October 2016

通常生活へのリハビリ

戦争・和平交渉・結婚・葬式…   なんのリストだと思いますか? 歴史上、色々な文明で音楽が利用されて来た場面の多くのリストです。 音楽と言うのは、大きな社会変動や個人の社会に於ける位置変動が起こる度に (大丈夫だよ~、大きなことは変わっていないよ~)と安心を醸し出したり、 (これは良いことだよ~、さあ、勇気を出そう~)と連帯感を醸し出すと言う効果があるそうです。   音楽を『高尚』、さらには『神聖』とさえ思うような西洋クラシックの世界で育ってきた私は この概念を紹介されたときには結構感じ入りました。 儀式化された音楽ではなく、人間の営みに必要性を持って組み込まれている音楽。   祖母や育ての父親や友人を今年に入って続けて失ったり、 生まれて初めての全身麻酔を伴う手術で大げさで怖がりな私は(死ぬかも)と本気でちょっとだけ思ったり(恥ずかしかったので誰にも言わなかったけれど、どんな薬にも大げさに反応する自分の体が全身麻酔に正常に反応するとは思えなかった。)、更には沢山のコミュニティーの方々や日本からわざわざ来てくれた家族に祝福されながら新しい名前で人生の門出を祝ったり、この半年間、さらに最近の数週間は心理的に本当に盛りだくさんだった。そんな時、音楽を専門にする私は、忙しさにかまけて少し音楽から遠ざかった。   やばい。   音楽から遠ざかった私が再発見するのが食である。 音楽と同じく食と言うのも冠婚葬祭には音楽と同時に人生の一大事に連帯感を醸し出し、人間の営みの普遍性を思い出させる大事な立役者。 最近「孤独のグルメ」と言うドラマにはまっている。 私と同じく門出を祝った相手と一緒に 祭りが空けた今日はアイスクリームをパクつきながら見てしまった。   練習と論文は週末が明けてから。 ひとまず疲労回復と生活リズムの回復を試みなければ。      

通常生活へのリハビリ Read More »

書く事、弾く事、在る事の必要性。

ブログを書く、と言う事は自分の考えを一般公開する、と言う事。 2009年にブログを書き始めた当初は音楽に関する事だけにしようと思っていた。 でも、私の音楽は私の過去と日々の生活・経験・考え・想いの集大成である。 そして私には弾く事の必要性と同じくらい、書く事の必要性が実感として在り、 音楽について書く事は自分について書く事になる。   自分のプライヴァシーと安全性と、書く事への必要性を天秤にかける。   2週間前の今日、手術をした。 アメリカでは外来の手術で、朝5時半に病院に入り、午後4時ごろには帰宅した。 医者には「次の日から仕事に戻れるくらい簡単な手術だから」と言われていたのに、 身体がいつまでも元に戻らないもどかしさを自分の怠慢の反映と思っていたが 後から聞いたら日本では一週間の入院を要する手術だった。   そして祖母が亡くなった。   明日家族が12人、私たちの人生の晴れ舞台に立ち会うためにヒューストンに来てくれる。 おもてなしの準備、そしてその晴れ舞台その物の準備。 気が付いたら、ブログも論文も練習も後回しになる日々が続いた。 そして改めて実感。   私にとって、弾く事と書く事は、食べることや寝ること位重要だ。 何があっても書きつづける。何があっても弾き続ける。 それが私だから。 さ、ゴールドベルグ変奏曲!    

書く事、弾く事、在る事の必要性。 Read More »

