August 2016

書評:「Sound Unseen」「Music, Sensation and Sensuali」

ここ二十年来の音楽学は変貌を遂げて来ているそうである。 最近では作曲家とその作品、それらに関する当時の哲学的・分析的言及のみならず 当時の演奏者や聴衆に関する研究、アマチュア音楽愛好家の活動や、 音楽家のパトロン、音楽産業の市場事情など、さまざまな角度から 実際の音楽活動がいかに行われ、いかに受け止められていたのか、 研究が進んでいるそうである。 だから私の博士論文のトピック「ピアノ演奏に於ける暗譜の起源」は「ホット!」なんだそうだ。   そう教えてくれたのは、去年ライス大学の音楽学助教授として就任して来たキーファー。 彼女の専門は、19世紀終焉から20世紀初期にかけてのフランスでの科学の歴史、五感の歴史がどのようにドビュッシーの音楽に於ける自然主義へと発展したか。 彼女が、私が先日ブログに書評を書いた「ロマンチックな演奏解剖学」を勧めてくれた。 http://ameblo.jp/makikochan6/entry-12186148890.html   その彼女が次に勧めてくれた本がこれ。 Brian Kane著、Sound Unseen: Acousmatic Sound in Theory and Practice (2014)   ピタゴラスはカーテンの後ろで講義をした、と言う伝説があるらしい。 音源の見えない方が、聞き手が音や音の伝達する情報に集中する、 と考えたピタゴラスの工夫だった。 カーテンに隠れて講義するピタゴラスに耳を傾けた聴講者を ギリシャ語で当時Akousmatikoiと呼び、 それが「音源が見えない、音源が明らかでない音」と言う意味の英語、Acousmataになった。 Acousmataの例は宗教的な逸話や、科学が発達する前の自然現象など、色々あるが 引き起こす反応は大きく二つ。 1.音源を明かそうと躍起になる。 2.恐怖心、好奇心、畏怖の念、宗教心などに満たされる。(「崇高」?)   これは、私の論文に直接使える! 「音源」を楽器や奏者とせずに「楽譜」として(これはベートーヴェン以降の絶対音楽に於いて19世紀ごろから出回り始めた不思議な概念)、楽譜を使わずに暗譜で行う演奏を「Acousmata」=崇高とする。 …どうだ~~~!   イェール大学で教授を務めるBrian Kane博士はこのピタゴラスの伝説が実は事実無根である事をまず解明し、なぜこんな伝説が出来たのか伝説の歴史的重要性を追求するなど、音楽学者では無いの?と言うような緻密は研究で本の最初の章を始めたりするのだが、私はそこは読まずに割愛。その後、本は録音の市場、BGMの氾濫、電子音楽へと飛躍。そこも私はスっ飛ばす。   私が興味あるのは4章目。見えない音楽、演奏の要素から切り離された音楽は「絶対音楽」。それを正しい状態で正しく聴いた人間は、超越体験をすることが出来る。ワーグナーはバイロイトの自分の「総合芸術」を演出するオペラ劇場でオペラを完全に客席から見えないように、角度とピットの蓋に工夫をした。しかしその前にすでに18世紀末から「目をつぶって音楽体験」と言う記述は絶対音楽に於ける崇高の概念を打ち出した物書き、Wackenroderなどによって提示されていた。などなど...   この本にもKantやSchopenhauerが沢山出て来るのだが、この本は焦点がはっきりしていることと、KantやSchopenhauerの引用がトピックにはっきりと関連性がある事などから、とても読みやすかった。それにしてもこの人は歴史・哲学・電子音楽と実に多様な事に言及している。なんだかスーパーマンに思えてくる。そして私よりも5年くらいしか年上じゃない。ガーン。   キーファーの他に、私は最近、物凄い学者さんと親しくなってしまった。 先週私が講師として参加したArtsAhimsaと言うアマチュア向けの室内楽音楽祭で ヴァイオリンの受講生として参加していた女性が実はコロンビア大学やバーナード大学の教授をし、色々な財団から受賞をしているすごい人だったのだ!ミルクの歴史的背景や社会背景を中世から現代にいたるまで描いた本を2011年に出版している。ArtsAhimsaの図書館にあったその本を私は音楽祭滞在中に二章ほど読んで「この人は凄い!」と思い、自分の博士論文についてアプローチした所、意気投合してしまい、文献の紹介や意見交換など物凄く話し込んでしまった。でも私は博士論文を書いている学生。向こうはアイヴィーリーブの教授。年齢も一回り違うし…と、ちょっと遠慮していたのだが、音楽祭から帰宅した翌々日、とっても長いメールが来て、私との意見交換がいかに新鮮だったか書いてあったのだ!そしてもう一つ文献を紹介してくれた。   Linda Pyllis Austern編、Music, Sensation and […]

