音楽人生

サッカーゲームを観戦して思ったこと。

私の恩師にはスポーツ・ファンが意外と多かった。 学部生の頃の先生は 自分の個人生徒全員をヤンキースタジアムに野球観戦に連れて行ってくれた。 LAの恩師はテレビでのバスケットボール観戦に招待してくれ、 「この選手は最近スランプだがこういうコーチングを受けてスランプ脱出を図っている」 とか、「今の失敗は心理的なものだ」 「今のは筋力を使いきれて居なかった」 とか、(え、これは先生から私への指導の一貫…?) と思わせるようなコメントを多発した。 でも、実は私はスポーツ観戦はあんまり好きじゃないし、お金を払っていこうとは思わない。 その心理的背景にはもしかしたら (音楽家の平均年収 vs。運動選手の平均年収)と言う、 変なこだわりもあるのかも知れない。 そんな私が昨日はヒューストンのサッカーチーム「ダイナモ」のホームゲームを観戦したのは 婚約者のお客さまがご招待してくれたから、お付き合い。 …のはずだった。 が、開眼。 色々考えるきっかけになった。 私は昨日は学校で公開レッスンを教えており、 観戦はハーフタイムからとなったのだが、 まずびっくりしたのはBBVAスタジアムに近づいて聞こえてきた歓声。 4万人ほどの観客が地面を揺らす勢いで 「うお~~~~!」 と1分間に5回くらい波のような声を上げる。 スタジアムに入ったら、その5感の刺激にびっくり。 スポーツ観戦は飲み食いしながら行うらしい。 ピーナッツ、プレッツェル、ピザ、ホットドッグ、ビール、マルガリータ、 そういうものが通常の5倍から10倍の値段で売られているのだが、 それを買う行列は10分から20分。 そしてスピーカーから流れる音楽とアナウンスメント、 隣近所の完成は耳を刺激する。 私の後ろに座った2年生くらいの女の子は ひきつけを起こすのではと思われる勢いでスコアの度に悲鳴を上げる。 ヒューストン・チームにはみんなで応援し、 相手チームには「ブー、ブー」と、すごい勢い。 これはすごい連帯感。楽しいのは当たり前である。 さらに、球場を囲むスクリーンはありとあらゆる極彩色で 色々な宣伝やゲームに関する情報を流し、 実際のゲームが色あせて見えるほど。 昨日のゲームはシーズン・オープニングのホームゲームと言うこともあって ゲームの後には20分近くの花火のショーまであった。 太刀打ちできない。 クラシック・コンサートにお客が集まらないわけだ。 この集客力。この経済力。この企画。 さらに、私を考えさせたのは、実はクラシックも昔はこうだった、と言うことだ。 出し物が気に入らなければ、舞台に向かって文句を叫ぶ。 奏者が気に入れば、応援、掛け声、そして延々と続く拍手と歓声。 その連帯感。 そして連帯感をさらにあおるための演出に 主催者も、ホール側も、さらに奏者自身も色々な工夫をしたらしい。 いつからクラシックはこんなに真面目に、崇高に、儀式的になったのだ? 崇高で、真面目で、儀式的なクラシックを私は好きなのだけれど、 でもそのせいで客離れ… う~ん。

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音楽業界でのパワハラ

今、この映画が話題になっている。 この映画がきっかけになって音楽学校での師弟関係の難しさの話題が多い。 レッスン室と言うのは防音加工をされた密室だ。 そこに閉じこもって行われるレッスンはしばしば先生と生徒、1:1。 パワハラだけでは無い。 セクハラも大きな問題だ。 しかし、とても狭い業界。 そして、将来の狭き門をくぐれるかくぐれないかの瀬戸際に在って、 声高に権力者を糾弾する人はほぼ皆無。 私、本を書こうかな...

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練習をしない利点

生まれて初めてかも知れない-私生活を音楽人生に優先させている。 私は衣食住を含む、生活のほぼすべてに今まで非常識なレヴェルまで無頓着で通してきた。 唯一、食に関しては健康面と美食面で興味が在って まあちょっといろいろ探究したりしたが、それも最近のことで、 ジュリアードでどう逆立ちしても高いとは言えない時給で伴奏スタッフをしていた時は 昼食はほぼ毎日学食で一杯1ドルだったスープだけだった。 「あのスープは残り物のごった煮だから飲まない方が良い」と噂されていたりしたが、 でも、スープにパンがついてくるのである! それに、カフェテリアのおばさんが私の顔を覚えてくれていて、 私が来ると鍋のそこからできるだけたくさん具を集めてよそってくれる。 『死にゃ~せん!』と、兎に角経費を削減することで音楽人生を乗り切ろうと頑張っていた。 音楽産業の需要と供給とかそう言った問題以前に、バイトを増やせば練習時間が減る。 私はただ単に練習したかったのである。 上達したかったのである。 だから自分の演奏の向上につながると思えば無料でも演奏したし、 明らかにバイト的な仕事は収入が良くても断ったりした。 そういう生活を一生続ける人色々な分野でいるんだ、と思う。 それはそれで、ある意味非常に単純明快で、そして楽しい。 しかし人生パートナーを得て、 共同生活を試みる上で色々生活の工夫と知恵を教授され その過程で練習しない日が出てくる。 「練習しない日」にやきもきしなくなるまで、慣れてしまうまで 「練習しない日」が増えてみて発見したこと。 私は練習し過ぎていた... 練習し過ぎることによって、音その物、そして音楽、そしてピアノを弾く肉体的感覚に麻痺していた。 今、ラジオでたまたま耳にする音楽にものすごく感動して その演奏をいつまでも頭の中で反芻したりする自分を発見する。 激変人生の対応の合間に10分、15分とする練習の効果が 今まで際限なく在った時間にかませていつまでもやっていた練習の100倍! そして音そのものにも非常に敏感になった。 音楽の良さを思いがけず極限的に再発見している。 そしてまた、音楽をやっていて良かった、これからも一生頑張りたい、と心から思う。

