今日、口答試験がありました。

口答試験で今まで落第した人は、緊張で一言も喋れなくなってしまった人と、態度が物凄く悪くって教授から凄く反感を買った人が最近では居るだけで、大抵の人は合格をするから、と言われては居たものの、やっぱり合格はかっこ良くしたいし、出来ることなら緊張しないで堂々とするために自信たっぷり、準備万端で望みたい! …と言う思いから昨日と今朝は金曜日の試験以来、久しぶりに辞書と教科書とノートに囲まれて、勉強をしていました。でも、(大丈夫だろう)と言う油断があったことは否めません。筆記が思いがけず簡単に感じられて(実は私って頭が良かった!?)と言う錯覚に見舞われていたし、筆記に比べてこれはただの会話。記録が残るわけじゃ無し、多いにごまかしが利くだろう、とどこかで思っていました。 歴史科から一人、音楽理論科から一人、そして私のピアノの教師が丸テーブルの向こう側に座り、私はこちら側にポツネンと座らせられます。ピアノの教師は私の見方。オープニングに、私のピアノに関する質問の回答がいかにこれまで見た中でも最高に良かったか、などとスピーチをしてくれます。ちょっと勇気付けられます。でも、その後の「それではあなたのドビュッシーのエッセーは素晴らしかったのですが、そこにもう少し肉付けしてもらいましょう。ドビュッシーの後世への影響、特にメシアンを始めとする20世紀半ばから後半にかけてのフランス人作曲家について話をして下さい」。打ち合わせ通りの質問にも関わらず、話し始めたら自分の口がからからなのに気がつき、それに気がついたらびっくりして緊張して、ちょっとしどろもどろに。準備していたことの半分も言えませんでした。その後、音楽理論の教授、音楽史の教授が順番に質問をしていきます。音楽理論の試験では私は4声部の作曲の質問の所で実に初歩的なミスをしていました。そこを教授がつついてきます。「私は学部生一年の時音楽理論のクラスで習ったと記憶している、あるミスをあなたはこの小節で犯していますね。そのミスは何か、そして何故、この声部の動きがルールを犯しているか、説明して下さい。」次は歴史の教授。「ワーグナーのオペラが何がそんなにオリジナルだったか、説明してください」。この質問は答えられる!私は張り切って話し始めます。「例えばバイロイトの劇場を自分のオペラ上演のためのみに建設したと言う事実、そしてその劇場のデザインからも分かるように、彼はオペラを娯楽とは考えておらず、むしろほとんど宗教的な,崇拝の対象と思っていました。この時代の作曲家は自分たちの芸術を非常に大事な物だと考えていて…」 「ちょっと待ってください。それまでの作曲家は自分たちの作品を大事だとは思っていなかった、と?」 「そうでは在りません。古典派以前の作曲家は音楽がなんらかの社会的役割を果たしていると思って作曲していました。例えば教会のための宗教音楽、宮廷音楽、など。それらの音楽は大体フォーマットが在って、それにしたがって勤め先の要望に答えて、作曲する。だから、百幾つのオペラを書いたりで切るのではないでしょうか?しかし、ワーグナーの時代には音楽は自分の分身です。芸術、自己表現、自分そのもの。」 「ワーグナーのオペラにはフォーマットが無い、と?」 「ゥ~ン、自分に課したフォーマットはありますが、それはそれまでの常識をほとんど極限まで試していて…」 「歴史や伝統から完全に自由になることなど、可能でしょうか?」 「それは可能ではないと思います。しかし、反抗と言う形で歴史や過去との関係を持つことも出来る」 「ワーグナーは反抗していた、と言うのですか?」 「ワーグナーは自分を伝統や歴史より偉大だ、と思っていたと思います」 「ワーグナーを同時期のオペラ作曲家と比べてみてください。誰がいますか?」 「Verdi,Rossiniはもうこの時期には作曲はしていませんが、でも彼の人気は続いていました。ベリーニ、ドニゼッティ…」 「イタリア人ばかりですね」 「オペラはイタリア発祥のジャンルです。完全に独立したドイツのオペラの伝統はWeberで始まっているのでは無いでしょうか?」 「ワーグナーのオペラは歌手に何を要求していますか?」 「…大きな声を持っていること…?質問の意味が分かりません」 「イタリアオペラを歌うのと、ワーグナーを歌うのはどう違いますか?」 「ワーグナーではレチタティーボ、アリア、などと言うセクションが無くて、延々と一人の歌手が独唱をする…(この人は一体私が何を言ったら素直に満足してくれるんだ!?) この間、この教授は本当ににこりともしないのです! 