September 2016

喋るように書く

ライス大学図書館の論文指導部で部長を務めるエリザベス。 経歴を見ると恐れおののくほど素晴らしい人だし、才色兼備。 その人がなぜか私の博士論文の過程に於いて物凄く協力な味方になってくれている。   普通は論文指導は文学部の博士課程の生徒などが行って、エリザベスはその全てを取り仕切ったり教授群と交信したりするのだが、私の論文には個人的に興味を持ってくれて「私が指導します」と言ってくれた。ストーカー騒動の一連で私のコンピューターファイルがバックアップも含めて全て破損されてしまった時、私はエリザベスの前でだけは泣いたのだが、その時も「こんな状況でも私にはあなたの明るさと強さが見える。あなたは大丈夫。書きつづけなさい。」と励ましてくれた。そして、私がエリザベスに電子メールの添付として送信していたそれまでの論文をくっつけて私の論文を再現してくれた。(その後、ライス大学のITチームが私の破損されたハードウェアからファイルを復元することに成功してくれたので、私は論文本体のみでなく、それまで取っていたノートなども全て戻って来た。めでたしめでたし。)   そのエリザベスはでも、私の事を面白がって買ってくれているのは分かるけれど、私の論文のまとめ方にはいつも難色を示す。「ほら、例えばここであなたは一つの見解を提示している。この書き方だと次にいくつかの例がだされるのかな~、と期待していると、この『見解はしかしこういう反対論に会うかも知れない』と来るからこんがらがっちゃう。」と本当に残念そうな顔をする。そして「ここは意味が分からなかった。この段落では何が言いたいの?」私が説明を始めると、「ああ!分かった!」と実に晴れやかな顔をしてくれる。   この前は「口で説明してもらうと本当に良く分かる。でもあなたの書き方は本当に分かりにくい。わかった!こういう実験をしましょう。このセクションであなたが言いたかった事を口頭でしゃべって、それを録音したモノを自分で聞きながらタイプして頂戴。それを私に送ってくれる?そしたら私があなたの口頭の説明と文章のどこにギャップがあるか、書いて見せて上げます」   そこで私は図書館の「グループ・スタディー室(机、いす、プロジェクター、ホワイトボードとマーカー、テレビモニターなどが設置されていて、ある程度の防音処置がされ、中で議論しながら勉強出来るようになっている)」を一人で借りて、(ちょっと恥ずかしいな~)と思いながら、自分のスマホにぼそぼそと語りかけ、それを文書に起こすと言う作業を行ったのである。これは難しかった。エリザベスは自分では意識していないのかも知れないが、私の説明中に実に積極的に質問してくるのである。「え?今のはどういう意味?」とか「今あなたが言った事はつまり、こう言う事?え?違うの?じゃあ、こう言う風には言える?例を挙げてみて?」それで、私はエリザベスが不明に思っている点が明確になってくるので、そこを中心に説明が出来る。それにエリザベスは自分が納得するまで許してくれない。   私は自分が何が言いたいかは、かなり明確になって来ている。19世紀の鍵盤楽器奏者の暗譜と言う、物凄く限られた議題に関しては、私が今世界で一番物知りかも知れない。これが学術論文でなければ、自分の主張とか歴史的事実に一々出展先を明確にしなくて良ければ、エッセーでよければ、「明日にでも出版できる!」と思う。だからエリザベスの様に興味を持って熱心に聞いてくれる人相手にならいくらでもべらべらしゃべれるし、色々な視点(例えば:歴史・社会背景・女性問題・人種差別問題・工業革命・技術工学の発展・19世紀ヨーロッパ都市化・社会革命・経済・政治)から暗譜の起源について語れる。   でも、私は音楽学の専門で無い。どんな分野でも学者になるべくして正当的な教育を受けてきたわけでは無い。むしろ、ピアニストになるためはそんなものは無駄とする音楽学校の文化の中で勉強しないで練習だけした来た。そしてこの論文は音楽学の専門家に何とか許容してもらえるように背伸びして書いている。一文書くと(ああ、しかしこう言う角度から突っ込まれるかも知れない)と思ってしまい、その反論に先手を打っておこうと思って書き足していると、論点がずれてしまう。さらに、私の言おうとしていることは証拠が少ない。そして私には、私の言う事に自動的に箔をつけて来るかもしれない学者としての経歴が無い。だから、言葉を連ねて論理の様な屁理屈をこねたくなってしまう。だって、私がリサーチのために読んでいる19世紀のドイツ人はそうやってるし。   しかし。 私がこの論文で達成したい一つの目的はクラシック音楽に付随する「裸の王様」現象を暴き、「王様は裸だ!」と言う事である。それは、願わくばクラシックをより一般的に、より親しみやすく、より音楽本来の姿に戻す事、である。リサーチを通じて、クラシックに付随するエリート主義が19世紀のドイツ・ロマン派の理想主義(それはドイツの国粋主義、アーリア人種優勢主義にもつながっているように見える)に密着しているかがどんどん分かってくる。そしてこの19世紀のドイツ人たちは、自分が良く分かっていないことを、沢山の難しい言葉を使って煙に巻いて片づけてしまう、と言う事を良くやっている。ヘーゲルは「音楽の事はあまり分からないが」と言いながら「音楽がこうだ、ああだ」と色々論じて、それがそのまま音楽理論者や批評家や音楽学者に今でも物知り顔で引用されてしまっていたりする。   私は、私のコンプレックスを理由に同じ言葉で煙に巻いて自分を隠すことをしてはいけない。簡潔に自分の論点を、音楽専門で無い人にも通じるように書く。

