ウォール街での昼食コンサート
昨日はレッスンがあったので、ニューヨークに行った。 レッスンの前、去年までコルバーンに居て今年からジュリアードで勉強している友達の演奏会に行ってきた。ジュリアードが毎週行っているウォール街に在るオフィス・ビルのロビーでのお昼時の一時間の演奏会だ。ジュリアードから選ばれた在学生が、小額のギャラと演奏の機会として、ここで弾く。吹き抜けの広いスペースで、ガラスに囲まれたロビーの一角は、視覚的にはすがすがしくて気持ち良かったが、回転ドアから絶えず人が出入りして、そのたびに冷たい風が吹き込んで、私の友達はコートを着込んで演奏していた。とても静かとはいけない環境で、「ランチ・タイム・コンサート」と名打ってあるだけあって、紙袋の音を高らかに立てながらサンドウィッチを食べている人もいる。その中でコートを着込んだ私の友達は、私が今まで生の演奏会で聞いた中で一番調律の狂ったピアノで、正直にベストを尽くしていた。一時間の演奏会がそういう状況の中ですすんでいくにつれ、彼女の真摯な姿勢が伝わったのか、段々足を止め、きちんと座って聞くことに専念する人が増えてきて、幸い演奏会が終わるころには20~30人の人が一生懸命拍手をして、彼女に敬意を表した。 私は複雑な気持ちだった。 クラシック音楽がお固い、敷居も入場料も高すぎる、と言うイメージは払拭したい。生演奏を日常の空間に、音楽や音楽家をより身近にと言う趣旨にはとても賛同する。しかし、ここまで妥協をするべきか。私の友達は立派だったと思う。私だったらあそこまで環境を無視して音楽に専念できただろうか? でもまたその一方、クラシックの演奏家は余りにも甘え過ぎているのか、という疑問もある。他のジャンルの音楽家は駆け出しの時にはクラシックの演奏家には想像もつかないような悪条件の中で演奏活動を始めなければいけない。それだけではない。バッハやモーツァルト、ハイドンは、コックと同じ条件で貴族に雇われる「使用人」だった。命令に従って、注文通りの作曲や演奏をしなければいけない。革命後のヨーロッパのロマン派の作曲家は今度はお金や権力を持つエリートのサロン・コンサートで演奏して、パトロンを見つけたり、コネ造りに励んだりした。そう言うサロンのピアノの全てがキチンと調律されていたとは、とても思えない。きっと歴史上、今現在の私たちほど演奏する楽器や環境の条件に煩い演奏家はいないだろう。これは間違っているのか?それとも、オリンピックの記録更新の様に、もっともっと完璧を目指す私たちには、そうすることが許されるべきなのだろうか? 一つ、このコンサートでとても良い、と思ったことは「ランチ・タイム・コンサート」と言うことで、「静かに聴かなければいけない」と言うプレッシャーが少ない事を見込んだ教育熱心な親たちが小学校低学年の子供たちを連れて来ていたことだ。それに、私が行ってあげられたから、後で二人で普通の聴衆には分かり得ない苦労を一緒に笑ってあげられて、良かった。一人だったら寂しかったと思う。