私は段々と焦ってきました。 そうやって押し問答が続くこと実に1時間くらい。 その後、楽典の教授が「それでは、部屋を出て待機してください」 と、実におごそかに宣言。 ここまで来ても、私はまだ一分後くらいには部屋に呼び戻されて、合格を告げられるだろう、と思っていました。ところが、廊下で立ちんぼすること、3分、4分、5分、いつまでも待たされるのです。「何でこんなに時間がかかるんだろう?一体何を協議しているんだろう? もしかして私の4声部の間違いが問題になっているんだろうか? 歴史の教授はなんか私のことをすごく反感持っていたみたいだし…)刻一刻と時間が過ぎるに連れ、私は自分の不合格にどんどん確信を深めていきました。(あの4声部の間違えはやばかった。去年は音楽理論のクラスを教授までしたのに…あの間違えは本当に恥ずかしかった。ああ、私はまだまだ勉強が足りない。私はここで合格するべきじゃない。私は不合格にしてもらって、もっと修行を積むべきだ…)と、考えているうちにドアが開き、 「おめでとう!合格です!!」 歴史の教授も楽典の教授も次々と手を差し伸べて、握手を求めてきます。でも、私はこの段階に及んでは素直に喜べませんでした。(あんなに協議してたくせに、そんなにニコニコして。。。) 「ああ、アレは伝統なんだよ。中では本当はお互いに近況報告とかしているんだよ。そういえば、楽典の教授は凄く真希子のことを褒めていたよ。『あの子は素晴らしいピアニストだ』とか言って」 そお、私のピアノの教授が教えてくれたのは30分後くらいです。 私がやっと素直に喜び始めたのは、一緒にパスした同級生のクララとビールを飲んで祝杯を挙げたころからです。やっぱり嬉しい! 合格!! 試験勉強、終わり! 人生、始まり!

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終わりました…(大体)

今日、金曜日の午後一時で、筆記試験が全て終了しました。 溜め込んだ物を吐き出す快感、と言うのが月曜日の歴史の試験にはありましたが、 その後、水曜日が終わった時点ではもう脳みそが飽和状態で、 朝方の私には本当に珍しく、朝が起き辛いほどの疲れ。 そして、水曜日、金曜日と進むにつれて、手書きの肉体的苦痛と言うのが増してきました。 (ワープロも使わせてくれないのです!この時代に紙に鉛筆で書くのです!) 日本で家族の愛でもらったDr. Gripの素晴らしいシャーペンでそれでも随分救われましたが、 本当に思考は続くのに、手が続かず、同級の3人共何度も書く手を止めてマッサージ。 ここで試験に出た問題を幾つか。 歴史。 「バルトーク、コープランド、ヤナチェック、ヴァン・ウィリアムズ、デファリャ、ストラヴィンスキーの作品に置ける、民族音楽の使用と国民意識について述べよ」 「中世の世俗音楽について述べよ。トロバトールからイタリアのラウデまで、その形式、言語、構築について詳しく言及せよ」 「19世紀に置ける絶対音楽と標題音楽について起こった論争について詳しく述べよ」 「オペラの前身から起源(ぺリ、モンテヴェルディ)を通じて、ヴィヴァルディ、ラモー、ヘンデルのオペラまでについて述べよ」 これが4つのエッセー。その上に5曲の楽譜を渡されてその様式、形式について述べ、作曲家と作曲年を当てる(バードのイギリス宗教音楽、中世のモテット、リストのエチュード、何だかいまだに分からない20世紀の声楽曲(ストラヴィンスキー?カーター? Spretsimmeを使っている)、バロックのトリオ・ソナタと(多分コレリ作曲)、そして初期古典派の弦楽四重奏(ハイドン?)。そして与えられた12の語彙、作品名、人物名から10を選んで、説明をする、と言うもの。(ワーグナー、ルリー、ソナタ形式、『牧神の午後の前奏曲』、ダ・カーポ・アリア、表現主義、パレストリーナなど) 音楽理論。 10の語彙を定義、説明(作品例を挙げる):Tonal Answer, Invertible Counterpoint, など…私は日本語での音楽理論の語彙を知らない…事に今気がつきました ベースを与えられて、その上に4声部の作曲をする。 ソプラノを与えられて、その下に4声部の作曲をする。 バッハのコラールを、シェンカー分析法を使って分析し、それをグラフに表す。 ライス大学でとった楽理のクラスの中から一つを選び、そのクラスに関して質問にエッセー形式で答える。