音楽人生

日本のサロン

ピアノ楽曲の多くはサロンで演奏されるべく書かれている。サロンとは特権階級の邸宅に主人が芸術家や文化人、学者などを招いて知的対話の舞台として提供した、社交の場である。私は日本で演奏活動をするようになって日本でもこう言う場が多く存在することを知り、とても嬉しい、誇らしい気持ちになっている。 例えば昨日私の演奏会を主催してくださった三鷹市にあるギャラリー「静」。もうそこでの演奏会は5年目になるか。12人でもう座る場所が無いほどいっぱいになってしまう小さな会場だけれど、染物や焼き物などの日本的伝統工芸を沢山扱っているとてもお洒落なお店。そこのアップライトでトークを交えながら演奏するのですが、毎年来てくださる近所の常連さん方が、もうこのごろはお料理やお酒を持ち寄りで、演奏の後のディスカッションを楽しみに、笑顔でいらしてくださる。そして演奏中は私にも伝わるほどの緊張感と集中力を持って聞いてくださり、出る質問も鋭い! 音楽を共にして、熱くなって、汗をかきながら討論して、私は本当に幸せ物だな~と感じる、至福のとき。

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ドビュッシー、音楽と美術

明日ある三鷹にあるギャラリー「静」でのサロン・コンサートを皮切りに6回の独奏会「ドビュッシー対ムソルグスキー ~視覚を刺激するピアノ曲」を行う。 今日はそのインスピレーションを求めてブリヂストン美術館が開催している 「ドビュッシー、音楽と美術~印象派と象徴派のあいだで」を見てきた。 18世紀後半頃、まさにピアノと言う楽器が作曲家の念頭に上り始めた頃から、著しくなった音楽の流れに置けるドイツの多大な影響力。それに反抗しようと欧米各地でいろいろな作曲家が模索を始めたのが19世紀後半。ムソルグスキーとドビュッシーの接点はそこにある。彼らは主にドイツを主流とした伝統・慣習・常識・固定観念といったものから自由になるべく、自国の美術、文学、舞台芸術、民族芸術、歴史、そしてドイツ以外の何でも「エキゾチック」とされたものに目を向ける。 今回の展覧会ではブリヂストン美術館がオルセー美術館とオランジュリー美術館と提供してやっているもので、ドビュッシーが身の回りに置いていた絵画や小さな置物(日本のものが非常に多い)、彼と交友のあった芸術家たちや彼らの作品、彼自身の肖像画など。そして500円でオーディオ・ガイドを借りるとドビュッシー自身が(日本語)で自分の作品を影響した作品の紹介や背景の説明をしてくれ、また彼自身の曲も聞くことが出来る。 とても充実した企画だった。そしてジャポニズムの影響の強さにも改めて感銘を受けた。 明日からの独奏会、目を閉じて、出来るだけイメージ鮮明に、固定観念に囚われず出来るだけ自由に正直に、素直に、弾きます。

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日本食にケチャップ

日本で演奏会を始めて数年後のこと、母とこんな会話をした。 母はチケットの売れ行きを案じて 私に「皆に耳馴染みがある、ポピュラーな曲も少しプログラムに入れて」と頼んだ。 そして私はそれを突っぱねたのだった。 「アメリカで日本食レストランを始める時、アメリカ人に食べやすいようにってケチャップかける? そうじゃないでしょ、少し分かってもらうのに時間がかかるとしても、 ちゃんと昆布や鰹節でお出汁をとって、 美味しいもの、心をこめて作った物はいつかは美味しいと思ってもらえるって信じたいでしょ? 私も同じ。 ちょっと取っ付き難くても自分が一番凄いと思う曲や作曲家を 心をこめて、『良い物は伝わる』と信じて妥協せずに演奏したい」 と言うのが私の反論だった。 以来私はこの12二年間、家族と「世界で活躍する演奏家を応援する会」NPOが見守る中、 自分の好きな曲を一生懸命弾いてきた。 ベートーヴェンの中でも最長で、もっとも難解とされる「ハンマークラヴィア」や 演奏時間が一時間を有に1時間を越える「ゴールドベルグ変奏曲」など、 普通の主催者ならしり込みするようなプログラムも 家族や、「世界で活躍する演奏家を応援する会」の会長の斉藤さん、そして私の聴衆は 暖かく見守って許容して下さった。 しかし今年日本で、私は自分が主体でない演奏会にいくつか共演者として参加することになった。 チェリストとの共演と、「すかピア」(横須賀ゆかりのピアニスト・グループ)である。 これらはずっと聴衆を意識した選曲を行った。 この二つの全く関係ないプログラムが両方 「カルメン・ファンタジー」と日本の童謡である「夏の思い出」の編曲が含まれている、 と言えば大体分かっていただけるだろう。 そして、お客様は確かに楽しんでいらしている。 父も、大喜び。 私と議論を戦わせた母はさすがに簡単にはこの選曲を慶んで見せることはしないが、 今、私はちょっと迷っている。 私だって「夏の思い出」を弾くのが楽しくないわけではないのだ。 でもやっぱり、こだわって、精進して、背伸びして、聴衆に挑戦したい! 7月7日、王子ホールで演奏した「カルメン幻想曲」です。

