ダンスを観て
今日のニューヨークは小春日和です。 「小春日和」が秋の日を指すことだとまだ知らなかったニューヨークに来たばかりの頃、ジュリアード音楽院に送ってもらう為、DCの家族の車に乗ったとき、同乗していらっしゃったお祖父様に,「今日は小春日和ですね」と挨拶された時、それが私が初めて出会った戦時中日本語教育を受けた韓国人だったこともあってショックだった。この夏もジュリアードの韓国人クラリネット奏者のコンサートの際、お祖母様がいらしていて、NYに送リ届けてもらう際、車の中で一緒に日本語でおしゃべりしたが、この方も俳句や和歌を私のために暗唱して、着物の縫い方を教えてもらったのが楽しかった、と話していらっしゃった。私に気を使っているのだろうか。それともそれだけ日本語が美しい、という事なのか。私は取りあえずひたすら恐縮して見せる他は、敬意を示す方法が思い当たらなかったので、ひたすらかしこまって、自分が知っている限りの敬語を使って応答した。不思議な世代、不思議な歴史だ。しかし、フランス、イギリス、スペインなどの植民地でも、現地人はその言葉を覚えて、今でも喋っていたりするわけだし、そんなに不思議でもないのかなあ。ボリビアのスペイン風パンが非常に美味しかったのを思い出す。 ニューヨークに帰ってきてまだ一週間たたないけれど、なんだかもう一ヶ月こっちにいる気がする。ジュリアードのダンス部門の作品を28日に見て、30日には演劇部門の作品を見た。ダンス部門の作品は”Sir Issac’s Apple”というタイトルで、曲はSteven Reich, 振り付けはElliot Feld (ウェスト サイド ストーリーのBaby Johnの役だった人)。タイトルの”Sir Issac”はニュートンの事で、要するに重力を使った振り付け、と言う意味です。 Steven Reichというのは、ミニマル・ミュージック(極度に切り詰めた最小限の音楽素材を、パターン化して延々と反復しつつ、そこにゆっくりと変化を加えていく手法。民俗音楽でもよくみられる)と言うものの第一人者。Steven Reichの音楽と言うのは、これと言う発展が無く、例えばマリンバならマリンバで、4人くらいが同じパターンをずっと弾くのだけれど、微妙に4人のテンポを違える事によって一分目くらいからだんだんずれが聞こえる様になり、3分後にはパターンがお互いぶつかり合ってかなり複雑なパターンを織り成す。メロディーや、ハーモニーで音楽を進展させるのではなく、音の色、厚さ、広がりなどの変化を音楽とする。こういう音楽は私は今まで余り興味が無かったんだけど、この作品を見て、感動した。 ダンスの生徒40人くらいが、舞台一杯に作られた幅広い、巨大な滑り台からただ降りて、上がって、と言うのを繰り返すんだけど、色々な降り方、あがり方があり、これは全て振付けられている。しかしそれぞれの生徒達が全て同じ動きをしているにもかかわらず、個人個人の肉体と、感性でそれは微妙に違い、単純な動きだからこそ、その違いが如実に浮き彫りになる。そして、全体像として、沢山の生徒が少しずつずれて、同じ動きで次々に滑り台をあがったり降りたりするのは非常な壮観。一人、一人がそれぞれの音、パターンそして、曲全体を同時に表現している。この作品は1時間20分、一瞬の途切れも無く続くのだけれど時間の感覚を超越した風で、はじめから終わりまで、私は固唾を飲む感じで見入ってしまった。 見入った理由のもう一つは、私が今自分の演奏に欲しい物が見えた、と思ったからでもある。沢山の踊り子が単純な振り付けを少しずつずらしてやる時、周りに溶け込む人と、目立つ人がいる。上手い、下手とは言いたくないが、私は目立つ人の方が格好いいと思うし、自分もそうなりたい。そして目立つ人は、動きにハリがある。これを私は自分の演奏に欠けているものとして、今まで「リズム感」と言葉で表していたが、この作品を見て、もう少し適格に言語表現できる様になったと思う。 それは、もうだめ、と思うところまで体を伸ばして、さらにもう少し先に行こうとする感じです。見る側から言うと、一瞬止まったように見えるのだけれど、でも踊る側としては、多分そういう風に見せようと思ったら上手く行かない。要するに、ぎりぎりまで届こう、届こう、もっと、もっと、と求める気持ち。これを音のタイミングであらわす事が出来たら、本当に効果的に伝えたい物が伝えられると思う。後一寸で、それが体得できる、と今思っている。 もう、前の様に「疲れて何も聞こえない」と思うところまで、練習するのはもうしない。取りあえず、10・11の録音でやる曲はこの夏演奏する為に一度仕上げてある曲ばかりだし、もう少し抽象的、概念的に色々な事を考える事によって、曲を把握しようと思っている。