(私はクラスルーム教授法と言うクラスに関してエッセーを書きました) 最後に、テストの24時間前に与えられた楽譜(ショパンのノクターン、作品62の1でした)について色々な質問(形式、和声進行、など)についてエッセー形式で答えていく。 ピアノ 5つの項目から選んで、4つのエッセーを書く。 1. 「ピアノの前身と起源、その発展について述べよ。鍵盤の数、音域、中の構造、そのピアノのために書いた作曲家とその作品について言及すること」 2. 一般読者のためのピアノに関する辞書のエントリーを次の作曲家の一人を選んで書け。ドビュッシー、モーツァルト、ハイドン 3. 1770年あら20世紀初頭までのピアノ・ソナタの発展について述べよ。ピアノと言う楽器の発展がどの様にこのジャンルの発展に貢献したか言及せよ。 4. 1800年から現代までのクラシック音楽に置ける民族音楽の使用について述べよ。一つの民族音楽タイプを選択し、それに集中せよ(ジャズ、東欧民族音楽、など)。 5. バロックの鍵盤音楽を現代のピアノで教授する時に気をつけることは何か。どういう教授法を取るか、そのメソッドを述べよ。 コレで終わり。 疲れた… 書き終わって、3人の同級生と笑い合って、ハグしあって、一緒にお昼を食べました でも、それもそそくさ。 その1時間後から順番に歴史の教授との面会があったのです。 そこで合格と口答試験について反省して、上達する部分について教授していただきました。 帰って、ずっとず~っとしたかった掃除を徹底的にしました。 まだ、終わっては居ませんが、今日と明日はゆっくりします。 今日は、テレビを見るぞ!

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中間報告 

月曜日(歴史)、水曜日(音楽理論)、それぞれ4時間の筆記試験を終えました。 まだ結果は出ていませんし、金曜日に今度はピアノ一般知識の、これまた4時間の筆記試験を控えて居ますが、取りあえず中間報告。 今回は本当に「後は野となれ山となれ」形式で、他の全てをほっぽリ出して、恥ずかしげも無く試験勉強に超特急してしまいました。7週間、ほとんど他に何もしませんでした。周りにかけたご迷惑、そしてそれを快く容認して、支えてくださった友達、家族、そして私の演奏会関係の皆様、ありがとうございました。取りあえず金曜日が終わるまでは気が抜けませんが、自分に段々とまた人間的な視野が戻ってきているのを感じます。(ああ、世界はまだ回り続けていたんだ~)、と言う感じです。 非常に疲れています。今日はもう寝ます。明日一日勉強して、金曜日に最後の試験を受けてからの自分の人生はどうなるのか、今は想像も着きません。まあ、まだ10月3日に口答試験があるのですが。 そんな中、私の知り合いがひっそりと送ってくれたブログへのリンクを貼り付けましょう。 今朝、試験前にコレを読んで爆笑して、救われました。 私は何と良いお友達に恵まれていることでしょう。 感謝仕切れません。 http://d.hatena.ne.jp/ikkou2otosata0/20110804/1347265734

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弦楽四重奏、起源と発展

バロックでは今日私たちが考えているような四重奏と言うのは在り得なかった。何故かと言うと、バロック音楽の一番基本的な考え方にメロディーとベースと言う上下で音楽を全て作る、と言うのが在るからです。だから、ベース・ラインだけを書いて、後は和音の番号指示だけして(ハーモ二ーは適当に入れてください)って言う感じになるんですね。しかし、それでは四重奏は成り立ちません。 と言う訳で、四重奏が始まるのは古典派に入ってからになるのですが、勿論全くの親無し孤児では在りません。先祖にはCorelliの物が有名なコンチェルト・グロッソ。小さなアンサンブル対オーケストラと言うこの構図のジャンルの小さい方のアンサンブル(コンチェルティーノと言う可愛い名前です)が、この時代通常だったヴァイオリン二本にチェロを加えたアンサンブルにもう一つヴィオラを加えて、現在の弦楽四重の形にする、と言うものもあったようです。それから弦楽オーケストラ。 四重奏の始まりはウィーンと断言して良いでしょう。「弦楽四重の父」と呼ばれているのはハイドン(1732-1809)です。彼の作品1と2はいずれも四重奏ですが、これらは宮廷のBGMとして使われるタイプの、いわゆるDivertimento。