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お城での一週間を終え、現実に戻る前の回想

私が一週間過ごしたお城の外装・内装、 そして40エーカー(東京ドーム3.5個分)の敷地内に点在する プール、劇場、野外劇場、4面テニスコート、バレースタジオ、アートスタジオ、など その豊かさが、下のリンクでご覧いただけます。 https://www.google.com/search?q=belvoir+terrace&biw=1280&bih=598&source=lnms&tbm=isch&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwi8_t3Vyt_OAhUFOCYKHepEBDgQ_AUIBygC   夏の8週間、女の子用のキャンプとして開放されるこの豪邸は、 女の子のキャンプが終わってから一週間はアマチュア用の室内楽音楽祭に変身。 私はここで一週間、講師としてアンサンブルのコーチングや演奏などをしたのです。 http://www.artsahimsa.org/events/fest/index.htm   その別世界の様な環境よりさらに感銘を受けたことをいくつか、 今日は回想させてください。   まず、参加者全員の音楽を愛する気持ち。 全員楽器奏者で、レヴェルは全くまちまち。 中にはセミプロ級の人も居ます。 例えば鈴木メソードに感銘を受け、 研究歯科医として活躍していたキャリアを30台半ばで辞めて ヴィオラの教師として何十年も地域貢献をした女性も生徒として参加して7年目。 ピアノは幼少から弾いていたものの、40代半ばで室内楽の面白さに目覚め、 離婚の危機に瀕するまでにも寸暇を惜しんでのめり込んだと言う 初見ばりばりで音楽性も豊かなセミプロ級の腕を持つ女性も居ます。 その一方では数えることも音程を取ることにも一々苦労している、 でも目をキラキラさせて一生懸命頑張る人達も堂々と演奏を披露します。 最後の2日間は午後と夜に発表会があります。 参加演奏は義務では無いのですが、弾きたい人が多すぎて演奏会は3時間を超すことも。 よたよたと今にも止まってしまいそうな演奏には会場が一体となって (頑張れ!)(もう少しで終わりにたどり着く!)と手に汗を握ります。 何故か、全然飽きません。   なぜ飽きないのか。 なぜこれらの音楽会が私にこんなにも新鮮だったのか。   この音楽祭に着いた翌々日、 一晩抜け出して聞きに行ったタングルウッド音楽祭での演奏会が対照的に思い出されます。 世界終焉をテーマにしたメシアンの「時の終わりのための四重奏」を完璧に、 でも無表情に弾きこなしたボストン交響楽団の奏者たち。 燃え尽き症候群は、オーケストラ奏者の間で蔓延する問題の一つです。   もう一つ、このマラソンアマチュア演奏会で思った事。 18・19世紀のサロン演奏では、いわゆるアマチュアがプロに混ざって演奏や共演しました。 音楽を愛でると言う典雅な時間。 それは時空を超越するものなのだ、と実感しました。 多分意図的に、この豪邸では無線インターネットが使える場所が限られていた。 居間では使えるのですが、ここでメールチェックなどをしていると 色々な方との社交を無視して作業に集中することはほぼ不可能。 と、言う事でブログ更新もままならず、メール返信も遅れたのですが、 でもそのためにこの「音楽を愛でる」と言う典雅な姿勢が取り戻せた様な気持ちもします。   最後に。 この音楽祭に参加していたアマチュアの音楽愛好家たちは実に面白い方々が多かった。 特に私が触発されたのは、アカデミアで活躍する女性たち。 芸術に関する法律を専門に教えているヴァイオリン奏者。 貧困層に手軽に歯科衛生を保ってもらえるために活躍する歯科医。