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最近盛りだくさん!

最近、なんかすごい事が多い。   一週間前は副大統領のJoe Biden氏とその妻のJill Bidenがライス大学に来て、癌激減対策「Cancer Moonshot」についてのスピーチを行った。開会宣言とJoe Bidenの紹介でブッシュ大統領とレーガン大統領の国防長官だったJames Bakerもスピーチをした。2015年の5月30日に長男を亡くしたJoe Bidenは大統領選に出馬するのではなく、このCancer Moonshotのプロジェクト・リーダーになることを選んだ、とスピーチで説明。しかし、その理由はただセンチメンタルな物では無い事を、緻密な計画を発表することで明らかにした。末期がんの宣告を受けた息子の闘病に伴って学んだ事の多くに、医学研究の一般的な不透明さ、発表までの手続きの大変さ、等を上げ、政府介入が不可避、と感じた、と言う。まず進行中の研究でも日ごとにその経過報告を公開することを義務付ける事。さらに、儲け優先の薬品会社には隠す理由が多い試供薬品のトライアル結果(成功している結果は市場調査などをしてから、失敗した場合は会社のブランド名が落ちるなど)を、すべて公表することを義務付ける。Joe Bidenは熱情的で、そして本当に父親としての心痛を人類愛に置き換えたような感じで、本当に心を打たれた。   さらに9月6日になんか変ないきさつで変な映画に出演してしまったポスターが私に断り無くFacebookに挙がったのを発見したのも今週。どうしたら良いのか…まあ、大して害はなさそうですが。 私の名前が「映画音楽」の所に出ているのも、変。 まあ、気にしないのが一番かも。   そんな事は小さなことで、次に大きいハプニングは昨日の朝。 自身が継父による家庭内暴力の経験者として育ち、そのあまりのひどさに13歳の若さで兄と殺人さえ試みたと言う凄い経験を持ちながら、その後警察のキャリアを通じて家庭内暴力撲滅に務め、数々の勲章をもらい、ついには大統領のアドヴァイザーにまでなったMark Wynnと言う人がライス大学にレクチャーに来て、これも聞きに行った。これも非常にパワフルだった。昔はレイプされた人が「ウソの通報をした」として逮捕されてしまったり、彼自身が被害者の時代(1960年代)には家庭内暴力を受けて通報したら「これ以上夫婦喧嘩で通報して来たら、逮捕しますよ」と言われてしまったりしたらしい。『女性は感情的で証言があてにならない」とか「家庭内暴力は殺人や強盗に比べて軽犯罪」と言う偏見が強かったのが原因だったが、実は統計を取ると、家庭内暴力は通報の大部分を占め、殉職する警察は家庭内暴力の通報で死ぬことが多く、さらに家庭内暴力を振るう人は外でも犯罪を犯す可能性が多い事が最近明らかになった。また最近、十何年も放っておかれた何千と溜まったレープキットが倉庫にある事が明らかになり、それを調べ始めたら、80人の連続レープ犯が一挙に検挙された、とか。いかに昔は被害者に対する偏見が強かったか、しかしいかに政府・法廷・警察・コミュニティー共に改善の努力を続けているか、と言うお話しを早口で情熱を持って語り、こちらも胸が熱くなった。   そして今日と明日は演奏会! アジア人女性の指揮者。この人は本当に好感度が高い。腰が低いのだけれど、しっかりと自分の意思と思いが伝わり、みんなニコニコで楽しく連帯感を高く持って演奏できる。この人を見ていると(指揮者になるのだったらこういう指揮者になりたかったな~)とすごく思う。   !   私が弾くのはショスタコーヴィッチのバレー組曲4番。ピアノとチェレスタの間を行ったり来たり素早く、時には激しく移動しながら、結構弾きまくり。 今夜8時は野外コンサート(Miller Outdoor Theater at Hermann Park)。 明日はシーズンオープニングのガラが5時から。 その後すごいゴージャスなカントリークラブでドーナーとの夕食会! 楽しみ。   音楽人生万歳!

