視覚的世の中、でもドレスは本当に必要?

レーガン大統領は任期の最後、アルツハイマー病にかかっていた。 診断が下された後、彼のスピーチが流されるとき、 大統領付き広報チームは、マス・メディアに対し、 このチームが同意した写真をスライド状態で流すよう、要請した。 自信たっぷりで、頭脳明晰で、力強くレーガンが見えるイメージを公布することで、 レーガンの病の噂や病に侵された言動から国民の目を逸らせたのである。 作戦は成功だった。 この逸話は、現代のこの社会がいかに視覚的か、と言うことを描いたドキュメンタリーで知った。 私は自分の容姿に操作をすることで、交流関係やキャリアを向上することを良しとしない。 しかし、それがちょっと行き過ぎて、のだめのような、 例えば寝癖を直さないで学校の練習室に堂々と出向くとか、 そういう事を良くやって、周りを心配させた。 私に「これくらい着なさい」と沢山の友人が洋服をプレゼントしてくれるのも、 そういう事の表れだと思う。 ここ数年、礼儀として服装に気を使うようになり、 この年(自分が見た目に払う努力が性的なものに誤解されにくい年齢)になって、 初めてはっきりと、自分のルックスは自分の好みや姿勢や過去の反映であり、 一種の表現である、と認識し、 きれいになりたい、きれいになるための努力を楽しみたい、と思うようになった。 しかし、である。t 演奏会のドレスには、多いなる疑問がある。 時代錯誤のイブニング・ガウン。 まあ、弾いている曲が主に18世紀、19世紀のものだから、 タイム・スリップしていただきましょう、と言う意味では面白いかなとも思うけれど、 そして非日常性を醸し出すものとしての意義も同意するけれど、 あまりにも非合理的。 その最たるものが、ヒールである。 慣れが必要なのかもしれない。 でも、ヒールでペダルを操作するのは、結構至難の業である。 私はもう何十回、舞台上、聴衆の前でヒールを脱いだことだろう。 一度など、協奏曲の演奏中、オケのパートで私が長い休符があるところで 急いで脱いだヒールのことを全然失念してしまい、 演奏後に裸足でお辞儀して、すたすたと舞台袖に引っ込んだらば、 団員の一人があたふたと私の靴を一足ずつ両手に持って ついてきたことがある。 このオケはハンガリアのオケで、団員の多くが英語をしゃべらなかった。 彼もしゃべらない一人だったのだが、 舞台袖で「シンデレラ」と大きな声で私に言ったので、 大笑いさせてもらった、楽しい記憶がある。 ああでも、こんな思いでもある。 私の演奏会に毎年いらしてくださっていたAさんは長年、癌闘病をなさっていた。 毎年「来年も来られるように、頑張ります」とおっしゃってくださるそのお姿はでも、 だんだん痩せられ、髪の毛も無くなってしまった。 ある年「入院中だが、一時帰宅を演奏会の日に許可されて、友達に付き添ってもらってくる」 と言うご連絡があったにも関わらず、 病状が悪化されて、来れなかったAさんを私が見舞って病室に行った。 その時私は初めて、ゆっくりとAさんとお話ししたのだが、仰天した。 どの年に私がどう言うドレスを着て、どのような曲目を演奏したか、 全て記憶されていたのである。 (私は全然自分では覚えていない) 感動してしまった。 その数か月後に、Aさんは逝ってしまわれたが、 私は良くAさんのことを思い出す。 私には「ちょっと動きにくい戦闘着」でも、 その私のドレスに夢を託してくださる方々もいらっしゃるんだなあ。 […]

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