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お城に住んでます。三日目

タングルウッド音楽祭が開催されるBirkshireにあるお城、Belvoire Terrace. ここで開催されるArtsAhimsaに演奏と室内楽のコーチングをしに来ています。 着いた日には、口があんぐり…お城~なのです。 このホームページで写真が見れますが…来てみないと分からない。 http://www.belvoirterrace.com/history.php まずそのメイン・ビルディングがまさにお城。 女の子が良く「お城」の絵を描く時に必ずある屋根のギザギザがある! そして中はステイン・グラスや、壁のいたるところに木の掘り込みのデザインや、 パイプオルガンや、大理石の暖炉や、ティファニー?と思うようなランプシェードや… そして40エーカー(東京ドーム3.5個分)ある敷地内には アート用のアトリエ、ダンス・スタジオ、グリーンハウス、など計18の建物。 そのほぼ全ての部屋にピアノが居れてあります。 ここで行われているのはアマチュア音楽家のための音楽祭。 レヴェルはピンからキリ。 子供の頃は音楽家を目指して勉強したと言う、初見もばりばりのツワモノから 65歳になってずっとやりたかったチェロのレッスンを始めたと言う81歳の女性まで。 講師として来ている人は「生徒」として来ている人の数とほぼ同じですが、 そのレヴェルもピンキリ。 学部を終えたばかりと言う初々しいヴィオラ奏者も居れば、 かなり名前のある音楽学校の教授も、すでに引退しているオケ奏者も居ます。 ここで「プロとアマとの音楽共演」と言うのがこの音楽祭の謳い文句。 何故かアマチュアの人には医者、弁護士、大学教授と言ったいわゆるエリートが多く、 思いがけなく私の博士論文のトピックに興味を持ってもらって論議になったりもします。 音程がおぼつかないチェリストはでも、メンデルスゾーンの三重奏を感激しながら私と弾いて 「I feel like I died and went to heaven」と涙を浮かべながら言ってくれました。 日本では「天国に上った心地」と言いますが、 英語では「死んで天国に行った気持ち」となります。 これは81歳の方に美しい青い目でじっと見つめられて言われると、 何と返したら良いか分からなくなります。 音楽とは何か、富とは何か、考えさせられます。 お城を持っていても、夏の数か月しか使えない。 なぜなら、厳しい冬の光熱費が膨大な経費となるからです。 しかし、夏の数か月のために建物のメンテ、広大な庭の手入れ、 そして税金の支払い…光熱費が無くても膨大な経費になります。 これを効率よく使いこなすにはどうすれば良いのか? そう思って考えはじめると、使いこなされていない財産と言うのは世界にいくらでもある。 片方では家を追われ、難民やホームレスとしてコンクリで眠る家族がいるのに、 もう片方では一年に数か月しか使われない豪邸がある。 そしてこの近所はこういう別荘として使われている豪邸が非常に多く、 この様に音楽祭や何等かのコミュニティー開放をしているところは非常に少ない。 こういう何十エーカーの土地に家族だけ住む人々も居る。 その寂しさ、虚しさ。 私だったら、悲しくなってしまう。 今夜は演奏会があります。 私はガーシュウィンの前奏曲を弾きます。 他にはピアノトリオ、メンデルスゾーンの8重奏、モーツァルトのクラリネット五重奏など。

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旅行大好き

空港のフードコートで、 スタバのアールグレーにシナモンと蜂蜜を入れて飲みながらブログ執筆中。 朝の8時の幸せ。 アレルギーが出るほど一人旅が嫌いで、 実際に飛行機内に使われている洗剤か何かで発疹して 天才的な物凄い才能にも関わらず、ソロ活動を辞めてしまった私の友達もいるけれど、 私はそう言う意味では物凄く音楽人生に向いている。 何が良いって、旅路では全てが新鮮に感じるところが一番良い。 いつも飲んでるアールグレーだけど、そしてスタバの行列は相変わらずだけど、 搭乗時間まではまだちょっとあるし、今日はシナモンと蜂蜜とちょっぴりのナツメグを 丁寧に混ぜ込んで、ミルクを投入して、 そしてゆっくりとカフェインが早朝の覚醒マジックを私の脳にかけていくのを感じながら 最近の事、子供の頃の思い出、そしてこれからの事に思いを馳せる。 人間観察も面白い。 赤ちゃん連れ、一人旅、学者タイプ、遊び人風。 先週のLA行きの飛行機では、私たちの後ろに多分飛行経験のあまり無い人が座った。 この人はちょっと機体が「ガクン!」と揺れると「Oh no, oh no…」と独り言を言い、 着陸の際には「Here we go…here we go, yes, yes, yes!!!」と大興奮をし、 タッチダウンで一人で拍手喝采をし、つられて機内で拍手が起こった。 そう言えば私たちがまだ子供の頃は着陸の度にいつも機内中みんなで拍手をしたよな~。 どんな時でもどんな事でも、感動できるって素敵。 そして、何でも新鮮に感じられ、感動してしまうから、旅って大好き。 音楽人生、万歳! 今夜はボストンで一泊します。