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思いがけず、一年を思う。

6月1日に演奏した演奏会。 とても特別な会だったのは1829年にウィーンで制作された古楽器で演奏したから、だけではない。 1765年に建築された、マンハッタンに残る最古の豪邸で開かれた演奏会だったから、だけでもない。 シューベルトが生前参加していたと言う、シューベルトと彼の作品を親しむ会 「シューベルトの夕べ」をマネして、飲み物とウィーンの焼き菓子が振る舞われ、 聴衆を演奏空間に巻き込んで、連帯感が非常に強く生まれた演奏会だったから、だけでもない。 今日、YouTubeで公開する前に確認するため、画像が送られてきて、 私は確認作業を行いながら息が苦しくなるような感覚に襲われた。 あの演奏会を実現のため、裏方で大活躍をしてくれたMさんは、 その後末期がんで10月に亡くなった。 彼は自分が末期がんだと言うことを熟知していたし、 彼の友人たちもみんな知っていたけれど、 あの日はそんなことよりこの音楽会が大事で、 この音楽会のためにみんなで協力して、汗をかいて、そして成功を祝った。 午後の演奏会が終わった後、さわやかなマンハッタンの芝生の上で タイ料理の出前をみんなで広げて盛大にお祝いした。 そして今私の日常に欠かせない大切な人々の中には、 その時まだ巡り会っていなかった人もいる。 たかが半年前なのに。 時間って不思議。 音楽は香りのように、記憶をふっと復活させることがある。 思い出深い出来事のあった時期、練習していたり、演奏していたりした曲に再会すると、 その時の気持ちや、肌に残る感覚や、聞いていた声とか、何でもない会話とかが くっきりと再現されることがある。 あああ。 今年もいろいろあったな~。とても濃い一年だったな~。 その全てに感謝できるように、 思い出いろいろを音楽に織り込んでいくように、 鶴の機織りのように、 今日も練習。

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ベートーヴェンの誕生日

12月17日はベートーヴェンの最初の歴史的記録(洗礼を受けた日)から244年目です。 音楽史、そして歴史一般を勉強すればするほど、 ベートーヴェンと言うのがいかに影響力を持った歴史的シンボルとなったか、 と言うことをつくづくと思い知らされます。 近代史に置ける交響曲9番だけを見ても、 1989年のベルリンの壁の前でバーンスタインが降った9番、 天安門事件の際に学生たちが歌った「喜びの歌」など その象徴性をあらわす例は尽きません。 このテーマで制作された映画「Following the Ninth(第9を追う)」からのクリップを 英語ですが、こちらでどうぞ。 本当に感動して、私は泣いてしまいました。 しかし、ベートーヴェンは同時にクラシック音楽を「困難」な物にしてしまった作曲家でもあります。 ベートーヴェンは、個人的にはそんなつもりはさらさらなかったと思います。 もともと偏屈で、しかも失聴によりある意味周りとの交信を断絶され、 そんな中で情熱に突き動かされた知能的な探究の個人的な結果が彼の音楽では無いでしょうか? でも、彼の難聴と失聴から来る孤独、自信喪失と、社会的困難、 そしてそれを乗り越えて西洋を代表とする芸術家として名を遺した、と言う史実。 その上啓蒙主義で個人個人の意思・思想が体制や宗教よりも重要視され始め、 さらに工業革命、教育の一般的な浸透など、いろいろな時代背景の結果。 そういういろいろな要素が絡み合って ベートーヴェンは歴史の方向転換を象徴する偉大な作曲家になってしまったのです。 ピアノのレパートリーの中で バッハの平均律集を「旧約聖書」 そしてベートーヴェンの32のピアノ・ソナタを「新約聖書」 と言うことがありますが、あながち誇張でもありません。 孤独な困難を乗り越えて勝ち得たもの(のみ)に価値を見出す。 クラシック音楽がある意味から宗教のように崇拝され、同時に一般的に敬遠される方程式。 この方程式は特に、 勤勉で真面目でそして貧困な農作国の歴史を持つ日本人に好まれる気がします。 しかしベートーヴェンが生きたのは1770年から1827年。 ある種の美、人間性、そしてメッセージに普遍的な価値を見出すのは良いとしても、 200年も一人の作曲家がこれだけ多大な影響力を持ち続けると言うのは健康的なのか? なぜ、そういう現象に至ってしまっているのか? クラシックはこのまま行って、生き残れるのか? ベートーヴェンにあまりにも大きな象徴性を課してしまったせいで 私たちは進化を拒否して、足踏みしているのではないか? 音楽の本来の姿を忘れ始めているのではないか? 音楽とは本来もっと素直で自然で日常的で、楽しいものではないか? クラシックは苦しい音楽になってしまっているのではないか? 私のクラシックの理想追求には少々マゾ的要素があったことを否めません。 だから、こういう自問自答に至るわけですが、 じゃあ、これからどうすれば良いのか。 考えどころです。

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