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日記をつける、と言うこと

2009年の夏、タングルウッド音楽祭の研究生としての毎日が始まった時、 世界的な音楽家と一緒にレッスンしたり、コーチングを受けたりする夢のような機会を経た幸運を 他の私のような若い音楽家たちや音楽愛好家たちと分かち合いたくてブログを始めて以来 2012年が明ける頃ま定期的にブログ更新して来た。 始めは自分が得た幸運な機会から一人でも多くの人がちょっとでも学ぶヒントを得られればと思っていたが、 その後日記をつけることで自分自身の毎日を反芻、反省し、 自分の考えを反復してまとめる機会としてかけがえないの無いものとなって来た。 今年1月ごろからコンピューターの不調で更新をあきらめてからこっち、 少し意識に変化が出てきた、と思う。 全ての思考を言葉にすることを自分に義務付けることをやめてから 言葉に出来ない部分、と言うのが自分に許容できるようになってきた。 しかし今、こうしてまたブログをつけようと夜アメーバをあける時、 しばし(何を書こう)と悩んでしまう。 前は無かった事。 このバランスが難しい。 今日はとても楽しいリハーサルを5時間も仲間とやったのに。 この土曜日の演奏会に向けて、着々と連帯感が生まれてきている。 明日もまたリハーサル。 この新進については、又明日。

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韓国2日目。

今日は今回の私の韓国旅行発起人である支援者が手配して下さったおかげで、朝3時間練習することが出来た。韓国国会議事堂まん前のとても近代的なオフィスビルのロビーの一角がガラスで区切られて簡単な講義や演奏会が出来るようになっています。毎日12時から1時までは「ランチ・ブレーク」と称して、映画上映や小さなライヴが行われているようです。始めは外からもオフィスのロビーからも丸見えのそのスペースにちょっとびびりました。それから、小型のスタインウェイのグランドだったのですが、真ん中のドの音から一オクターブちょっと下のミの音が弦が無く、まったく音が出ない、と言う状況なのもびっくりしました。「何か問題があったら」と頂いていた電話番号に電話したところ、係りの方が完全に英語が通じない!こんなに英語が通じない人も珍しいほどです。しかし、何か言いたいことが在るらしい、と言うことは伝わったようで、その1時間後くらいあとに、英語がしゃべれる人が様子を伺いに来てくれました。「私は練習をさせていただけてとても感謝しているし、文句を言っているわけではない。今日明日で直すのは難しい問題だと思うので、次の演奏者のために伝えておくべきだと思っただけですが。。。」と前置きをして弦のことをお話したところ、丁寧に謝ってくださり、「問題指摘がこんなに的確なのは、やはりプロですね」となんだか褒めてまで下さり、その上社員食堂のただ券を私に下さったのです!とても嬉しい!!社員食堂でなんて世界のどこでも食事したことありません!そこはとてもおしゃれな、日当たりのいいスペースで、ビュッフェ形式でサラダが中心の、でもポテト・グラタンとチキンのドライカレーと言う二つの暖かいメインも在る、と言う昼食でした。とても健康的、新鮮、そして味は80点(悪くない)、サービス満点!しかしみんなの食事のスピーディーなのにはびっくり。私は一人で会話をする相手無く、集中して食べていたのに、私より後に座って会話をしながら食べていたグループで来た社員たちは私を置いてどんどん仕事に戻って行く!すごい。。 午後は韓国の武満徹的存在とも言える著名な作曲家であられるK・Sさまがお時間を作って下さったので、午後の紅茶とその後の早めのお昼(韓国一おいしいと在る雑誌の読者投票で決まった冷麺!本当においしかった!その麺をゆでた蕎麦湯のような物も非常に美味でした)をご馳走になりました。先生が「音楽と言うのは、作曲も演奏も理性でやる物だ。感情は邪魔だ。出来るだけ廃止するに限る!」と言うのに対し、「音楽の最初のモチベーションはいつも感情であるべきだと思うし、作曲の作業が理性が勝つのは分かるとしても、それを感情をこめて再現し、聴衆に共鳴が出来るような音楽にするのが演奏家の立場だと思う。」と演劇に例えて反論したところ「君は面白いことを言うねえ」とちょっと気に入られたようで、私も嬉しかった。その後場所を変えて、いろいろな交友談をうかがったのですが、これがすごい!岩瀬、武満、一柳、ペンデレッキ、ゼノキス、ルートスラスキー、ストックハウゼン、リゲッティ、こういう人たちを全部知っていたのです!ストックハウゼンはすごく変わっていたそうです。でもペンでレッキもゼノキスもルートスラスキーもみんな普通の、おとなしい人だった、と言っていました。 ちなみにこの作曲家の先生と私が交わした言語は日本語です。1934年生まれですから、日本の統治時代に小学校に言っていたわけです。先生はそのことに関して直接は言及なさいませんでしたが、とても流暢な日本語でした。複雑ですね。

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