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練習の是非:強行軍の中休み

乾燥機が規則正しく洗濯物を回す居間の外で、雨が静かに降っている。 時々、雷が遠くで転がる。 メンデルスゾーンの二楽章を復習する合間に バニラとグレープフルーツ風味の白茶をすすりながら(ああ至福)と思う。 木曜の午後の締め切りぎりぎりまで論文のリサーチと執筆に没頭し、 翌朝、日の出前にLAに向かった。 昨日の夜中過ぎにカラカラに晴天のLAから帰って来て、 明日からマサチューセツ州の音楽祭で演奏と講師。 今日一日ヒューストンで、中休み中の実に久しぶりの練習。 「一日何時間位練習されるのですか」とよく聞かれるけれど、 今週は「一週間何時間?」だな~、と思う。 そして鍵盤の感触、楽譜を読むと言う行為、ピアノの音の新鮮さ、 メンデルスゾーンの素晴らしさに、一々感動している自分を発見する。 練習しすぎると感動が亡くなる。 19世紀の練習に対する考えは大きく真っ二つに分かれた様だ。 片方では「一日18時間!」と謳うピアニストのグループが在った。 ヴィルチュオーゾ・スーパースターのリストは、 パガニーニの超絶技巧に打ちのめされ 「3度、6度、トレモロ、オクターブ、連打などの技巧練習だけに一日4-5時間」かけ 気が狂ったように一日中練習したそうだ。 生徒にも同じようにスケールのみに3時間かけることを進めたりし、 (ただし、強弱や調性を色々変えながら) 退屈さを紛らわらせるために本を読みながら練習すると良い、と進言までしている。 ヘンゼルは聖書を読みながら一日10時間バッハを「音無し鍵盤」で練習し、 ドライセックは一日16時間の練習をこなした、とされている。 彼らが目指していたのは、意識しなくてもどんな技術でも弾きこなす手、である。 手(や技術)と意識や音楽性や個性を切り離して考える考え方には 彼らなりに当時の医学や科学で論理付けをしていたらしい。 ロバート・シューマンは、自分の手に「宣戦布告」までしている。 この「練習すればするほど良い」と言う「質より量派」の考え方は 少なくとも一部は工業革命の結果、と言えるのではないか。 「分析可能なら量産可能」と言う考え方の元、 兎に角量や数をこなす事によって究極的に質の向上まで持っていく、と言う考え方。 音楽教育では練習の補助のための機械(メトロノーム・指をつるし上げる機械、など)が 一時はプロシアの学校に配布されたり、 グループ・レッスンが行われたり、ピアノ教則本が爆発的に売れたりした。 ピアニストも量産可能なのか? 一日十時間練習するえば、誰でもヴィルチュオーゾになれるのか? …それだと、「ヴィルチュオーソ」の希少価値が失せ、 ピアニストの芸術性に関する疑問符が湧いてくる。 「質より量練習派」に相反する考え方だったのが、 「一日3時間以上の練習は無駄」派。 こちらにはショパン、 クララ・シューマンの音楽教育を全て管理したクララの父親、フレドリック・ヴィーク、 そして大人になって独立したクララ自身、等が居る。 クララの父親は「自然に帰れ」のルソーや教育論者のパスタロッツィの概念を受け 「感覚で最初に学び、その後知覚する」や「人間全体を見た音楽教育」を謳い、 クララが幼少の頃から3時間の練習のほか、3時間の散歩(早歩き)を義務付け、 もう少し成長してからは、その他に芸術鑑賞や作曲の教育など、を実行した。 (その代り、学校は「時間の無駄」とされ、クララはほとんど通わなかった。) 諸事情から、成人後家族の大黒柱となって教育活動や演奏活動を手広く行ったクララが 自分の子や、孫の養育まで手掛けていたのを考慮すれば、 彼女は一日10時間も練習する贅沢を許されなかったことは明らかだが、 その上彼女は膨大な量の日記や手紙を執筆している。 この二つの考え方の根本には、「何を『崇高な』芸術とするか」と言う事があると思う。

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