おばあちゃんが亡くなった日に病院でした演奏

今朝起きたら、日本からおばあちゃんが亡くなったと言うメールが届いていました。 下の写真は今年の2月、卒寿のお祝いの時の写真です。 おばあちゃんはいつもおしゃれっ気がありました。 ベレー帽が懐かしい。 おばあちゃんはお出かけの前には必ず鏡台の前に座ってお化粧をしました。     正午にヒューストンのメディカルセンター主催の演奏会シリーズに出演が決まっていました。 ヒューストン・メディカルセンターでも一番大きなMethodist Hospitalは Medical Center for Performing Artsと言う 演奏家の治療や、音楽セラピー、音楽と脳神経の研究などを主に行う部もあります。 音楽の治癒能力を宣伝し、その一環として 病院のロビーでは毎日月曜日から金曜日の1時から5時まで生のピアノ演奏があったり、 またそう言うBGMとは別に今日私が出演したようなちゃんとした演奏会形式の演奏を 月に10回ほど主催したりしています。 今日は私はブラームスのヴァイオリン・ソナタとクラリネットソナタと言うプログラムで ご存知私の心の友のクラリネット奏者の佐々木麻衣子さんと ヒューストン交響楽団でヴァイオリン奏者を務めている私の昔のルームメートのTinaと一緒。   演奏をしていると神経が研ぎ澄まされ、普段分からないことが分かるようになります。 例えばお客さんの息遣いが聞こえるようになったり、集中度や目線が肌で感じられたり。 吹き抜けの会場の二階から目線を感じて見上げたら、 お医者さまが沢山鈴なりになって聞いていらっしゃいました。 会場の横の廊下を通りすがりの患者さんや看護婦さんも立ち止まって聞いてくださいました。 音楽が受け入れられている、必要性を実感されている、と感じられる日でした。   最後にアンコールでスクリャービンの左手のためのノクターンを弾きました。 「第一次世界大戦からは右手を戦場で失ったピアニストが沢山帰ってきて、 その中の数人が左手のための曲を委嘱始めた。 人間は生きていると色々な物を失っていく。でも人間は強い。 この曲はいつも、私にその事を思い出させてくれます」 とスピーチをしてから弾き始めたら、聴衆が本当にかぶりつくように聞いてくれました。 今日のお客様の多くは医療関係のスタッフ、お医者様、看護婦さん、 そして患者さんや看病のご家族。 毎日生死に向き合っている方々と音楽を通じて一体感を味わう事が出来た事が嬉しかった。   病気がちだった私は母や家族、そしておばあちゃんやおじいちゃんや親戚のみんな そしてお医者様や看護婦さんやインターンの先生や色々な方々に見守られて 成長して来ました。 成人式の時に「生存率は50パーセントと思ってください」と言われて入院していた私。 「式に出席だけないだけじゃなくてもう2週間もお風呂に入っていない汚い身体で…」と 看護婦さんにこぼしたら 「体は拭けばきれいになります。着物はいつでも着られます」と強く励ましてくださった。 その時に、付きっ切りで私の治療法を工夫してくださったお医者様は 実はその時ご自分の奥様が分娩室に入られても私に付き添ってくださっていた、と 後からお聞きしました。   私、そして私が奏でる音楽はそう言う方々みんなの想いの結晶です。      

おばあちゃんが亡くなった日に病院でした演奏 Read More »

おばあちゃんと、ゴールドベルグ変奏曲

生まれたら死ぬ。出会ったら別れる。 そしてその一々に感動し、みんな成長していく。   今年は沢山の人を見送る年だ。   2月28日に、私のアメリカン・ファーザーのエドが91歳で大往生した。 16歳の時に転勤で日本に帰った私の家族に同行せずジュリアードでの勉強を続けた私を ホスト・ファミリーとして妻のジョーンと共に家族の一員として引き取ってくれた。 高校を卒業するまで一緒に住むと言う約束をはるかに超越して 大学に上がってからも成人してからも地下室には私のピアノを残して私の練習室とし、 2階には私の部屋をそのままにしてずっと取っておいてくれて、 祭日には良く「里帰り」をさせてもらった。   大岡和夫さんは私のNYの心の拠り所、親戚のおじさんの様な人だった。 最初にハワイでお会いしたのは多分2004年。 今年の6月22日に逝かれるまで12年間、 沢山の美味しいお食事と楽しい談笑と人生相談を一緒にしてもらった。 私がNYで行う演奏会にはほぼ毎回、奥様の早苗さんと一緒にいらしてくださった。 私も和夫さんの絵や彫刻が並ぶスタジオに良くお邪魔して色々感銘を受けた。 絵のモデルをさせて頂いた事もある。   そして今10月、松江で私のおばあちゃんが昏睡状態になってしまった。 90歳。 私には子供の頃からずっと「おばあちゃん」だったけれど、 私が幼児の頃はまだ人生半分の分岐点を通過したばかりの所だったんだなあ。 香港に転勤移住するための準備をするため、1歳になったばかりの私を母は実家に預けた。 何週間くらいお世話になったのか。 「郵便屋さんでもだれでも人が玄関に来るたびに挨拶をしに出ていく子供だった」と 何度もその話しを私にしてくれてはカラカラと笑うおばあちゃんは毎回 (不憫にも母親を探しているのでは)とか言った感傷を一切許さない口調で回想した。 自分自身の苦労人生を思わせるような明るさと厳しさを、私はそこに見る。 「人生の一番良い時を戦争に台無しにされた」とよく言っていた。 私が大病をする度に、退院後の療養生活は母の休養も兼ねて松江に帰った。 療養中の日課のお昼寝から起きるといつもおやつを用意してくれていた。 私がする病気はいつも滋養をつけなさいと言われ続ける、食事制限が無い物だったので、 美味しいものを一杯食べさせてくれた。 おじいちゃんがバイクを走らせて新鮮なお魚を入手して来てくれて それをおばあちゃんとお母さんがおろして 松江の宍道湖で取れるすごくおいしいお刺身をお腹いっぱい食べた。 お刺身もだけど私はおばあちゃんが作ってくれるあらの煮つけが大好きだった。 醤油が多めでしょうがが一杯入っていて、甘辛くて美味しいのだった。 おじいちゃんが亡くなってから十数年、カーブスと言う女性専用ジムの最年長会員になって 家事一般を全部ひとりでこなし、ヘルパーさんを拒絶し、好きな読書をしながら 本当に数か月前まで一人暮らしをしていた。 おばあちゃんは頑張ったのだと思う。   昏睡状態って夢は見るのだろうか。 おばあちゃんは何かを想ったり考えたりしているのだろうか。   私は松江の生協病院でお母さんに付き添ってもらって昏睡状態のおばあちゃんを想いながら ゴールドベルグ変奏曲を弾く。 ゴールドベルグは通奏低音の上をさまざまな30の変奏がそれぞれの世界を繰り広げ、 そして一番最後に一番最初のアリアがそっくりそのまま戻ってくる。 私たちもおんなじ。 私もいつかは死ぬ。