5楽章(速 - ミニュエット・トリオ - 遅 - ミニュエット・トリオ - 速)と言う構造で、このミニュエットとトリオが二回も出てくると言う事実だけとってもいかにも宮廷の軽いエンターテイメントと言う感じが分かりますよね。しかしその後、ハイドンはどんどん実験的にこのジャンルを大きくしていきます。まず作品9、17、20(これ等の作品番号にはそれぞれ6曲の弦楽四重が入っています)に置いて、彼は4楽章(速―ミニュエット・トリオー遅-速)の方式を確立します。この時はまだ、ミニュエットとトリオはゆっくりな楽章の前にあります。この頃はロココ形式や、Galantと言われる、雅やかな宮廷様式への反抗としてSturm und Drang(疾風怒涛)と言う文学と音楽での両方で起こったドラマチックに感情表現をして、建前を取り繕うことを良しとしない、と言う風潮がありました。ハイドンのこの頃の四重奏もそれに乗っ取って、ドラマチックで真剣なものが多いです。フィナーレに対位法が用いられているのも特徴です。例えば西洋音楽の父、J.S. Bachの作品は長調の曲と短調の曲と約半々ですが、その息子たち(W.F Bach,J.C. Bach, C.P.E. Bach)やモーツァルト位までのギャラントの時代の作品と言うのは長調が90パーセントを締めます。(例えば19あるモーツァルトのピアノソナタの中、短調なのは2曲だけです。)でも、このSturm und Drangの時代のハイドンの四重奏は実に半分の曲が短調なんですよ。作品33の6つの四重奏をハイドンは「新しくて特別」な作品としています。Sturm und Drangは立ち去り、またおなじみのひょうきんで楽しいハイドンの作品がここから見られます。ここで彼は現代おなじみの4楽章形式(速―遅ースケルツォー速)を確立。さらに、4本の楽器がそれぞれテーマを同等に扱う、と言うのがこの頃の特徴。この後の作品で彼は更なるソナタ形式の可能性の模索、対位法のとり入れ、民族音楽の引用などの工夫を重ねて生きます。ドイツ国歌のテーマとなった作品76の四重奏は「皇帝」と言うニックネームで親しまれています。 ベートーヴェンに余り感謝はされなかった物の、ハイドンはベートーヴェンをウィーンに連れて来るきっかけを与え、さらにウィーンに来たベートーヴェンを教授した人物でもありました。そのベートーヴェンは「恩師」の得意とするジャンルにやっと手をつけたのは交響曲第一番(ハイドンは「交響曲の父」としても知られています)が出た同年、1800年です。この時出版された作品18は四重奏はとても効率の良いMotific developmentにハイドンの影が見えます。しかし中期のベートーヴェンの四重奏となると、話は違ってきます。劇的要素、技巧的困難さ、音域の拡大、そして長さに置いて、これはもう宮廷でアマチュア貴族や、お雇いヴァイオリン弾きが初見で弾ける物では在りません。これは、交響曲と同じように、プロの四重奏が音楽会場で聴衆のために演奏する物です。そして後期の四重奏はこれはもう型破りの一言。例えば作品131は7楽章から成りますが、楽章と楽章の間に休みは無く、続けて演奏されるように書かれています。演奏時間は約50分。しかも、一楽章はフーガで始まり、楽章の順番も常識とは全く違います。作品133はGrosse Fugueと呼ばれています。一楽章から成る、16分ほどの難解なフーガですが、これをベートーヴェンはもともと作品130のフィナーレにするつもりでした。出版社の要請により(「ベートーヴェンさん、コレでは絶対に売れません!」…)作品130には別のフィナーレが用意され、作品133が一楽章ものと成ったわけです。 ベートーヴェンの後期の四重奏は、これも当時では革新的なことだったのですが、総譜が出版されました。それまでは四重奏はパート譜だけしか出版されなかったのですが、ベートーヴェンの後期の作品になって初めてこのジャンル、そして音楽全体が「弾く物」、そして「聴くもの」から、「読んで理解するもの」に成るのです。この後期の四重奏が出版された時生きていたのは、シューベルト、メンデルスゾーンとシューマンです。シューベルトは31年の短い生涯の最後の5年に沢山の名曲を開花させていますが、死ぬ一年前に書かれた四重奏は彼特有の三度関係の転調など、面白い作品になっています。彼は死ぬ5日前に特別のリクエストでベートーヴェンの作品131を演奏してもらい「この後に、誰が何を書けると言うのだ」と言ったと言います。メンデルスゾーンはその感銘が明らかな、楽章の全てが続けて演奏され、それぞれの楽章が同じテーマを持って展開する四重奏を書きました。