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生産性を高める環境・努力・自主性

最近しばしばスタバで論文を書いている。   昔は「スタバで勉強する」と言う人がいると(なんで?)と思っていた。 私はスタバの値段設定も、 そのいかにもチェーン的なメガ・ビジネスでローカルなお店を威圧する感じも、 世界中どこでも似た様なお店の雰囲気も、(良くない!)と思う。 第一私はコーヒーに弱い。 味に関しては不覚にも最近「クワッ!おいし~い」、と ビールを飲んだおやじの様になってしまう時もあるが、 コーヒー(ただのカフェインとは違う気がする)が入ると、 明らかに早口になり、自分に不信感を抱くほど社交的になる自分にいつもびっくり。 そして数日続けてコーヒーを飲んでしまった暁には必ず夜中に目が覚めるようになる。   それなのに「スタバで論文を読むのが好き」と言う友人に付き合って行ってみたら、 びっくりするほど集中して捗ってしまったのが半年ほど前。 最近は忙しくって日中全然論文に費やせなかった日には、 帰宅後にあわただしく文献をまとめて閉店まで2時間だけスタバで論文、 とかそう言う事もやっている。 3日、4日と続けて連日色々な地域のスタバ巡りをしてしまう事もある。 自分が賛成しないビジネスモデルに消費者として貢献してしまっている。   なぜ? 単純計算だと、移動時間が勿体ない。 夜にコーヒーは私は絶対飲めないので頼むのはハーブティー。 そんな物、家でも飲めるから、お金も無駄。 さらにスタバのコップも蓋もエコに悪い。 それに私が今使っている文献は広範囲にわたっていて、それを担いでいくのも難。   でも絶対に家にいたら出来ないレヴェルの集中度で 同じ2時間の密度が非常に高まるのだ。   同じことが練習についても言える。 私のアメリカン・ファーザーのエドが亡くなり、アメリカン・マザーのジョーンが家を売って ずっと置いてもらっていたピアノをヒューストンに引き取ったのが今年の2月。 合わせ鏡で自分の姿勢を観察しながら練習できるように工夫したり、 近所迷惑を考慮して厚いじゅうたんを敷き詰め、ご近所に挨拶に行き 最初は(やっと練習室通いから解放された~、これからは書きながら練習!)と 本当にワクワクして色々試行錯誤していたのだが、 気がつけば朝一で学校の練習室で練習してから論文と言う生活に逆戻り。 「練習が煩いかもしれませんが」と、しばらく前にCDを持って挨拶に行ったら 「音楽大好き!時々かすかに聞こえる音楽はあなただったのですね! もっともっと沢山練習してください!」と涙が出るほどありがたいお言葉をくださった 隣のステイシーが心配して日曜日に様子を見に来るほど、 家で練習しなくなってしまった。   勿体ない。 そして心配。   私はもうすぐ論文を終えて卒業する。 そしたら私の超長年の練習室生活ともおさらばなのである。 そして私は卒業したら今よりもさらに生産的に執筆も練習も演奏も続けるのである。   ここは考え時。 なぜ、練習室やスタバの方が自分の生活空間でよりも集中できるのか。  

