒映画や、「Betty Boop」などマイルス・デーヴィスのジャズが使ってある初代アニメ、Woody Allanなどの作品もあった。 Buechnerも自分のアイデンティティー問題など、大変だったと思う。その中で彼女は私に、当時同じマネージャーだった世界的ピアニスト、M.Uに連絡を取るように奨励したのである。 当時の私にとって内田光子は雲の上の人だった。手紙を出したときも冗談に思えて、彼女が本当に電話をかけてくれたときは息が止まるかと思った。私の録音を聴いて、アドヴァイスを頂く、と言う関係が2007年くらいまで続いた。その彼女も私がコンクールに出ることには反対だった。一度、チャイコフスキーに出たい、と言う私に向かって彼女は「なんで?賞金が欲しいの?お金だったら他に作る方法あるでしょう?あなたにこの前のチャイコフスキーの優勝者の名前が言える?」と立て続けに質問し「ああ、この前勝ったのは日本人でしたね.でも、名前を失念してしまいました」とお答えしたらば「私もです!」と電話の向こうで叫ばれた。彼女が私に勧めたのは、パブロ・カサルスのバッハ組曲や、ブリテンとピーター・ペア―スのペアが歌うシューベルトの「冬の旅」、シゲティのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタや、エリック・クライバーの指揮など、過去の巨匠の録音を聴くことだった。しかも、ピアニストは聞くな!と言われた。そしてその後何回も私が送る演奏の録音の感想とアドヴァイスを聞かせてくれ、NYで演奏する際は私をリハーサルに呼んでくれたりした。そして、どんなに小さな演奏の機会でも兎に角場数を踏むことを進めてくれた。 そういう背景があったこともあり、私はコンクール出場よりも、どんなに小さくても演奏の機会を優先することを選び続けた。そしてありがたいことに、私は小さくても色々な演奏の機会に恵まれていた。でも、私はあの段階でコンクールに出てもダメだったと思う。私は正確さを誇るピアニストではない。ミスは多いし、当時は非常にあがり症で、プレッシャーに弱かった。それに、私は「比べてより優秀」は目指したくなかった。私は、自分の音楽がやりたい。ミスが多くても、自分の音楽性を追求したい。審査員の意向とか、それぞれのコンクールの過去の優勝者の傾向とか、他の出場者との比較とか、そういう事を計算して練習したくない。そして何よりも私はコンクールに幻滅したビュークナ―に聞かされ続けた、国際コンクール入賞者の多くを襲う「燃え尽き症候群」を恐れていた。 私は20代後半や30代前半でピークを迎え、そのまま燃え尽きてしまいたくない。 私は、毎日死ぬまでピアノの稽古を通じて、より良いピアニスト、音楽家、そして人間として 少しずつでも前進し続けたい。 死ぬときに一番、自分の音楽に誇りを持っている、そう言う人生を送りたい。 コンクールに出場することにも、それなりに良い点はあると思う。 まず、頑張る目標になる。 沢山レパートリーを学べる。 自分と同じような若いピアニストと一緒に数週間過ごす機会になる。 良くすれば、マネージャーなどの目に留まるかもしれない。 コンクールだって、一種の演奏の機会。 でも、私はその道を通ってこなかった。 それはもう過去のこと、そしてそれなりの考えがあって選択してきた自分の人生だ。 特に日本で、経歴をお送りするとき、そのことがいつもちょっと引っかかるので、 今日はそんな自分を叱咤激励するために、 初めて書き出してみました。 私にコンクール歴が無いのは、そういう理由です。