シューマンはむしろモーツァルト、ハイドン、そしてJ. S. Bachに影響を受けて四重奏を3つ書いています。 それ以降の特筆は、ドヴォルジャーク、スメタナ、ヤナチェーク、バルトーク、チャイコフスキーと言った東欧の作曲家たちでしょうか。彼等の多く(特にヤナチェークとバルトーク)民族音楽を自分の作品に忠実にとり入れることに使命を感じており、それがそれまでのクラシックとは全く違った様相の曲たちを生み出しました。バルトークの四重奏の中にはバルトークピッツィカートと言う、指板に弦がぶつかるくらい強く弦を弾くピツィカートなど、特別なテクニックが沢山要されます。新ウィーン楽派(12音法を編み出したショーンベルグと、その弟子、ウェーバーンとベルグ)の四重奏は重要です。ショーンベルグの四重奏2番の最終楽章は多分始めて無調性を試みた楽章です。(この四重奏が当時浮気中だった妻に捧げられているのは面白い史実です。妻はいずれ戻ってくるのですが、捨てられた愛人は自殺をします。愛人はショーベルグの絵画の先生でした)ウェーバーンの四重奏のための5楽章、ベルグのリリック組曲、など。ショスタコーヴィッチは15の四重奏を残しています。ソヴィエト連邦の抑圧の中作曲していたショスタコーヴィッチは1948年、ついに共産党のメンバーにならざる終えなくなります。連邦のプロパガンダ楽曲を作曲することを強制されながら、彼は「引き出しのため」に演奏予定の立たない曲を密かに、時には涙ながらに、作曲をします。その多くには自分のイニシャルを音符にして入れ込んであります。政治的表明、と言う意味では最後にもう一つだけ大事な四重奏の話を。George Crumbのブラック・エンジェルと言う曲があります。これはアンプで音を拡大した四重奏のための曲ですが、イギリスのルネッサンス作曲家John Dawland「Flow, my tears」や、シューベルトの「死と乙女」を引用してたくみに当時のベトナム戦争反対の姿勢を表明した、今では歴史的に有名な四重奏です。

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マドリガルと言うジャンル -起源と発展

マドリガルと言うジャンルが最初に登場するのは、14世紀の中世最後のイタリア。 音楽史で言うと「トレチェント」と言う時代です。ダンテの「Inferno」をきっかけにそれまで芸術音楽はいつもラテン語かフランス語だったイタリアで『イタリア語も美しい!』運動が始まり、マドリガルを始め、Caccia(輪唱+低奏)やバラッタ(AbbaA―盲目のオルガン弾き、ランディーニが140曲も残しました)と言ったジャンルが急に登場そして消えていった、と言う出来事です。 この頃のマドリガルは同等の2声か3声で伴奏は無し。3節の歌詞が2回(か、それ以上)繰り返されて、最後にRitornelloと言うセクションが拍子も音楽の調子も全く変えて登場する、と言うジャンルでした。歌詞の内容は恋愛、田園風景、社会を理想的に描写する、あるいは風刺する、と言う内容。Jacopo de Bologna と言う作曲家のNon Al suo Amante…が有名です。 その後、一度死んだマドリガルは、16世紀になって全くの別物となってまた登場します。 今度のマドリガルは7-11節の詩。しかもPetrarch,Tassoと言った過去の大物詩人を扱った曲が多いです。これは1500年ちょうど位にBemboと言う詩人が出版したPetrarchの監修の前書きに,Petrarchの語彙の選択が、その意味だけでは無く、発音されたときに醸し出す雰囲気を考慮されているか、と言う内容が作曲家を触発したから、と言うことがあります。音楽に繰り返しはありません(Through-composed)。最後の一節や二節で、ジョークが明らかになる、とか状況が明かされる、と言った構成が多いです。このジャンルの発展は下に時代ごとに追っていきますが、その前に一言注解。このジャンルで歌詞に「死」と言う言葉が出てくるとき、それは「オルガスム」を意味します。 1520年から50年。同等の4声部。 この頃のマドリガルは聞かせるための音楽では無く、演奏して楽しむ音楽でした。混声が多いこのジャンル。いそいそと男女がパート譜を小脇に挟み、小さな部屋で寄り添って歌いあった状況が目に浮かびます。パート譜といいましたが、それぞれの歌い手が見えるのは自分の楽譜だけ。