おばあちゃんと、ゴールドベルグ変奏曲 Read More »

音楽体験に於ける視覚と聴覚の分離、まとめ

本の序章と言うのは、大きな概念に満ちている。 その本その物が私の論文と密接な関係がなくとも、序章に開眼!することは良くある。 今夜読み始めている本の序章はあまりにも私の論文に直接関係ある概念が満載だった.   Deirdre Loughridge著、Haydn’s Sunrise, Beethoven’s Shadow: Audiovisual Culture and the Emergence of Musical Romanticism (2016)   この本は大体1760年から1810年の半世紀に於けるハイドンからベートーヴェンに象徴される音楽に対する美意識の移行をテーマにしている。この半世紀に、虫眼鏡、のぞきからくり、影絵劇、走馬燈などの視覚テクノロジーが浸透した。これ等は視覚だけでなく、間接的に聴覚への理解も助長し、さらに音楽に対する新しい見解を打ち出すきっかけとなった。ハイドンは自分が知覚するそのままの世界をいかに音世界で描写するか探求したが、ベートーヴェンに於いては感覚の延長、さらに感覚を超越した世界に何を想像するか、と言う音楽へと変わったのだ。(P.9)   ルネッサンスに印刷機が発明され、耳主体から目主体への文化へと移行した。しかし最近、現代社会を視覚的とする主流な味方に反して、聴覚も論理やテクノロジーに多大な影響を受けることを立証する研究が主にSound Studiesに於いて行われている。個人の主観的社会体験を視覚のみから見るのでは無く、それぞれの感覚を分けて検証する、と言うやり方は19世紀の生態学の確立から始まり、現代にいたっている。(P.9)   特にフランスのGrand Operaに代表されるオペラを始め、音楽と演劇を統合させた芸術分野に於いては、視覚と聴覚をそう簡単に分離して論じることは現実離れしていた。しかしドイツはその器楽音楽に於いて視覚に対する聴覚の優勢を論じた。これが後にドイツ・ロマン派に於ける音楽理想主義となるのだが、これには二つのルーツがある。 1.ルターの宗教改革などに代表される敬虔主義では聴覚が魂に通じる感覚としておもんじられた。 2.ロマン派の理想主義の哲学者たちが器楽音楽を言葉などの確固たる概念を超越した、それゆえにより『真実』に近い芸術の系統だ、としたこと。(P.10 )   1800年までにはすでに美学に於いて感覚の別離は主張されていた。純粋音楽、そして「音楽を聴くときは目を閉じる」と言うことへの奨励はここから始まっている。 1800 Johann Gottfried Herder “Spcae cannot be turned into time, time into space, the visible into audible, nore this into the visible; let none take on

音楽体験に於ける視覚と聴覚の分離、まとめ Read More »