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音楽性を教える。

教えていて「通じた!」と実感する時がある。   昨日教えたFちゃんは、多分とても頭脳明晰なのだけれど、とっても控えめな女の子。 毎週頑張って練習してくるのだけれど、 レッスンを始めたころは弱音で弾く事に戸惑った。 「腕を使ってみよう!」とか、「強弱のコントラストを大げさに」とか 「演劇をやっているつもりで」とか、「私をびっくりさせて!」とか思いつく限り言ってみたけど。 数週間頑張ってダメだったので最後に「Fちゃんはなんでそんなにソッと弾くの?」と尋ねたら 「お家に赤ちゃんが生まれたので、大きな音を出すと起きちゃう」と言われて涙してしまった。 こんなに小さいのに。もっとわがままで良いのに。   でも赤ちゃんも成長して、Fちゃんもその頃よりずいぶん元気になって、 最近は物凄くしっかりとした音を出せるようになった。 でもスタッカートが書いてあると、なぜ?と考えずに一生懸命スタッカート。 フォルテと書いてあると、やっぱり一生懸命フォルテ。   昨日はアルペッジョの時に「ドミソッドミソッドミソ!」と 親指をくぐらせるために正直に元気よくぶつぶつ音を切ってしまうFちゃんにこう言ってみた。 「音楽と言うのはプレゼントなんだよ。 大事なお友達にプレゼントする時はどうやったら喜んでもらえるか一生懸命考えるでしょ? 自分が出来る一番の事をしてあげた方が自分も一番嬉しいでしょ? だから一音一音どうやったら一番きれいに弾けるか、 プレゼントをするつもりで一生懸命考えて?」 そして親指をくぐらせる前にソの指をラにぎりぎりまで押し当てて ドまでの距離を最短にして、出来るだけ音と音のギャップが小さくなるように工夫すること、 そして♪ドミソドミソドミソ~♪と、なめらかにクレッシェンドを付けて気持ちを高めること、 その時に手首の動き、手の動き、指の動きがバレリーナの様に音形を表現すること、 そういう事を細か~く、それこそ私からFちゃんへのプレゼントのつもりで丁寧に教えた。   そしたら別人かと思うほど音楽的に弾いたのだ! びっくり。 この「音楽はプレゼント」と言うのは私の幼少の頃のI先生の受け売り。 4歳からご指示いただいた先生には渡米する13歳までみっちり教えて頂いた。 その最初の方のレッスンで 「一つ一つの音をプレゼントだと思って。 綺麗な包装紙に包んで大事に送り出してあげてね。」 と言われたのを、今でもちゃんと覚えている。   こうやってプレゼントはリレーの様にみんなを幸せにしてくれる。 I先生、ありがとうございました。 Fちゃん、ありがとう!   音楽人生、万歳!!  