従って合唱して初めて歌詞の全容が明らかになる事が多く、それを作曲家は充分に計算に入れて卑猥な内容がリハーサルで初めて明らかになる、と言って工夫を凝らしました。この時代のマドリガルの有名な作曲家はArcadelt,Willeartと言ったBurgandian の作曲家の4代目です。ArcadeltのIl bianco e cigno(白くて優しい白鳥)が代表作です。 1550年から70年 5声から6声 マドリガルと言うジャンルは作曲家の格好な音楽実験の場になって行きます。歌詞の内容を音楽にどう反映させるか、と言うことで技を競いあうかのように色々な新しい作風が試されていきます。この時代の代表作の多くを書いたWillaertは生徒にZarlinoと言うイタリア人を持っていました。このZarlinoがどの協和音、不協和音をどの様に使うことによってどのような感情的効果をもたらせることが出来るか、ということを詳しく書いたIstitutioni de armonich(和声のシステム)と言う本があります。この本に書いてあることをまさに実行してあるのが、Zarlinoの教師、Willaertのマドリガルたち。多くはPetrarchの詩に載せてあります。 1570年から1600年、5声以上。 それまでは歌って楽しむジャンルだったマドリガルがこの頃からプロが雇われて演奏するジャンルへと移行していきます。Ferrara地方の音楽のパトロンとして有名なEste家では初めてConcerto delle Donneと言う女性合唱隊が1580年に結成され、これは色々な地方のパトロンの宮廷で大流行となりました。(美声だけではなく、美人と言うのも大事だったらしい)この頃になってようやく、それまで外国人にやられっぱなしだったイタリア語のジャンルにイタリア人作曲家がみられ始めます。Luca MarenzioやGesualdo などがそれです。プロに歌わせると言うことは技術的に高度なものを書いてもOKと言うこと。 物凄い不協和音や半音階などのオンパレード!特にGesualdoと言うのは私生活も激しかった人で、珍しく貴族出身の作曲家なのですが、最初の妻の浮気現場を発見してしまい、妻とその愛人をその場で殺してしまう、と言うスキャンダルを経た作曲家。彼の書いたIo Parteや、Luca MarenzioのSolo e pensosoはちょっと聞くと「エ!?現代曲!?」と思いかねないほど「表現」と言うことを「美」と言うことより重視しています。Gesualdoでさらに重要なのは分裂症とも思えるような曲の中でのコントラスト。協和音が続くと思ったら急に不協和音が目白押しになったり、ゆっくりな箇所から急に速い箇所に移行したり。 1600年 Prima Prattica 対 Seconda Prattica Monteverdi はその生涯に8冊のマドリガル集を出版していますが、その4冊目に含まれていた「Cruda Amarili」と言う曲がArtusi と言う評論家の矛先に上がり、激しい論争が始まりました。Artusiの言い分は「余りにも型破りで、不協和音が多すぎる」と言うもの。大してMonteverdiの反論は「音楽のルールを大事にすると、どうしても音楽に歌詞を従わせることになる。でも音楽は歌詞の効果を高めるために使われるべきだ」と言うものでした。この新しい考え方をMonteverdi はSeconda Prattica,古い考え方をPrima Pratticaと命名。 同じ頃登場し、上記のMonteverdi も書いたのがConcerted Madrigalと言うジャンル。歌手の独唱、あるいは数人の歌手に(一人が歌手で他の歌の部分は高音の弦楽器などが弾いても良し)に楽器の通奏低音がつく、と言うものです。 マドリガルはイタリアを音楽史上重大なポジションに押し上げたジャンルで、イタリア語の歌詞であったにも関わらず、ほかの色々な国でも注目されました。一番はイギリスです。1560年には原語イタリア語で出回っていたマドリガルが、1580年には英訳されて出版(Musica Transalpine)。その後、イギリスでは歴史的に大事な、作曲家Thomas Morley著のPlain and Easy Intorduction to Practical Music(実用的音楽への簡単でシンプルな紹介)と言う本にもマドリガルの説明があります。

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