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リサーチしながら突然信念を発見して感動。

今までは、書きながら次に書く事を暗中模索で文献を読みながら行き当たりばったりで一つの論点から次の論点へと進んでいった。しかし、最近すいすいと文献を読んで理解して頭の中で整理できるようになった。今最終章を書くにあたって書く事の大きな論点とその論議の進め方は大体わかった状態で書き進んで行っている。これは全く違う作業である。   私が最終稿で言おうとしていることはこう言う事である。   まず、「崇高」が人間の知覚を超越する圧倒的な質を持ったものとして、じゃあ音楽も目に見えない物=暗譜をするべきもの、とイントロで書く。   その後イントロに続けて、クララ・シューマンのベルリンに於ける1837年の「熱情」のソナタの暗譜演奏について書く。1837年までにはかなり多くの暗譜の記述がある。クララ自身も子供の時から暗譜で弾く事が当たり前だったし、13歳の演奏の時から暗譜に関する批評での記述もある。ヘンゼルトの暗譜忘れの記述(1832)さえもある。しかし、多くの人がこのクララの1837年の「熱情」を「最初の暗譜による公開演奏の例」としている。しかもこの演奏はBettina von Arnim (15歳の時のゲーテとの文通などで有名。色々した当時の文化に物凄く影響力を持った、物凄く興味をそそられる人物)の「なんて高慢で思い上がりな!楽譜なしで弾くなんて!」と言うコメントと共に引き合いに出されることが多い。しかし、私はかなり調べたのだが、Bettinaのコメントは出版されたものではなく、個人的なモノで、しかもどこに彼女の言葉の記録が残っているのか私にはまだはっきりと分からない。なぜ数多いクララの暗譜演奏の中でこの「熱情」が重要なのか?そしてなぜ、Bettinaのこのコメントがいつも出てくるのか?この質問応答によってこの章の論点を紹介する。   1.暗譜そのものが「高慢で思い上がり」とする考え方は昔からあった。暗譜で演奏すると言う事は他の人が作曲した曲をあたかも自分の即興演奏とわざと聴衆に思わせようとしている、と思われた時代もあり、暗譜した曲でも楽譜を使っているふりをした、と言う記述もある。しかしこの時代になると暗譜は割と普通。偉大とされる作曲家(モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、バッハとヘンデル)と彼らの作品に於いては特に、演奏家の役割がどんどん矮小化されていた。E.T.A. Hoffman(この人も面白い。『くるみ割り人形』など象徴性が多分にある幻想的な物語を沢山書く一方、音楽批評も沢山して、ベートーヴェンを「崇高」とするのに一役買った)の有名な『運命』の批評は、総譜を読みながら書かれている。この批評を書いた時点でE.T.A. Hoffmann が実際に『運命』の演奏を聴いた事が在ったかさえ定かでない。それまでは演奏と言う行為に於いて音楽が存在するとされていたが、19世紀になってくると総譜そのものが芸術作品となる。それを楽譜に忠実に現実化する演奏家は、作曲家に対して従する存在。そこに創造性は無いとされ、どちらかと言うと儀式を司る司祭の様な、神の声を代弁する「お筆さき」の様な存在。だから楽譜を追ってはその神聖さが失われる。さらにこの頃主流になってきた「音を本当に聴くためには目を閉じることが必要」と言う、当時の知覚に対する科学的研究に基づく一般的な信念を引き合いにだして、暗譜の浸透を論じる。   2. 1837年のクララの『熱情』の演奏は暗譜だっただけでなく、3楽章通しての演奏だった。これを「高慢で思い上がり」としたのであれば、この演奏に象徴される新しい演奏様式について注目するきっかけに成る。19世紀の初頭までは楽章をそれぞれ独立して演奏することが多かったのだが、ベートーヴェンを『崇高』とする動きが出てくると、全体像や曲の構築が分からずに音楽が分かる訳がないと主張する批評家が出てくる。A.B. Marxが筆頭に挙がるこの批評家のグループはまず楽章は通して演奏するべきとして、それから一回聞いただけで分かる訳が無いので何回も繰り返して同じ曲を演奏することが好ましいとした。ベートーヴェンの音楽を精神や道徳のために良いものとしたA.B. Marxに象徴されるドイツ音楽優勢・崇拝の文化的背景と、そのために暗譜をするべきとなる流れについて検証。最後に3つ目の論点へのつなぎとしてA.B. Marxが「作曲家だけでなく、聞き手としてでも演奏家としてでも音楽と本当の関係を持とうとする者は、みんな作曲法を勉強するべきだ」として書いた作曲教則本について言及。ところがここでジレンマは女性は当時音楽学校にピアノ専攻で入学することは許されても作曲専攻で入学することは許されていなかった、と言う事。さらにピアノ演奏専攻で入学しても高等音楽理論や指揮などのクラスは取る事を許されなかった。女性ピアニストはじゃあ、どうすれば良かったのか?   3.「高慢で思い上がり」がクララが女性だったから、と考えるとこの時代の全く違った社会背景に注目することになる。ベートーヴェンは音楽を男性的なモノにした。ベートーヴェンは知的。そしてベートーヴェンは技術的に演奏が困難で彼の演奏をするピアニストは状態をかなり大きく動かしたり「女性的でない」動作をすることを強いられる。しかし当時女性ピアニストはどんどん進出していた。「創造力に欠乏する」とされていた女性だが、男性が書いた曲を再現する事は許されたのだ。そして女性ピアニストの中にはベートーヴェンを演奏するものが出てくる。   さて、今やっていることはこの論点にどんどん肉付けをすること。前の様に「これが書いてあったのはどの文献だったっけ?」と探す時間もほとんどなくなったので、もう本当にどんどん書ける。でも時々手が止まる。斜め読みしていたところをもう一度読み直してその重要性に気が付き、自分の論文に関係無くても感銘を受けて感じ入る時である。今読んだのは、これ。   Scott Burnham著「Beethoven Hero」Princeton University出版(1995)の最終章、152頁 意訳します。(英語の本文の引用は下です。)ベートーヴェンの交響曲に於いて、聴衆は共感を通じて普遍的な連帯感を感じる。言葉を超越した、しかし強烈な表現が、万物へと通じる道徳教育となる。この、音楽に於ける倫理観と言うのは、当たり前の事、言及するまでも無い事として、現在の音楽楽理の分析や評論家によって無視されて来た。その結果、ベートーヴェンの音楽に私たちが同時に投影する「自我」と「万物一体の念」は全く語られない、ほとんど意識されない物となってしまった。しかしだから下手に検証されることなく、言葉で壊されることない、揺るぎない基盤ともなった。このメッセージ性の代わり に構築や和声を論じることで、音楽分析家や評論家は強いメッセージ性を持った音楽の伝統を続けているのである。論じられてしまう危険性が無いこの人間的な側面を私たちは古い宗教の様に大事にし続ける。 …the audience is united in sympathy, and something like universal brotherhood is felt. …Beethoven’s symphonic music, which, when understood as a moral force unmoored to

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